『ラーマーヤナ』御礼

水の上に住む家なく
地の上にも住む家なく
空の中にも住む家なし
霊魂よ けがれなき神の道をすすみ
神の御前に辿りゆけ
永遠の光 神の御前に輝く

(レグルス文庫『ラーマーヤナ』より)

こんにちは。ミラバイです。昨日、大阪での『ラーマーヤナ』の語り芝居&キールタンWSが、おかげさまで無事に終わりました。初めての方やヨーガ・瞑想クラスに来られている方、久しぶりの方なども参加してくださり、年明けにふさわさしく新鮮で楽しい会となりました。

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『ラーマーヤナ』の語り芝居は約3年ぶりです。今回改めて私自身も久しぶりに物語に目を通したのですが、気付くとまた子供のようにわくわくしながら本を読んでしまっていました。初めて物語を読んだ時にいちばん心打たれたのは、ハヌマーンという猿の神様が、主ラーマのために命懸けで海を渡るシーンでした。しかし、聖典は読むたびに違った発見があります。今回ももちろんそのシーンにも引き込まれましたが、実はいちばん印象に残ったのは、敵であった悪魔でさえも、その本性は神なる魂をもっているというくだりでした。

通常の映画や漫画なら、悪魔を倒してそれでハッピーエンドとなるのかもしれません。けれども『ラーマーヤナ』の中では、ラーマたちが敵を倒しても、その死を悼み、葬送を行ないます。そのとき、その魂は悪魔という肉体を捨て去って、この地上の世界から無限なる神の世界へと飛び立っていくのです。その際にどこからともなく聞こえてきたお祈りの歌が、冒頭に紹介した詩でした。

私たちが本当に心の拠り所とすべきは、神の御足下である。
そこにこそ、本当の幸せがある。
そして、その神は私たち誰もの中にあって、誰もが聖なる存在であるーーーいつも師から教わっているヨーガの教えを、また改めて説かれたような気がしました。

 

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さて、その後は、『ラーマーヤナ』の物語を紹介しながら、みんなでキールタンを歌いました。2時間があっという間に終わりました。最後に皆さまからいただいたご感想を紹介します。

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「物語をお話しされている時にすごく思いを込められていて、その姿の後ろに、まさに情景が思い浮かびました。海を渡ったお猿さんや、(シーターを助けるために)一緒に橋を作った動物たちやお月さんのようになれたらと思いました」

「ハヌマーンの心の純粋さに圧倒されました」

「演技力がすばらしく感動した。キールタンは単語が覚えにくかったけれど、繰り返せば慣れるのかなと思いました。仕事終わりに、神話はほっとひと息つけてうれしい。どうしたらあんなにすてきな笑顔で唄えるのだろうか。興味しんしん」

「前回一度見ましたが、今日の語り芝居は全く新鮮でした。変わったりしていませんよね……、私が変わったのかな? 『ラーマーヤナ』を読みたくなってきました。胸がいっぱいです。よい年明けの企画で楽しかったです」

「とてもとてもすばらしかったです。感動しました。いつも最高です」

「ラーマのお話、よかったです。ハヌマーンのラーマを思う気持ちが、人が神を思う気持ちなんですね〜。またよろしくお願いします」

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お越しくださいました皆さま、ありがとうございました! 私たちにもハヌマーンのような純粋な信仰心が芽生えますように〜!

ミラバイ


ヨーガ・瞑想クラス

こんばんは、サティヤーです。今日のクラスのひとこま(ウイングス京都)
このクラスが始まって1年と3ヶ月。始まった初日から続けてクラスに通ってくださっているお二人です。とても静かに瞑想されています。最近では瞑想をする時間も少しずつ増えてきています!
「継続は力なり〜!」

クラス瞑想

 

 


破れた布団とミシンと私

2000年問題から早15年。
こんにちは、マーダヴィーです。

突然の告白ですが、私はお裁縫がとっても苦手。
女子であるにも関わらず、出来れば避けて通りたい分野です。

ですが、年始早々、とうとうそれに立ち向かわないといけない時がやってきました。

同じお布団を何年も使っているうちに生地が弱くなり、ふちがビリビリに裂けてしまいました。お気に入りのお布団なので、これまでは破れた部分を手で繕ってきましたが、それも手間と時間がかかる。しかも仕上がりははっきり言って、、、、、、上手くない。

私の祖母はお裁縫が大好きで、ミシンもよく使っていました。祖母が選んで買ったミシンなので大切にしなくちゃと思い、今の家にも持ってきました。案の定、ミシンは置きっぱなし状態へ突入。いい道具も使い手がいないとその本領は発揮されず、まさにこれぞ宝の持ち腐れ。

この破れたお布団をミシンで縫えば早く出来るし、私のお裁縫能力よりもはるかに綺麗に、しかも丈夫に仕上がるだろうということはよくよく分かっているのです、はい。

ミシンを出すのが面倒だ、使うのが大変だ、そんなことしてる時間がない、そもそも一人でミシンを使うことなんてできるのだろうか?中学高校の頃以来か?上手く使えないんじゃないか・・・

結局実際にミシンを出すことをしないで、色々言い訳や理由を並べ立てて、“やっぱやめとこ〜” という結果になるのです。

大変だ、きっと難しいし自分にはできないという結果(自分の未来)を、やってみることなく、事前に作り上げているワケですね。そしてそれを苦手なものとして位置づけて、避けて通ることを繰り返し、これは苦手という傾向をさらに強めていくことになり、ますます苦手という枠から脱出することができなくなる。。。

よし!お正月休みで今はちょっと時間があるし、心を空っぽにして何も思わないでとにかくやってみよう!!とミシン掛けにチャレンジしてみたのです!

そうすると、、、

あれ?意外と簡単やん!(基本的にまっすぐ縫うだけだし、ミシンはほぼほぼ全自動)
こうやって黙々と一つのことをすることは全然苦じゃないし、実は好きやったんや、自分って。
しかも、無心で何かに集中してるって楽しいやーん!
予想外に短時間で出来上がった〜!やった〜!

と、とても気持ちのよい結果に!

それにしても実際に行動に移すところまでには長い時間かかった〜〜のですが、やってみると
苦手の克服あっという間に終了!心も軽い!

そこで気がついたのが、これってアーサナと全く同じ!ということ。

アーサナの中でも、このアーサナはキツイとか苦手なものってありません?
次はあのアーサナか〜とか、キツイなぁ、今日はスキップしちゃおうかとか・・・

結局、それも、それまでの経験でキツイとか苦しいと感じたことが積み重なって、この形はキツイ苦しいもんだという観念や結果を、そのアーサナをする前に自分で勝手に作ってしまっているんですよね。

そんな思いがアーサナの前に出てきたら、まずは心を空っぽにして、何も思わずにとにかくやってみる。そうすると、意外とそのアーサナに自然と向き合えたり、苦手だと決めつけていたのは自分だったと気がつくことがあります。

もし、アーサナの最中に心が動いたら、もう一度吐く息にフォーカスし直して、心に動く隙を与えないくらいに形を作ってみる。(自分の限界を毎回超える努力をする)

アーサナの中でそのように訓練をしていくと、それまでの自分の感じ方や考えや行動の傾向を保持していた力が弱まり、心が空っぽな状態が作り出されていきます。自分を縛り付けていた束縛がなくなり、苦手もなくなり、アーサナを行なっているその最中でさえも(外見はある形としての束縛の中にあるようにも見えるのですが)、その内面においては、身体も心も消え去って宇宙空間だけが広がっているかのような自由な状態がやってきます。

アーサナには自分の心をすっかりと変えてしまう絶大な力があります。(もちろんそれには、正しい先生の導きの元、真実を学びながら実践することが必須ですけどね!)

そして、それがそのまま日常に出てきます。

心を空っぽにして行為する、やっぱこれが秘訣ですね!
アーサナにおいても、日常においても!!

お年始早々、色々な気付きのきっかけを与えてくれたミシンさん、ありがとう〜!

私たちも自分自身が宝の持ち腐れにならないよう、自分たちの中にある宝の原石磨いて、今年は開花させていきましょう〜!!

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マーダヴィー


聖典

サティヤーです。

あけましておめでとうございます!今年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、突然ですが「聖典」読んでます?

聖典の学習というのはヨーガの実践の中でとても大切だと言われます。ニヤマ(勧戒)の中にあり、毎日実践するクリヤー・ヨーガの中にも数えられます。2012年の夏、ヤマ・ニヤマの項目を一つずつとりあげ、ヨーガの仲間と学びました。そのとき、私はニヤマの「聖典の学習」を担当しました。(参加者は、どれか自分が気になるものを担当し、学びを深めました。)その時に書き留めたメモが年末のお掃除をしていたら出てきました。

そこには、まず聖典とは読書とは違うとあります。

心を動かすための本=読書

心を止滅させるための本=聖典

自分勝手に理解しない→聞く耳を養う。素直さ謙虚さが大切。

久しぶりに自分の書いたメモを見て、なるほど〜と感心していました。私はもともと読書が好きだったので、ヨーガを始めた頃は聖典を片っ端から読みまくりました。どれも面白かったのですが、何となく「聖典ってこういう風に読んでていいのかな?」という疑問がありました。読み終えたら終わり。それで終わりでいいのかな?どこか私の知らない世界のお話を読んでいるような、どこか他人事のような……。そんな思いが募っていた時の学びの会だったことを思い出しました。

メモは続きます。どのように読めばいいのか、

「どれだけ自分に関連付けているか」

「感じ取ることが大切」

そして最後のラインには大きな字でこのように書かれていました。
(だいぶ興奮しているような大きな字でした!)

「イシュタ(理想とする聖者)に会える!!」
これは聖典の学習の結果として起こるようです。

さて、先日不思議なことがありました。お昼にこたつの中でぼんやりしていたのですが、突然あるヴィジョンが表れました。気がつけば私の心には、ある聖者との交流が残っていたのです、確実なものとして、夢でも想像でもなく、それは事実として心に残っていたのでした。不思議な経験でしたが、その聖者は私が今読んでいる聖典に出てくる聖者だったとはっきりと分かりました。

メモにあった「イシュタ(理想とする聖者)に会える」というのは、夢で会えるのでも、本の中で出会えるのでもなく、実際に会えるのだということ、彼の身体を見て、彼と会話する、それはそれはとても不思議なことですが、聖典にはそういう力があるのです。3年越しに自分の書いたメモを理解したな〜と思いました。少しぐらいは進歩してて良かった〜。

サティヤー


礼拝

2015-01-03 15.15.20

明けましておめでとうございます。今年のお正月は本当に寒いですね! 各地では元旦から雪が降り積もっていたようでしたが、皆さまはいかがお過ごしですか?

あ、ご挨拶が遅れました。年末に引き続き、またまたミラバイです。私は今日、アーシュラマ(ヨーガの道場)のすぐ近くにある、北野天満宮に初詣に行ってきました。天神さん(北野天満宮のことを、こういうふうに呼ぶんです)はとても近くのため、実はこの三が日にお参りに行ったことはこれまでなかったのですが、今日初めて行って、あまりにもの人の多さに本当にびっくりしました! 本殿から神社の入り口のある今出川通りまでずら〜っと人が並んでて、なかなか前に進めない! ゆっくりゆっくり歩いて、何十分もかかって、ようやく本殿に辿り着きました。お賽銭箱の前に来て、えいっとお賽銭を投げて、パンパンと手を叩いた次の瞬間、いったい何をお願いしたらいいのだろう……と、はたと困ってしまいました。特に、何もお願いすることがなかったからです。そして、ふと昔のことを思い出しました。

ヨーガを始める前は、年末年始の時だけお寺や神社に行ってはお参りをし、一年間の感謝をしたり、またこれから先のことを祈ったりということを普通にしていました。信仰心なんてなかったけれども、お参りは普通のことだと思っていました。でも、ヨーガを始めて数年間、実はお参りに行っても手を合わせることができなくなった時期がありました。神様は本当にここにいるのか、自分は誰に祈りを捧げようとしているのか、私が本当に信じるべきものは何なのか、祈るということはどういうことなのか、そういったことをずっと考えていたのだと思います。
そうしてそれから、はや数年……。今ではそれらの疑問も解消し、以前に抱いていた抵抗感も、もうすっかりなくなってしまいました。神は自らの中にあって、また誰もの中にもある、そして本当に祈るということは、あれが欲しい、これが欲しいと願うということではなく、心をしっかりと神に結び付けて口を閉ざし、黙って行為すること。……なのかな。今はそのように理解しています。皆さまはどうですか〜? きっといろいろ考えておられることと思います。

ともあれ、おかげさまで無事にお参りは済みました!
皆さまにとって、幸多き年になりますように。どうぞ今年もよろしくお願い致します〜。

ミラバイ

 


新春特別企画/語り芝居『ラーマーヤナ』&キールタンWS @大阪

ramayana7 ブログ

こんにちは!ミラバイです!
いよいよ今年も後少しとなってきましたね〜。皆さまいかがお過ごしでしょうか?

さて、突然ですが、来年の1月14日(水)に、インド神話『ラーマーヤナ』の語り芝居とキールタンのWSを行なうことになりました! 『ラーマーヤナ』とは、このMYMブログでもダルミニーが連載の記事を書いてくださっていますが、主ラーマの武勇伝などが書かれたインドの古典の物語です。2年前に大阪と松山で公演を行なったことがあるのですが、この1月に急遽再演が決定しました!
私はこの物語の中に出てくる猿の神様、ハヌマーンが大好きです。愛する主ラーマのために自らの命でさえもなげうち、主のために尽くそうとするハヌマーン。その愛の純粋さと強さ、そして彼のひたむきさに、とっても憧れます。
愛と信仰に満ちた心で、来年一年を力強く生きていきたいと願うあなた! 新年の幕開けにぜひハヌマーンのハートに触れに来てください! お待ちしています〜。

〇日時:2015年1月14日(水) 19時から21時(開場18:45)
〇会場:大阪中央公会堂
〇参加費:2700円(税込)
★マットなどの何か敷物をご持参ください。

ミラバイ


イエスと奇跡

今日は、イエス・キリストのご聖誕日ですね。

イエスの誕生については、母マリアのところに大天使ガブリエルがやってきて「あなたは神の子を授かる」と告げ、受胎するという奇跡が起こったそうですが、イエスはその生涯で数々の奇跡を行ったことで有名です。奇跡の話を全部取ったら、なんと福音書の三分の一はなくなってしまうとのこと!私は、以前はあまり興味がなかったんですが、ある大学の神学部の先生が、イエスが生きた時代の背景から彼が行った奇跡の必要性と意味を話され、それを知った時、私は新たな目で奇跡を見ることができたんです。今日はその先生から教えてもらったことを書きたいと思います。

まず、イエスの行った奇跡を一つずつ見ると、すごいです。湖を船で渡る途中で嵐を鎮めたり、湖の上を歩いたり、パンと魚を増やして人々に与えたり…。しかし、中でも抜群に多いのは、生まれながらに目や耳、手足を患う人々、熱病の人々を治したり、死後4日も経っていた人を甦らせるというような、癒しや甦りの奇跡です。癒された人たちは、大抵が一般社会の枠からはみ出していた人たちだったため、最近の学者さんたちは、この奇跡を伝えていったのは、下層階級の人たち、あるいは無学な庶民だったのではないかと考えているそうです。当時の律法では、そういった人たちは、「汚れた人間」として一般社会から締め出されていました。福音書では彼らと深く交わるイエスの姿が書かれているんですね。この時代のイスラエルは、彼らのように一般社会からはみ出た人たちが大部分を占めたというのが現実だったようです。富の分配が極端に偏り、貴族階級の人たちは土地を買い占めたり巧みな商売をして、ますます裕福になっていく。その一方で労働者は職のない状態に追い込まれ、さらには奴隷状態にまで陥ってしまう。そんなどん底の状態になると、必ず生じるのが病気や障がい、精神疾患でした。しかし、薬や医療は当時とても高価だったため、彼らには手が届かなかった。

彼らは、体が蝕まれていくだけではなく、社会的にも差別され、「ほら見ろ、罪の結果がこれである」と蔑まれ、宗教的にも罪人として生きていたわけです。そうなると、もう這い上がることができず、滅びだけが待っていることになる。そんな彼らが唯一頼れるのは、おまじないとか、魔術とか、奇跡だった。イエスはこうした底辺にいる人たちと同じ場に身を置いて癒しを行っていったそうなのです。

それで、イエスが行った奇跡について、一つの特徴を指摘している学者さんがいるそうです。その特徴は「帰還命令」というそうですが、イエスは奇跡を行った時、しばしば「帰るように」という言葉を付け加えているそうなんですね。

「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」

「行きなさい」「帰りなさい」。この意味は、それまで家に帰れなかったことを意味するといいます。「罪人」「汚れたもの」とされた状態から、もう一度家族や社会に復帰できるようになる。当時、人から忌み嫌われるような病にかかるということは、死んだ状態と同じであり、治ることは、体を癒されるというだけではなく、人として生きることそのものを回復させるということを意味するそうです。それほど当時の貧しい人たちというのは悲惨な状況にあったということです。

だから、イエスはただ魔術師のように奇跡を見せて自分の力を示したわけではない。最期は十字架上で自分を救う奇跡は起こさなかった。その時代と社会の必要に応じた形で、ただひたすら人を救うためだけに働く、それが聖者の生きざまなんですね。

 

キリスト誕生

では、素敵なクリスマスをお過ごしください。

 

                                 ユクティー

 


マーラー

こんにちは! ミラバイです。昨日からぐんと寒くなりましたね。今日の京都は朝から雪が降り積もっています〜。皆さまお変わりありませんか?
さて、今日はマーラー(数珠)について書こうかなと思います。

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これは私のマーラーなんですが、もう10年以上も前になるけれど、私がヨーガを始めて間もない頃、師からいただいたものです。その時のことはとっても印象的で、今でも私の心の中に強く残っているのですが、それは、ある日のサットサンガ(師から教えを請う問答の場)が終わった時のことでした。呼ばれて師の下に行くと、両手で大切に包み込むように持っておられたものを、私の目の前にすっと差し出されたのです。「ええっ! もしかしてマーラー?!」。当時先輩たちがマーラーを首に掛けているのは目にしていて、それが何を意味しているのかは分からなかったのですが、なんとなくかっこよく見えて、私も欲しいなぁ〜、でもきっと自分にはまだまだなんだろうなぁ〜と思っていたところでした。あまりにも驚きすぎたため、せっかく師が渡そうとしてくださっているのに、私はそれを受け取らないまま、ものすごい勢いで部屋の隅っこまで後ずさりして、そのまま座り込んでしまいました(笑)。
もちろんしばらくして、気持ちが落ち着いた後にいただいたのですが、その時に言われたことは「これは、信仰の印です」ということ。

信仰の印……。

その頃、私は正直、信仰心なんて全くもっていませんでしたし、信仰が何かもよく分かりませんでした。でもこのマーラーが、師と私をつなげるもの、ヨーガと私をつなげるもの、そしてこれから先、自分がヨーガの道を歩んでいく上での希望が込められているような気がして、本当に嬉しかったのを覚えています。その日の夜は首に掛けたまま眠り、次の日からも毎朝会社につけていき、肌身離さず持ち歩いていました。

そんなマーラーですが、実は一度紛失しかけた(笑)ことがあります。
ない! ない! どこを探してもない! 何日も何日も探し回り、歩き回り、いろんな人にも尋ねましたが、全く出てきません。あぁ、どうしよう〜(ToT)
あまりにも「私のマーラー」をなくして落ち込み、食事も喉を通らない様子の私を見て、心配した先輩は、「もしそれが自分のマーラーではなく、誰か他の人のものだったら、それほどにまで動揺するかな?」と、私に識別を促そうとアドヴァイスをくださったこともあります。確かにヨーガの中でよくいわれる「私」と「私のもの」という思いが自分の中にあるのか……。それが苦しみを生んでいる? もしそんな思いがなかったり、やっぱり誰か他の人のものだったらそんなに落ち込まないかも……と思い、瞑想や識別をしようとしてみましたが、そう、ご想像の通り、全くできませんでした。これまでキールタンの活動をしてくる中で、私は必ずマーラーを首に掛けてきましたが、そのときはいつも師が私の傍におられるように感じていました。きっと私はいつの間にかこのマーラーに、師とのつながりや師の存在、また自分自身の信仰の印を見いだそうとしていたのだと思います。何より、師がマーラーを手渡してくださった時、手のひらの中であたためてくださっていたその温もりをずっと感じていたのかもしれません。私の信仰はいったいどこにあるのか。主はどこにおられるのか。猿の神様ハヌマーンが自分の胸を切り裂き、主、ラーマはここにおられる!と叫んだように、私の主は私の胸の内におられるのか。
いつの頃からかはもう忘れましたが、私は自分自身の内側にもっと確かなものを見いだしたいと願うようになったと思います。

結局、マーラーは本当に思いがけない(!)ところから出てきて、おかげさまで一件落着しました(それも神のご加護としか思えない〜〜!)。この一件を通じて、私はマーラーの意味や信仰について改めて考える機会になったなぁと思います。
今は毎日身に着けることは少なくなくなりましたが、大切に部屋の祭壇に置いています。そしてサットサンガに参加する時は、できるだけ身に着けていくようにしています。ここが私の信仰の原点だと感じているのです。

ミラバイ


「新訳 ラーマーヤナ」

皆さん、こんにちは ダルミニーです。

さて、いよいよラーマ王子の潅頂式(かんじょうしき)が執り行われることとなりました。(豆知識:潅頂とは、昔インドで国王の即位や立太子の儀に、四大海の水をその頭頂に注いだ儀式のこと)

「その時、アヨーディヤーに住む人々はみな大喜びであった。すべての市民たちはラーマの潅頂式のことを聞いて夜が明るくなり始めたのを見て、街を飾り始めた。白い雲の峰のようなすべての神殿に、四つ辻に、大通りに、また祠堂や見張塔に、さらにすべての集会所や名のある樹木に、旗が掲げられ、のぼりが幸福に満ちてひるがえった。舞踏者群や歌い手たちの歌う、心や耳を楽しませる歌声が聞かれた。都民たちは、美しい都城の大通りに花や供物を飾り、白檀香や沈水香をたいた」

アヨーディヤーの都城はお祭り騒ぎです。幸福に満ちた人々や街の様子が目に見えるようです。なぜなら民衆の愛するラーマ王子が皇太子となるのですから。

「この世の高下貴賎に通じているラーマ様が我々の偉大な王となるのだ。あの方は我々すべてを幸福にしてくださる。あの方は高慢でなく、学識があり、法を愛し、兄弟を愛する方だ。しかもあのラグ王家の王子ラーマ様は自分の兄弟たちに親切であり、それと同じように我々にも親切な方だ。非難するところのない徳の高いダシャラタ王が長寿でありますように。この王の恩寵によってラーマ様が潅頂されるのを、我々は見るのだ」

このような人が日本の総理大臣になってほしいものですね。人民は安心して暮らしていけるというものです。ラーマ王子の潅頂式のことを伝え聞いて集まった地方の人々で、ラーマの都城は満ちあふれています。

ところでカイケーイー妃の母方の家のマンタラーという召使いの女が、カイケーイー妃と一緒に住んでいました。ラーマの皇太子即位の話を聞いたマンタラーはカイケーイー妃の幸福を願い、ラーマを不幸な目にあわせ、苦しめようと、寝所にいるカイケーイー妃に報告に行きます。

しかしカイケーイー妃は、喜びに心をはずませ、マンタラーに清らかな飾りの品を与えます。

「マンタラーよ、そなたが私に話してくれたことは最高の慶事です。私にとって喜ばしいことです。ラーマとバラタを私は差別していないのですよ。だから王がラーマを王位につけられることに、私は満足です。甘露のような素晴らしい話でした。最高の贈り物をあげます。好きなものを選びなさい」

その時代は良い知らせを持ってきた者に、自分の宝石などを惜しみなく与えていたようです。カイケーイー妃はなんと清らかな心の持ち主なのでしょう。それまで三人の王妃は本当に仲良く暮らし、四人の王子をみな自分の息子として育てていたのです。妬みやそねみのないラグ王家の人達、ラーマ王子もまた、三人の妃を自分の母親のよう慕い、分け隔てなく誠実に仕えていたのです。シェークスピアの物語や、中国の皇室の恐ろしい物語を知っている私たちにとっては、なんと差別のない、平和で幸福な王家なのでしょう。私の息子、私の財産、私の、私の……、このエゴのはびこる世界が私たちの今住んでいる世界です。きっと私たちはそうではない、他者の幸福を喜ぶ時代にも生きていたに違いない、そのようなエゴのない姿が、人間本来の姿であるはずだと私は信じて疑わないのです。

しかし悪事をたくらむマンタラーは、非常に悲しみ、深いため息をついて、与えられた装飾品を投げ捨て、ラーマ王子が大地を統治する時にはバラタ王子は殺されるだろうと、カイケーイー妃の心を惑わします。最初からだまそうと近づく者に勝てるわけはありません。何度もせむし女の言葉の矢に射抜かれ、傷つけられたカイケーイー妃は、マンタラーの言葉をすっかり信じこんでしまいます。マンタラーはさらに、以前ダシャラタ王が二つの願いを叶えることを贈り物としてカイケーイー妃に与えたことを思い出させ、一つ目はバラタ王子を王とすること、二つ目はラーマ王子を森に十四年間追放することを、王に要求するようにと妃に迫ります。カイケーイー妃は、せむし女の言うがままになって『怒りの間』に入り、地上に横たわります。

「マンタラーよ。私はここで死ぬと王様に申し上げなさい。ラーマが森に行けば、バラタが国土を手に入れるでしょう。私は黄金も財宝も宝石もいりません。食物もいりません。ラーマが潅頂されるならば、それは私の命の終わりとなりましょう」

その時、顔は高まる怒りの闇に覆われて、最上の花冠や装飾品をはずし、心の乱れた王妃は、あたかも闇に覆われて星がみえなくなった空のようであった。

そんなこととは露知らず、ダシャラタ王は寵愛する妃にこの吉事を知らせるため、後宮に入っていきます。カイケーイー妃は常からラーマ王子のことを、自分にとっても長男であり、威徳に輝く法の最高の守護だと、ダシャラタ王にも話していたのです。美しい妃の喜ぶ顔を見にやってきた大王、これから悪夢のような出来事が起こります。

ジャイ・シュリー・ラーマ  次回をお楽しみに

詩人ヴァールミーキ
ラーマーヤナを作成する詩人ヴァールミーキ

 ダルミニー


プラサード

先日、私たちの師マハーヨーギーの御聖誕祭がありました。

毎年11月23日は愛する師の御聖誕をお祝いするために式典をさせていただいています。今年もプージャ(礼拝)祝辞、聖歌や聖劇などいろいろな形で、日々の導きに感謝を捧げさせていただきました。思えば、私の生きているこの人生も、ヨーガと出会うことで大きく変わりました。人生に不安を抱え、何のために生きているのかが分からない、どのように生きたらいいのか誰も教えてくれない……そんな苦悩に光を照らし、すべての疑問に答え、生きる方向性を教えてくれたのはヨーガです。それを教えてくださったのは師であるヨギさんです。ですので、ヨギさんの御聖誕は私にはとてもとても貴重で大切な日であり、感謝を捧げる日です。
毎年御聖誕際に参加すると、ヨーガでいつも教えられている、「私はこの肉体でも心でもなく、その奥にある純粋な魂」だと素直に感じることができます。

さて、タイトルの言葉「プラサード」はサンスクリット語で神に捧げられたもの(お供え物)のお下がりを意味します。インドではプラサードといえば通常、寺院等で儀式(礼拝)前かその間に食べ物をお供えし、神様の祝福や聖なる波動を受けたお下がりを、参拝者がいただきます。プラサードは、神様に捧げて神聖化されたお供え物なのです。毎年会の最後に私たちもこのプラサードをお配りしています。今回は精進巻き寿司といなり寿司を用意しました。

歓びに満ちあふれて帰路につき、プラサードをいただくと、もう一度そのときの歓びを味わうことができます。今回プラサードをいただいているとき、ただお腹の空腹を満たす食事とはまったく違う味わいがあると感じました。

――それは私の身体ではなく純粋な魂を生かす――

魂にはもちろん食事などなくてもいいのですが、その純粋な魂が活動をするためには身体という器が必要です!その器に滋養を与え、清らかな行為をしていくことが出来るように、息吹を与えられたと感じました。
このプラサードがこの日からまた来年の御聖誕祭までの一年を支えてくれる、その最初の食事として特別なものを感じました。プラサードとは、神の神聖そのもの――だからこそ、私の中にある神聖が生かされることに気が付いたのでしょう。

本来はすべての食事はプラサードだと言われます。そもそも空腹感を満たすためだけの食事というものは存在しないということでしょうね。大切な日に、自分自身の純粋な魂が生かされていることを改めて感じ、これからの一年もヨーガに邁進していこうと心に誓いました。

サティヤー