今日のオシゴト

今朝、なんとなく早めに職場へ行ったら、ユキオさんという患者さんの意識が早朝からなくなり、脈拍も落ちてきていると聞きました。それは、もう間もなく彼がこの世を去ろうとしているということです。3日前には元気はなかったけど、お話してたんです。私は今日彼の担当でしたから、すぐに色々と準備を始めました。家族の意向で、延命は行わず看取りと決まっていましたが、それでも、ただ見ていればいいというわけではありません。看護師には、いつもなかなかたくさんの仕事があります。死に逝く人がどんなに美しくても、ただずっと付き添ってうっとりと見ているわけにはいかないんです。家族に連絡したり、主治医を呼んだり、エンゼルケアの準備したり、書類を整えたり…。他に見ないといけない患者さんもたくさんいる。それに、主治医や家族への連絡のタイミングを計るのも結構難しいんですよね。呼吸が止まったからそれ電話だ!と思って主治医に連絡しても、ずーっと心電図の波形がフラットにならなくて、あまりにその時間が長くなると医師との間に気まずい雰囲気が流れていくんですよね…。また、家族がどういうタイミングで連絡してほしいかという家族の意向も、それまでのやり取りの中で読んでおかなくてはいけない。

うちの病院に入院している患者さんの家族は、震災前はほとんどが近くに住んでいました。でも、震災が起こって県外に避難して、家族が誰も近くにいないことも多いんです。家族の到着が間に合わず、先に心臓が止まっていても、家族が来てから立ち合いのもとに医師が死亡確認するんですけど、家族が到着するまでの時間があまりに長いと、死後硬直といって死後2~3時間で筋肉が固まり始めるので、電話で家族にお断りして先に死亡確認し、体を拭いたり着替えたりといったエンゼルケアを行ってから家族を待つことも多くなりました。

ユキオさんのご家族はかなり遠くにおられるので、到着されたのはお昼すぎでした。家族が来られるまで、なんとなく気になって何度も足を運びました。ユキオさんの心電図の波形がフラットになる瞬間、たまたま私は病室に一人で彼を見ていたんですけど、ゼロになると同時にそれまでパッと見開いて一点凝視していた目がスーッと閉じたんですね。同時に開いていた口もわずかの隙間を残したまま閉じていきました。あまりにもその閉じ方が自然で何のよどみもなくて、一瞬神秘的な世界に引き込まれました。

ユキオさんは生前はとても頑固なおじいさんで、少し認知症が入っていましたが、いつも同室者の奥さんの心配をしていました。もちろん基本的には男女同室はないのですが、このご夫婦の場合は奥さんの認知症がかなり進行しているのと、ユキオさんがとても心配性だということで、奥さんと同室にしました。でも、奥さんはユキオさんのことが誰かを、もう分かってなかったんですね。自分の夫は家にいるんだといつも言ってました。「この人は誰?」とユキオさんのことを聞いても「知らない」という返事。「ご主人、体悪いんですよ」と言っても、「あら~、そうなの~」と他人事。でも、ユキオさんは自分がいなくなったら妻はどうなるのかといつも気がかりで、今妻はどこへ行った?と常に心配していたんです。ユキオさんの呼吸が止まりそうになった時、奥さんは隣で朝ごはんを食べ、食べ終わるとさっさと背中丸出しで寝ていました…。ユキオさんが亡くなった後、死後の処置をしてくれた看護師が、奥さんをベッドサイドに連れて来て、ユキオさんの冷たくなった手を握らせました。そのせいなのか、それからしばらく奥さんの元気がなかった…ような気がしたんですけどね。気が付いたら、廊下に置いてある私たちがつけるマスク、片っ端からポケットに入れてました…。女性って、やっぱり強い…。どうしたのかと尋ねると、「だって、退屈だから」とのこと。

あれ、あれを思い出しました。あの絵ね。再び登場です。でも、カーリーの強さも、シヴァの寛大さと愛があればこそ。ユキオさん、お疲れ様でした。いってらっしゃい!

カーリー

 ユクティー


新訳「ラーマーヤナ」を読んで

皆さん、こんにちは、ダルミニーです。

インドにはたくさんの神様がいらっしゃいますが、ブラフマ神、ヴィシュヌ神、シヴァ神が創造、維持、破壊を司る三大神様として有名です。その中でもヴィシュヌ神は化身となって、この世の悪を滅ぼすため、降誕されていますが、ラーマ王子もその化身の一人です。「ラーマーヤナ」、ラーマの行状記は、神的英雄ラーマが魔王ラーヴァナに妻シーターを奪われ、その妻を取り戻すために戦った物語を描いた大叙事詩です。今回はその物語をご紹介しましょう。

物語の最初にこうあります。

「法と愛と利(ダルマ・カーマ・アルタ)を具えたこの物語に、清純な心で耳を傾けよ」

これがとっても大事なんですよ。清純な心で読んでね。

「サラユー川の岸に財宝は豊かで、穀物に恵まれ、人々が楽しく暮らす、繁栄した大王国があった。コーサラという。そこに世間によく知られたアヨーディヤーという都城があった。この都に、偉大な王国を繁栄させるダシャラタ王があたかも天上におけるインドラ神のように住んでいた。王はイクシュヴァーク王家の偉大な戦士で、祭式を重んじ、また法に専念する支配者であり、偉大な聖仙と同じように自己を制御し、王仙として三界にその名が聞こえていた」

とアヨーディヤーの都とダシャラタ王の素晴らしさについて、九ページに渡り書かれてあります。これを読んだだけでも、王様がどんなに徳が高く、また人々にどんなに慕われていたのかが想像できます。

ダシャラタ王には三人の善良で美しいお妃様がいましたが、子供がありませんでした。そこで王子の誕生を願い盛大な祭式を行なうと、その祭火の中から無比の輝きを具えた鬼神が現れました。

「王よ、そなたは神々に祭式を捧げたので、今日、この乳糜(ルビ:にゅうび、ちちがゆ)を得た。王者の虎よ、この乳糜は神の作られたもので、子孫を生み、幸運と長寿を増大するものだ。そなたはこれを受け取るがよい」

ダシャラタ王は大喜びで、まずこの乳糜の半分を第一王妃に、その残りの四分の一を第二王妃に、その残りの半分ずつを第二王妃と第三王妃に分け与えます。第一王妃カウサリヤー妃の息子がラーマ王子、第二王妃スミトラー妃の息子がラクシュマナ王子とシャトルグナ王子、第三王妃カイケーイー妃の息子がバラタ王子です。ラーマ王子は第十二月目のチャイトラ月の第九日(三月二十四日)に生まれたとあります。

4人の王子が生まれたとき
(4人の王子が生まれたときを描いたもの)

ラーマ王子は傲慢な魔王ラーヴァナ征伐の為、神々に強く望まれて人間界に生まれた永遠のヴィシュヌ神の化身なのです。魔王ラーヴァナは本当に悪い奴でして、エゴと無知の象徴として描かれています。私たちの中にあるエゴと無知もラーマ王子が一緒に征伐してくれているような痛快さがこの物語にはあります。

そしてラーマ王子の美徳についてこうあります。

「ラーマ王子は実に容姿端麗で、勇気があり、悪口を言うことなく、この地上において比類のない方で、美徳の点では父ダシャラタ王に劣らぬ息子であった。師に対する信愛の念があつく、聖典知を離れること無く、不正なことを指示することなく、愚かな言葉を口にせず、教典に精通し、恩義を知り、人の心にある願いを察することができて、処罰と表彰とを正しく識別できた」

と、これもまた三ページに渡って讃えられています。ヴィシュヌ神の化身として生まれたラーマ王子は、褒めても、褒めても褒めすぎるということはないのでしょう。これを読んでいるだけでも、心は喜びに満たされます。このような美徳に輝く姿が人間の本来の姿ではないのでしょうか。このような理想の人間になりたいと、憧れが強くなります。

威厳があり、威光に輝く、人中の雄牛ともいうべき四人の王子たちはダシャラタ王に大事されていましたが、とりわけ偉大な威光に輝き、優れた美徳を具えたラーマ王子は父王に喜びを与えていました。

ある時、王様は深く考えました。

「私が生きている間に、ラーマが王となるのはどうであろうか。これは喜ばしいことではないか」

こうして大臣や都の住民、諸国の王を招いて、ラーマを王位継承者とする諮問が行なわれ、ラーマ王子が皇太子の地位に就くことが決まるのです。しかしここからイクシュヴァーク王家の悲劇が始まります。カイケーイー妃の召使い、せむし女のマンタラーが悪知恵を働かせて、王妃の心を惑わし、自分の愛するバラタ王子を皇太子とするべく策略を練るのです。

なんと今回は、ここまでで終わってしまいそうです。次回はカイケーイー妃の息子バラタ王子についてご紹介したいと思います。ラーマ王子と共に魔王ラーヴァナを征伐したラクシュマナ王子は有名ですが、このラクシュマナ王子と同じ神の資質を具えたバラタ王子のことは、あまり皆さんご存じないのではないかと思います。これが涙なくしては語れない物語でありまして、ぜひみなさんにご紹介したいと思っています。

では、次回「ラーマーヤナ バラタ王子の苦悶」、お楽しみに。

 ダルミニー

 

 


神への愛は伝染する

Love is an infectious disease. 直訳すると、愛は伝染病である。なかなか衝撃的な表現ですが、これはマザー・テレサの言葉です。

私は2011年の3月にインドのマザー・テレサの施設へ行ったのですが、その時偶然日本のイエズス会の神父さんと知り合いました。私は彼と出会って以来、キリスト教について質問をしたり、マザーについての話を聞いたり、本を紹介してもらったりと色々お世話になっているのですが、この出会いは私にとってマザーを深く知っていくことになる、とても大きな転機となりました。この出会いが無かったら、パラマハンサに連載を書くこともできなかったかも知れません。

神父さんは、震災以降福島の親子をサポートする活動をされていて福島と繋がりがあり、9月にも福島市内の大学で講演をするために来られたのですが、その時南相馬にも足を運んでくださったのです。私の家のほんの近くにカソリックのボランティアセンターがあり、そこで「苦しみを越えて」というテーマで、マザーにまつわる話をされました。ほとんどがかつて聞いたことのある話なのですが、私にとってはマザーにまつわる話は何度聞いても嬉しいものなのです。その中でも、愛は伝わっていくものなのだというこの言葉がよく表れた、私が最も好きなエピソードをこの時も話してくださったので、今日はそれを紹介したいと思います。

オーストラリアから一人の農家のご婦人がマザーに会いにやってきました。夫はアル中で、息子は非行に走って、どちらも彼女に暴力をふるっていたそうです。彼女は死のうとしていました。死ぬ前にずっと憧れていたマザー・テレサに会いに来たわけです。マザーは彼女を温かく迎えました。30分から40分間、手を握りながら彼女の話を聞いたと言います。話が終わると、そのご婦人はこう言いました。「用事は済みました。オーストラリアに帰ります。こんなにも私のことを大切に思ってくれる人が世の中に一人でもいるなら、死ぬのはもったいない。死ぬのは止めました」。彼女は喜びいっぱいに帰っていったそうです。

マザーの周りでは、このようなことがたくさん起こりました。神父さんはなぜだろうと不思議に思っていたそうなのですが、ある時、マザーの言葉を聞いて納得したそうです。

「私の所にはたくさんの人が訪ねて来ますが、その時その時で目の前にいる人がイエス・キリストであり、私にとっては全てなのです」。あのご婦人がマザーからどれほどの愛を受け取ったか計り知れません。

ところで、感染症というのは、予防するための3つの要素というのがあります。感染したくなかったら、この要素を減らしていくことが必要なのです。

一つはウイルスや細菌などの病原体に接触した物や人です。これを感染源といいます。二つ目は感染経路です。空気感染や接触感染など病原体が侵入する経路のことです。三つめは感受性で、免疫の低下など個人の感染しやすさのことを言います。

もし神の愛に感染したかったら、反対にこの条件を高めていくことが必要なのです。神の愛に接触した人は、バクタと呼ばれます。神を純粋に愛する人のことです。マザーがバクタですね。感染経路はバクタと会ったり話を聞いたりすること、バクタのことを考えるだけでも感染しやすくなります。そして感受性、神の愛を受け取れる純粋な心にするために日々怠らずアーサナしたり瞑想することですね。これで3つの条件は整うわけです。ただひたすら単純に粘り強くこれを続けるんです。そうすれば、何があってもいつも神を愛する歓びを心に持ち続けることができるのです。さあ、また今日から始めましょう。

マザー
神父さんが自分で撮ったマザーの写真で毎年作っているカレンダー。2015年版です 。

ユクティー

 


空白地は存在しない

ヨーガを始める少し前、沙漠に憧れたことがあった。
人間が作った意味や義務や正しさに埋め尽くされていない、「無意味」の空白地に行きたいと思った。
それで中国のタクラマカン沙漠にも行ってみた。
あるいはアフリカの中央部にも行ってみた。
しかしどこに行っても、自分が日本人の何某であることを証明しなくてはならない。
世界地図はどこも何色かに塗られており、誰かの(どこかの国の)土地であった。
空白地が存在しないことの絶望。
常に何者かであり、何者であるか証明し、意味のあることしかしてはならない世界にとてつもない息苦しさを感じたものである。

外界に空白地を求められないことを知るのとほぼ同時期に、内面に空白地を求め始めてもいた。
頭の中は言葉でいっぱい。
心は常に忙しい。次々に勝手に悩みを作り出す。
自縄自縛とはこのこと。
蜘蛛が吐き出した巣の網に、自分自身で引っかかっているようなものだ。
心に重い鎖をかけられ、引きずっているように感じていた。
こんなのはもう嫌だ——何の確信もなかったが、その向こうに空白地を探し始めた。

必死にヨーガをした甲斐があって、これらはすべて過去の話になった。
「意味の世界」は、原因と結果の果てしない連鎖の世界、昔の言葉で言えばカルマ(業)によるサンサーラ(輪廻)の世界だということも分かった。
今はずっと自由だ。胸いっぱいに息が吸える。
それどころか、世界はずっと広く、果てしない可能性が含まれているものに感じる。

今また空白地のことを思い出したのは、意味の世界に再び戻ってきたからである。
意味に縛られなくなってきて、再び戻ってきた。
そして気づくことは、今の我々人間の考え方が無限の空白地があることを前提に成り立っているということだ。
いくらゴミを捨てても誰も困らない土地や、いくら使ってもなくならない自然や、いくら酷使してもよい物やあるいは人、いくらでも豊かに、いくらでも獲得して消費して、いくらでも生産することを許す無限の空白地があるかのように振る舞っている。

ヨーロッパ大航海時代のメンタリティーが500年たっても変わっていないのだと思う。
むしろ歴史的には「適者生存」とか「見えざる神の手」だとか、それを正当化する理論の方が発展してきた。
人や価格どうしの衝突(競争)が最適な位置を見つけるという、人間社会内部にしか目が向いていない考えである。
それは無意識のうちに、外部には何をしてもいい無限の空白があることを前提にしている。
でも、大航海時代にも空白の新大陸などなかったし、奴隷にしてもよい人などいなかったかったように、人間(自分)の外側に無限の空白地があるわけではない。
いくらでも生産して、いくらでも消費すればいいと、その需給バランスは「見えざる手」が決めると、人間社会の内部の論理だけで考えてきたが、ついに自然がそれを許さないところまでやってきて(需給のバランスでなく、自然の限界が決定権を持ち始め、予想外の「見えざる手」となって)、やっと無限の空白地という前提が間違っていたことに、我々は気づき始めている。

人の命も、自然の命も有限。
隣には他の人がいる。動物や植物がいて、自然がある。
誰もいない場所は存在せず、世界は網の目のように構成され、自分はその一部である。
それは確かにカルマによるサンサーラ。
でも自分がその一部であることに、今は喜びを感じる。
どうして? 以前にはとてつもない苦しみだったはずなのに。
そこに積極的に身を委ねていこうと思えてくる。
そこに貢献していこうとする喜び。
奉仕の喜び、献身の喜び。
有限の命はそのために生かされてこそ輝くのだと思い始めている。
業による輪廻を生み出す幻術(マーヤー)、その力は女神として捉え直されるとき、歓喜の遊戯(リーラー)になるという。
母なる地球、大地母神、その怒りの鉄槌も悪くないのかもしれない。
もしそれによって人の目覚めが起こるのなら。
我々がそれを受け入れ、行動で応えることができるのなら。

Kali


さまらさの台所 10月

こんにちは、サティヤーです。

昨日はさまらさの台所がありました。今回は飛龍頭に挑戦!飛龍頭って手作りできることを知っていましたか〜?スーパーやお豆腐屋さんで簡単に購入することができますが、手作りの飛龍頭の味は絶品です。出来立ては特にその違いは明らか!参加してくださった方もとても喜ばれていました。(11月3日(月祝)にもウイングス京都にて同じメニューで開催します。参加受付中です〜)

飛龍頭 さまらさ10月

さまらさの台所では最後にヨーガのお話をしています。以前さまらさの食事を食べた方から感想をいただきました。彼女は小さいお子さんがいるお母さんで、熱心にヨーガを学んでいる方です。今回はその感想を通じて参加者とともに学ばせていただきました。素敵な感想なのでその一部を紹介させていただきます。

「ヨーガでは、食は“プラーナ”をいただいているのだ、と教えていただきます。この“プラーナ”とは“気”のことで、エネルギーや力と呼ぶものは全てこの“プラーナ”によるものです。

 …と今まで知識では知っていましたが、実際どれほどプラーナを実感して食べていたかは自信がありません。しかし、今回さまらさの食事をいただいてから、何日間は明らかに“元気”なのです。

 ヨーガの先生にアーサナや瞑想は気を元に戻す=元気になることでもある、と教えていただいたことがありますが、まさしく気が元通りになったような清々しさがありました。なぜだかわかりませんでしたが、さまらさの食事をいただいたからだという直観だけがありました。生まれてから今まで何度の食事をしてきたかわかりません。しかし、この一度の食事でこれだけ元気になったことに、正直びっくりしたのです。

そして次に感じたことは、私は大変重要な役割を毎日任されていたんだ!ということに改めて実感したのでした。家族の元気は食から。余計な思いは持ち込まず、ただ目の前の食材に感謝し、食べる人のことを考え丁寧に作る。二人の甘え盛りの子供を見ながらの作業になるので、料理にだけ集中することはできませんが、余計な思いを持ち込まないことは続けて行えます。一つ一つの積み重ねを大事に、家族の元気を担ってるんだ!と誇りを持って、毎日の料理を楽しみたいと思います。」

とてもとても嬉しい感想ですので紹介させていただきました。毎回、気持ちを切り替えて、目の前の調理に集中するはとても大切です。それは調理以外の場面でも余計な思いにとらわれず淡々と行為していく練習につながると思います。調理は心の制御の訓練にもなりますが、もうひとつは、愛を行為で現す絶好の機会でもあります。作る人への純粋な気持ちは、食事を通じてプラーナで伝わっていくと思います。

食事は毎日のことになるので、なかなか新鮮味をもって行うことは難しい時もあるかもしれません。でもこのような気付きによって、きっと毎日の調理が変わっていくと思いました。

素敵な感想をありがとうございました!

 

 


死に逝く人は美しい

死に近づくと人の顔貌は変わります。顔色が悪くなるとか、見ていられないくらい痩せてしまうとか、そういうことではありません。意識がなくなるにつれ、焦点の合わない独特の表情になっていきます。生命力のない、弱々しい目のように映るかもしれない。ある医師は、それを「仏様の目」だと表現していました。私は、何とも言えない美しさを感じます。それは、息をするのを忘れるほど美しいのです。あまりに美しすぎて、ため息も涙も出ません。ただ、ちっぽけな自分が偉大なものの前に立ちつくし、その美しさを茫然と眺めるしかないのです。自分が手を入れられる領域ではないこと、ただ偉大な者の手に委ねるしかないことを思い知らされるのです。誰もが同じように感じているわけではないと思います。違う表現をする人もいるでしょうが、多くの人が神聖な何かを感じているはずです。

人は死を宣告された後も希望は持ち続けると言われます。希望というのは、明日にでも新薬が発明されて病気が治るかも知れないとか、パリで個展を開こうとか、こんな料理に挑戦しようとか、大小さまざまな希望です。でも、体は徐々に思うようにいかなくなる現実を見せつけられます。そうすると、希望はどんどん剥ぎ取られ、死が現実のものとして見えてきます。ある医師はその状態を「剥ぎ取られるというよりも、自ら手放していっている」と表現していました。そしてもう何かを欲したり感じたり、そんな余裕すらなくなった時、人は呼吸の一息一息がすべてになります。一瞬一瞬を生きるだけになります。心のいらないものが捨てられ人の本質に最も近くなった姿、それが死に逝く人の姿なのです。だから美しいのです。

神は、人が死に逝く時のために神秘的な体のシステムを作られたようです。それは、死に近づくに従って、人は苦痛を感じなくなっていくのではないかというものです。これはある医師が著書の中で書いていた彼自身の考えのようですが、医学的にもある程度説明がつくとされています。呼吸機能が低下すると二酸化炭素が吐き出せなくなり、体内の酸素と二酸化炭素の割合は逆転します。この状態になると、意識が朦朧として痛みが感じなくなるということが証明されています。また、脳の中で強い鎮痛作用と多幸感をもたらす脳内モルヒネと呼ばれる物質が増えるという報告もあるそうです。見た目は苦しそうに見えても、その人の中で本当に起こっていることは、計り知れないのですね。こうして人は死に向かうと共にそのための準備を進めているそうです。

しかし、肉体的な苦痛が和らいだだけでは死の恐怖からは救われません。ある癌を患った患者が死に直面してその苦悩を書いています。「死に至る病の苦しみさえなければ、と人は考える。それさえなければ死もそれほど怖いものではない、とすら思う。しかし、その考え方はまだまだである」。医学では、死に逝く人の痛みは肉体的なものだけでなく、精神的な痛み、社会的な痛み、そして魂の痛みというものがあるとされ、数年前からこの魂の痛みに対するケアが行われるようになってきました。魂の痛みは、スピリチュアルペインとも呼ばれ、生まれた意味、病気になった意味、死にゆく意味を自らに問うものです。ただ、これは外からのアプローチでは答えを見出しにくいと言われています。 医療では、長年死は敗北だとみなし、救命に力を注いできましたから、この分野は不得意なのです。

それを担うのは宗教の役割だと言われます。かつて、生老病死に寄り添うのは宗教者の役割でした。それが多くの人が病院で亡くなるようになると、医療者が担うようになってきた。しかし、現場は忙しく、また医療者自身が答えを見出すよう導く術を知りません。

宗教も医学も行きつくところは同じ問いであると言われます。それは「人の本質は何なのか」ということです。自分は一体何者なのか、この問いに自らの内に答えを見出すことができた時、生きる意味、死ぬ意味、すべての謎が解き明かされ、私たちは自分自身だけではなく、他者をも死の恐怖から救い出すことができる。そしてその時、本当の意味で生きることも死ぬこともすべてが美しいのだということができるのだと思います。

コスモス

 

                              ユクティー


はるか未来を歩くブッダに我々は追いつけるのか?

——心を静めて強烈な探求を行なえば真理は自ずから現れる。
本当ですか? それが事実だと経験から言えますか?
僕は言葉を超えた事実が欲しい。

真理はどのように現れるのか。
それは(悟りという)最後の最後の瞬間にだけ訪れるものなのか。
それまではそういうことがなくても当然なのか。

「真理」という言葉を定義して、「あるべき事実(真実)に関する直観知」だと捉え直すとする。
最近気づいた直観知の経験を話したいと思います。

今年の4月に「永遠のブッダ」というお芝居を上演し、僕はその脚本を書きました。
題材にしたのは『アングリマーラ経』という仏典に描かれているブッダと一人の弟子の話です。
1000人にも及ぶ人を殺害して人々に恐れられた残忍な盗賊アングリマーラのもとに、ある日ブッダが赴き、不思議な力と教えの言葉と慈悲によって彼の心を開かせます。
ブッダの弟子となったアングリマーラは、アヒンサカ(不殺生)という名を与えられて、新しい聖なる命に生まれ変わり、ブッダから「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」と教えられます。
アヒンサカは過去の悪業による苦難に耐えながら、ブッダの教えを守り、生来の正直さを生かし、ついに一人の妊婦とその胎児の命を救います。
それが彼がブッダの教えを実践した瞬間だったというところでフィナーレを迎えます。(実際の芝居の映像は以下)

この演劇の内容自体は、元の仏典の内容と大筋において同じですが、各部分では脚色が入っています。
脚本を書いている時は、この経典の真意は何なのか、つまりアングリマーラという人の存在の本質は何なのか、そしてブッダは何をしようとしたのかということに集中して、それを最もよく表すように、経典の構成や言葉を離れて、場面もセリフも生み出していきました。
そこではただ、この芝居が楽しく、面白く、そして何より深い真意を表すようにということにだけ集中していたのです。

しかし、最近になって気づきました。
この芝居は、4月から今までの6カ月間、それから今後数年にわたることの預言でもありました。

今の僕にはこう見えます。

アングリマーラは、自分の村の人1000人を全滅させた都の人間を恨み、被害者の生き残りとして、自らの正義(=法)のために、人々の殺害を繰り返している。
一方、都の人々は、罪もない人々が被害にあっているため、恐ろしい盗賊を無法者と見なし、アングリマーラの縄張りにブッダが近付かないように警告する。
双方とも正しいのは自分であり、正義は自分たちにあると考えています。
そして自分こそ悪の被害者だと思い、暴力に対する暴力の報復がなされている。
決して交わることのない対立です。

これに対してブッダは、アングリマーラのもとへ何も言わず進んでいく。
人々が止めるのも聞かず、平気で進んでいきます。
彼はどうするつもりだったのでしょうか。
僕が思うところでは、ブッダははっきりとすべてを見通していました。
アングリマーラという盗賊がいて、彼のせいで多くの命が奪われている。
人々は彼を無法者と決めつけており、行為においてはその通りだが、しかし、その外面的行為には微妙でかつ複雑な内面的原因があり、それが正されない限り問題は解決しない。
そしてアングリマーラの内面的苦悩は、その被害者である人々の内面の苦しみと異なるものではなく、同じものとして重なるものなのだと見た。
ブッダは、人々の実際的被害と不安、そしてアングリマーラの苦悩を取り除くために、両者を共に生かすため、自ら立ち上がり、歩を進めたのです。

ブッダは火中の栗を拾いに行ったと思う。
ブッダは出家者である。
法律や社会に対して関与せず、超然としていることが本来の姿だ。
たとえどんな問題が世の中で起こっていようとも、それに当事者として関わる必要はない。
それどころか、そうした世間の出来事に執らわれてはならないのである。
たとえ両者を哀れだと思い、あるいは殺害のむごさを見るに忍びなく、助けに入ったとしても、両者に話し合いの場を設けて仲裁に入るというような方法が取れたはずだし、今だってそれが一般的だろう。
それなのに、ブッダはアングリマーラを弟子にしに行ったのである。
犯罪者、それも極悪人を弟子にとれば、人々の世論や法や社会を敵に回すことは明らかで、犯罪者をかくまったとしてブッダの教団全体が社会の圧力によって潰されてもおかしくない。
長老弟子のアーナンダが「他の弟子たちに悪い影響がありませんか」と心配するが、常識的なのは彼であって、ブッダの方が非常識である。
面倒なことにあえて首を突っ込むようなことをしなくてもよかったはずである。
ブッダはどうしてそのようなリスクを冒す行動に出たのか。

ブッダはあえて当事者になりに行きました。
当事者になって、自分個人とは元来関係のない問題を解決に行った。
自分には害の及ばない、超然とした客観的第三者の立場でアドバイスをしたり、なだめたりするのではなく、悪と苦しみの根源を自ら引き受けに行きました。
近代の聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、「たった1人の人を救うために私は地獄にでも行く」と言ったが、まさに彼はブッダの心境をそのままハートに写し取ったのだと思う。
そうしてブッダは、アングリマーラとアーナンダ、そしてブッダを慕う都の人々を兄弟弟子にしてしまった。
互いに害を与え合ってきた人々を、本来愛のみで結ばれるべき兄弟にしてしまったのである。
そして彼らの親として、すべての面倒を見る責任を負ったのである。
問題とは本来、そうした自らを犠牲にするような関与がなくしては解決しない。
ブッダの無言の行動はそれを強く指し示しているように思う。

そしてもう一つ、脚本家として僕はブッダにこう語らせていた——「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」。(とはいえ、ブッダ役としてこのセリフを語らされたのも僕なのですが)
これは、そのまま仏典にある言葉ではありません。
元の経典の本旨は、経典中に見られる詩、「悪い行ないも善によって克服されるなら、雲を離れた月のようにその人はこの世界を照らす」という一点に極まっていると思いますが、悪人が悪を償うだけでなく、この世界を照らし出す聖なる存在にもなれるということを、「人の命を生かす」というセリフにしました。

ブッダは当事者となって(同時にまったく巻き込まれることなく)、それぞれの人を生かし、またその人たちにも他の命を生かすように導いた。
脚本を書いて芝居を上演していた時にはまったく気づかなかったが、自分が書いて演じていた中に、自分のあるべき姿とそれに向かう未来が含まれていたことに最近気がついた。
「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」と書いたのは僕であり、そのセリフを読んだのも僕だが、その過去の自分が未来に先回りして、これからのあるべき自分を示しているようにも思うのだ。
あるいは、今から2,500年前に生きたブッダが、むしろ今から2,500年先の未来に先回りして、僕に道を示しているようにも思う。

事実、4月以降の僕は、その方向に動き、感じ、決断してきた。
我々ヨーガ行者のあるべき姿、マハーヨーギー・ヨーガ・ミッションのあるべき姿を、ブッダのサンガやヴィヴェーカーナンダが作ったラーマクシュナ・ミッションに求めてきた。
それは単に形を真似るということではなく、彼らの情熱を自分の胸にも灯し、自らのミッション(使命)を自覚するということである。
過去に求めながら、同時に未来に求めることでもあった。
それと同じようなことが、たまたま手に取った経営学の本にも書いてあった。
サンガやミッションも人の集まった組織だから、組織運営のことも少しは学ぼうと思って駅の本屋で偶然手にした本だったが、たいして魅力的なタイトルでもないのに、引き付けられるようにその本を取った。
7月のことである。
そして8月には、東京に引っ越すことを決めていた。
東京でのヨーガの活動を活発にするためである。
今月10月には東京で最初のクラスを行なった。

そうした顕著な出来事だけでなく、あらゆる考えと感じ方と行動が1つの方向に向かっていた。
それはまるで、「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」と、まったく無意識だった自分あるいはブッダ自身が、未来のあるべき姿、あるはずの事実を指し示していて、知らないうちに、この半年はまったくその通りに生きてきたようなものだと最近気づいた。
潜在意識の中にそうした願望があったのだといえばそうかもしれないが、しかし直観に基づくであろう感性と行動が、これほどまで頭脳よりも速く動いたのを経験したのは今までにはなかったのである。
自分が書いたり言ったことを、半年後の自分が解釈するなんて、いったい何が起こっているのだ!

とても長くなりましたが、これが預言とも感じられた、「あるべき事実(真実)に関する直観知」の経験でした。
劇中、ブッダがアングリマーラの縄張りに向かっていったとき、走る馬でも捕まえられたほどの脚力を持つアングリマーラが、全速で走ってもブッダに追いつけない場面があります。
彼はブッダに対して「止まれ!」と叫ぶのだが、逆にブッダに「お前こそ止まれ」と言われる。
それはアングリマーラが暴力の思いに捕らわれて心が止まっていないということを教え諭すためだったし、僕もそう理解して脚本を書いた。
しかし今になって、それだけでなく、ブッダは彼以降2,500年の間に生まれ死んでいったあらゆる人類が、最大の努力を行なっても未だに追いつけない、はるか未来に先行していることをひしひしと感じる。
それは、現在も世界各地で起こっている決して交わることのない紛争、その根源にある正義感と悪と憎しみ、そしてもう末期的とすら言われている民主主義のあり方(その真の姿としてのサンガ)……これらはみな未だ解決・解明されることなく、しかしブッダによって2,500年前に解決されていた。
ブッダ、新し過ぎる!!
我々はまだ、2,500年前のブッダに先を行かれているように感じる。
はるか未来を歩くブッダに我々は追いつくことができるのか?
しかし今それに気づいたということは、少なくとも後ろ姿ぐらいは見えているはずなのだ。


インディア・メーラ中止

こんばんは、3つ前の記事に、10月13日(月祝)神戸のメリケンパークで行われるインディア・メーラというイベントに参加すると書きましたが、台風19号の影響があり13日(月祝)はイベントが中止と決定しました。予定を立ててくださったみなさま、残念ですがまたの機会にお会いしましょう!
キールタンは、定期的に京都・大阪で「バクティ・サンガム」をしていますので、そちらでご参加いただけます。

次回の予定
「Bolo Bolo Sambila Bolo」 シヴァ・根源なる神よ!

神と魂が結ばれるとき、恍惚が生まれる 唱えよ オーム・ナマ・シヴァーヤ!

京都
11月30日(日)
ギャラリーju:彩
京都市東山区松原町291-2F  14:00~16:00(13:45開場)

大阪
12月5日(金)
プリヤメーラ
大阪市西区土佐堀2-1-2 西村ビル2F  19:00~21:00(18:45開場)

参加費:2700円

 

 


アーサナ野外授業!

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こんにちは。ミラバイです。昨日の皆既月食、皆さまご覧になりましたか?
私、昨日は大阪に行ったのですが、ちょうど夕方、電車に乗りながら日が暮れていく様子を見ていました。昨日の夕暮れ空も本当に美しく、頭上から西にかけて静かな青い空が覆い、その先には沈みゆく太陽の光を受けた淡黄色の空が続いています。まるで片田舎の風景のような、映画の1シーンを見ているかのようで、車内の騒音を忘れ、思わずその美しさに見とれていました。ふと気付くと、私が見ていた車窓に、何か丸く光るものが映し出されています。
あ! あれは! ……そう! 今日は皆既月食だった! びっくりして反対側の窓を振り返ってみると、金色に輝くとっっても大きな満月が、空低く浮かんでいます。まぁ、なんて美しい! この日は天気もよく、空が澄んでいたこともあって、とってもクリアに見えました。電車に乗っている人は携帯の画面を見ていたり、眠っていたり、新聞を読んでいたり……。みんな、忙しいのかな。疲れているのかな。あんまり空を見上げることもないのかな。あぁ〜、でももったいない。こんなにきれいなのに。思わずみんなに声をかけたくなってしまいました……。

さて、昨日は久しぶりに大阪中央公会堂のクラスに参加しました。この日のクラスは女性ばかり。もちろんクラスの窓からはその月の様子も眺められます。でも、なんだか室内でするのもなぁ〜〜と思っていると、どこからともなくみんなから「外でする?」という意見が出始め、「よし! 今日は野外授業だ!」ということで、部屋を飛び出して、屋外でアーサナレッスンをすることになりました!!

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木のポーズをすれば、彼方にはちょうど赤銅色の月、ブジャンガ・アーサナ(コブラの形)をすれば、目の前にはライトアップされた中央公会堂、シャヴァ・アーサナ(休憩の形)をすれば、空には星も見えます。なんて贅沢なクラス! 最後には月に向かって瞑想しました。

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瞑想の時は、みんなピタッと止まり、集中していたようでした。いつの間にか人気も少なくなり、周りも静まっていったようです。約2時間のクラスはあっという間に過ぎていきました。時間とともに月食も進んでいき、クラスの後半には完全に隠れていた月が見え始め、まるで三日月のように見えました。

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そしてやはりクラスの締めは、なぜか(?)突然キールタン!
初めてキールタンに触れられる方もいらっしゃいましたが、みんなで三日月を見ながらシヴァ神を讃える歌を歌います。

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クラスが終わった後は、皆さま「あぁ〜、とっても楽しかった!」と本当に喜んでおられました。満月から滴る甘露を受け、アーサナで気を満たし、また気候もよく、充実した時間だったようです。満月から新月、そしてまた満月と、一日で一カ月分を凝縮して見れたね〜とみんなで話しながら帰りました。私もとても堪能させていただきました。どうもありがとうございました。たまには屋外授業もいいね!

ミラバイ

 


ヨーガの実践「心と四つの意識」

皆さん、こんにちは、下鴨ラージャ・ヨーガクラスを担当しているダルミニーです。

『ヨーガの福音』にこうあります。

ヨーガ行者たちは四つの意識があることを発見しています。
1、起きている時の意識
2,夢見の意識
3,熟眠の意識
4,そして、その三つの意識をすべて知っている第四の意識
その証拠に今あなたの心はその意識によって観られている。通常は第四の意識が心に同化してしまって分からなくなっている。

第四の意識とは、純粋で、永遠の意識だといわれています。ではこの第四の意識とはどんなものなのでしょうか。
私は子供の頃、自分の事しか分からないということが不思議でしかたなかったのです。
なぜ私は、大好きなあの子の事を知らないのだろう。なぜ私はお父さんやお母さんのことが分からないのだろう。
こんな事、当たり前すぎて大人に聞く事ができませんでした。でもヨーガを学んで、その謎が解けたんです。私の心は第四の意識によって観られているのです。

例えばあなたはあの時、嬉しくて、嬉しくて、この世で最高の幸せ者だと飛び上がらんばかりの喜びに包まれました。私はその事を知りません。でもあなたはその事を全部知っています。それが第四の観ている意識です。
例えばあなたはあの時、悲しくて、悲しくて、御飯も食べられないくらい落ち込み、最低な気持ちを味わいました。私はその事を知りません。でもあなたはその時の心を知っています。それが第四の観ている意識です。
例えばあなたはあの時、とても怖い目に遭いました。どうしていいか分からないくらい混乱しました。私はその事を知りません。でもあなたはその時の心をよく知っています。それが第四の観ている意識です。
例えばあなたはあの時、この世で最も尊敬する素晴らしい人と出会いました。あなたは昨日とは全く別の人生を歩む事になったのです。私はその事を知りません。でもあなたはその時の心を知っています。それが第四の観ている意識です。

私はこの第四の意識にふれた時、「あー、私は一人ではなかった。この意識はずっと子供の頃から、いやもっと以前から共にあり、見守っていてくれていたのだ」と感謝の念がこみ上げました。しかしこの意識は心と同化してしまっているので、なかなかその意識に留まり続けることができません。師は本当に徹底的に目覚めるためにも、一連のヨーガの修行をやり続けることが必要だとおっしゃっています。

ヨーガの日常の行為の中で、慈悲喜捨の態度を培うことが大切であることは皆さんもご存じでしょう。慈悲喜捨とは、他の幸福を喜び、不幸を憐れみ、他の有徳を歓び、不徳を捨てる、簡単なようでなかなか難しい事かもしれません。ではなぜこのような行為が必要なのでしょうか。

『ヨーガの福音』はさらにこう続きます。

私はこの体でもなければ心でもない、それを知っている、観ている純粋な意識。この世界での経験はいわばそれを教える材料です。真実を悟ることが目的です。私たちは皆、一人ずつ神聖な存在なのです。

私たちは純粋な意識そのものだと教えられます。純粋であるということは、単純に不純ではないということですから、心を常により良く、清らかにして、静めておくことによって、その純粋な意識により目覚めやすくなれるのです。そしてそれを常に行為し続けなさいとヨーガは教えてくれます。

私たちはなぜ生まれてきたのか、そしてこの命とは何なのか。ヨーガは一つ一つの謎を解き明かしてくれる鍵です。私たちはもうこの鍵を手にしました。さぁ、この鍵でもう一つの扉を開けましょう。

ダルミニー