サットサンガ 知っている人と知らない人

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

季節がめぐるのは本当に早いです。ついこの間まで、いつまでも寒い日が続くなと思っていましたが、明日は春分の日。もうすっかり春の様相ですね。
気分一新、今回はあらためてヨーガの悟りについて考える機会がありました。

ヨーガで教えられるのは本当の自分という存在です。それは肉体でも、心でもなく、私という意識。もちろんエゴ・自我とは違う純粋な“私”という意識です。
それは、「真我」と呼ばれたり、「真理」と呼ばれたり、そして「神」と呼ばれたりもします。それぞれ全く同じただ一つのものを表す概念ですが、この呼び方が一番しっくりくるという、いろいろな意見をヨーガは差別しません。
その存在と合一することがヨーガの目的ですね。
ただ、そこに至るアプローチは人それぞれです。合一、つまり悟った人を覚者・聖者と言いますが、彼等でさえその悟りの境地の表現は様々です。

けれども、どの覚者も悟りの境地を教え説く際に、真我も真理も神も、どの言葉も同じだと言っています。その三つをすべて満たして、それでもまだ言葉がたりない絶対的な存在。
いったいどんな境地なのでしょうか?この境地の事を考えると、私はどうしようもなく憧れる気持ちを抑えられなくていつも圧倒されます。

知らない人は、知っている人の体験を一所懸命聞いたり読んだりして何とかその境地に近づきたいと願ってきました。

先日のサットサンガで、このことについて質問がありましたので、ご紹介します。

質問者「無と神と真実とか真我は全部イコールということなんですか」
ヨギ「無という言葉は抽象的で非常に難しい理解が必要とされます。似た言葉で空という言葉もある。どちらも仏教の教えの中で使われ、またヨーガの聖典にも出てくる言葉でもあるのです。ここでいう無とか空というのは一方ではその心やこの世界、さまざまな有、有限の有、これに反するもう一切のそういう計らいのない無差別の様子を無とか空というふうに表現する場合があります。同時にその無とか空は無尽蔵に福寿というか——福寿というのは至福であったり永遠というものがそこにあると。全く正反対のことを言っているんですけれども、これはどのように理解したらいいかと言えば、一方は心から見た状態を言っているし、もう一方は真理から見た状態を言っている。でも同じ言葉が使われている。こいういうふうに理解せざるを得ない。だから、その無とか空について議論するのは愚かなことなんですけれども、知っているものから言わせればそういうことになります(皆笑)」
質問者「それで神とか真理とか真実は」
ヨギ「そうですね、それを指す場合もあるということですね」
質問者「それは知っているものから見ると」
ヨギ「そう(皆笑)、真理から見た場合は一切の無知とかそういうものがないから、そこにあるのは真理だけだということになるわけです」
質問者「なるほど。本とか読んでいるといろんな言葉があるから、イコールなのかどうなのかなと、ちょっと思っていたんです」
ヨギ「見る立場によってその解釈もずいぶん違って、本によっても違うと思います。でも本当の真実在というものはそんな言葉さえもすべて超えているということも言っておきましょう(おどけられたような様子で)。
無でも空でも、そんなのもどこにも無い。そんなのも全部超えてそれだけがありありとリアリティをもって、それだけが在ります。そしてそれがみんなの本質であり、自分自身です」

生まれて一度も海を見たことのない人に海の説明をするように、言葉を尽くしても決して知らない人のイマジネーションを満足させることはできないです。
しかも悟りの境地は姿形あるものが何一つ及ばない、たったひとつ永遠のものだけがそこに在って、それだけが遍満しているといわれます。
もう知らない人のイマジネーションは限界を超えて自分の思考を飲み込んで、それだけでもの凄い高揚感を覚えます。

何物にも変えられず、何物とも混じらず、永遠にただ在る。
絶対的な存在が私達人間の、そして万物の本質なのだと言われます。この存在を知ったなら、もうどんな思いにも、出来事にも、揺らぐことも煩うこともなく、自由で自立していられる。

ヨーガを続けているとほんの少しの時間ですが、この自由・自在の状態を感じる瞬間があります。心は何の不満も不平もなく、快・不快も超えて…というより、そういった思い自体が湧き上がることなく、目の前の出来事をただ在るがままに見つめているように、泰然とした静けさの中に留まれる瞬間があります。きっとその片鱗を感じ取っているから、知らない世界にいながら、知っている人の世界に強烈に惹きつけられるのだと思います。

絶対に突き抜けてその境地を体得したいです。

Caitanya


さまらさの台所 パエリア

今月のさまらさの台所では、パエリアを紹介しました!

長ーーーい間、たっっくさんの方からリクエストがあったパエリア!やっと紹介することができました。ただのパエリアではありませんよー!これは私たちの先輩であるシャーンティマイーさんのレシピです。今回担当してくれたゴパーラも、さまらさ班のサラニーさんも私も、それぞれが別の機会にご馳走になったことがあります。何かの折にシャーンティーマイーさんが作ってくださるパエリアはとても美味しく、華やかで、食事をしたシチュエーションにも思い出があり、あんな風に作れるようになれたらいいなーという憧れのお料理でした。

参加者のみんさんからは、パエリアを習えることをとても楽しみにされていることが伝わってきました。開始から、調理、食事と終始、華やかなパエリアにふさわしく、歓びに満ち溢れる会でした!!

今回の会のテーマは「食事を楽しむ」、昨年から引き続きでゴパーラが担当してくれました。(毎回担当者がテーマを持って取り組んだ内容を話してくれます)当日話しをしてくれた内容を掲載します。

去年のさまらさの台所ではお弁当という形で、「旬をいただく」というテーマに取り組みました。旬をいただく中で、その旬の食物がもつ美味しさやプラーナから、大地のエネルギーを感じるようになり、「命の恵みをいただいている」という感謝の気持ちが自然と内から湧いてきて、食物が愛おしく、丁寧に調理する自分がいました。それからは、料理を作るのが楽しく、自分の作る料理が美味しく感じられるようになってきました。それまでは訓練として料理をしていたところがありましたが、「楽しんで料理を作り、いただく」というところに心が向かい始めました。今回のパエリアは、みんなでお皿を囲んで楽しく食べれるメニューということで、自分の今の心境にピッタリだと感じました。

 ただ、「楽しむ」ということを考えた時、みんなでワイワイと料理をいただくことも楽しいことの一つだと思いましたが、パーティーのように賑やかに食事することは稀で、普段の料理は割と淡々として地味なもののように思いました。そんな中、「日常の中で料理を楽しむとは何だろう?」と思いながら、今回のパエリアに取り組みました。

 そして今回、パエリアを作っている中で楽しいと感じたこと、それは「輝き」を感じた時でした。今回、パエリアのメインはあさりとホタルイカですが、タマネギも大きく切って一つの具材としていただきました。エリンギは小さく切りましたが、この小さい中に魚介の出汁の旨味が吸い込まれて、深い味わいを出していました。トッピングのパ プリカは火を通さず蒸らすことで、色鮮やかでシャキッとした食感になり、アクセントになりました。最初はシャーンティマイーさんにただ教わった通りに作っていましたが、自分で作っていくうちに、シャーンティマイーさんが食材一つ一つのことを思って作っていることが自然と感じられました。そして自分がこのように一つ一つの食材のことを感じながら作って出来上がったパエリアを見た時、それは輝いて見えました。その輝きに触れ、その料理をいただいた時、内からくる歓びのようなものを感じ、何だか嬉しい、楽しい気持ちになりました。

 この感覚は、去年から実践しているお弁当でも感じられました。私は今までは、「お弁当を作る時間がもったいない」と思っていて、お弁当は前の日の 残りを持っていくことがほとんどでしたが、去年のさまらさの台所でお弁当を担当した時、さまらさ班のサティヤーからは「朝に一品でも作ってみたらいいよ」と言われ、朝にお弁当の一品を作るようにしました。その時にサティヤーは、「私は忙しい仕事の中、お弁当を開けた瞬間が仕事中の唯一の喜び!」とも言っていて、それを聞いた時は「何か食いしん坊やな、それって食べ物に執着してるんちゃうの?!」と心の中で思ったのですが、実際に朝一品のおかずを作ると、お弁当が瑞々しくなり、その蓋を開けた瞬間、お弁当が輝いていて嬉しい気持ちになり、とても美味しい味わいだと感じることがありました。

 毎日の料理は淡々としているかもしれません、でもそんな中にもその輝きが 感じられると、嬉しい楽しい気持ちになるように思います。このさまらさを通していただいた気付きを大切にして、これからも食の恵みに感謝し、楽しい思いで日々の料理に取り組んでいきたいです。

                                        ゴパーラ



 


ブッダ 梵天勧請

みなさん こんにちは

前回のブログにもありましたが、私たちの師は、台湾のグルバイの熱意に答えられ、3月22日に台湾ご訪問の旅に出られます。師の教えがどれだけ多くの人々の苦しみを救っているのか想像もつきません。こうやって世界のあちこちに真実の光が届けられている今の時代に、共に生まれてくることができたことに深く感謝し、師の台湾ご訪問をお祝いいたします。

さて、四月八日のブッダの御聖誕日を控え、そのお誕生をお祝いし、久しぶりに本願寺出版社の「ブッダ」よりご紹介したいと思います。

 

完全なる解脱に至る法を見出すまでこの坐を動かない。
そう決意して、沙門ガウタマはアシュヴァッタ樹の下に坐を組んだ。生と死、苦の根源へと思いを深め、徹底的に苦の原因をみきわめ、本質を暴き出す、沙門ガウタマ。
明け方近く、沙門は静かな瞑想の中で完全なる解脱に至る道を見出した。それからガウタマは七日間、瞑想を続けた。
これから何をすればいいのだろうか。
「速やかに涅槃に入るがいい。シャカ族の王の子よ」「お前は完全な解脱への道を得た。お前の願いは満たされた。もう娑婆にいる必要はない」マーラの声が虚空から聞こえてきた。
この法は世の中の常識からかけ離れすぎている。誤解され、かえって人を惑わし、迷いを深める原因になってしまったなら、それは本意ではない。ガウタマの心は沈黙を守ることに傾き始めていた。
このままではいけないと梵天は急いで天空から降り立った。「ブッダよ。あなたは完全な解脱への道を得られた。どうか、その法をこの世の生きとし生けるものに説いていただきたい」
ブッダはしばし沈思し、静かに現世を見回した。たしかに梵天の言うとおり、この世にはさまざまなものが生きている。法を聞いて共感し、理解するものもいるかもしれない。しかし、それは本当にわずかな人々だろう。しかも解脱に至るのは容易ではない、堅固な意志とひたむきな精進が必要だ。
「ブッダよ。ほんの少しでも望みがあるなら、あなたはこの法を説くべきだ。この世に生きるものたちは迷い、苦しんでいる。それを教えるのが、あなたの得た道ではないか。そうであるならば、ブッダよ。あなたはどんな困難があろうと法を説くべきではないか」
沈黙のあと、ブッダの口元に慈悲にあふれた微笑が浮かんだ。
私は法を説こう。ブッダの耳に歓喜の声が届いた。ブッダは座を解き、ゆっくりと立ち上がった。清浄な光が射して、ブッダの歩く道を明るく輝かせた。

梵天様の説得がなかったら、そしてブッダの慈悲の思いがなかったら、今のこの世の中はどうなっていたのでしょうか。時空を超え、私たちはブッダから、そして私たちの師から、苦を滅する道を授けられ、この暗闇の世界の中、まっすぐに光に向かって歩んでいる実感があります。この幸運をどう表現したらいいのでしょうか。このご恩を、身をもってお返ししたい、ブッダや師を見倣い、真実を見続け、実現したいと願うのです。

シュリー・ラーマクリシュナは、私たちを苦しみから救うべく顕れた神の化身についてこうおっしゃっています。

ダッタートレヤやジャダバラタのような賢者たちは、ブラッマンのヴィジョンを得た後、相対界には戻って来なかったといわれている。ある人々によるとシュカデヴァはブラッマン意識のあの大海の、たった一滴を味わっただけだそうだ。彼はあの大海の波を見、かつその轟音を聞いた。しかしその中に潜りはしなかった。高い塀の向こうに無限の原野があった。四人の友達が、塀の向こうに何があるかを見たいと思った。その中の三人は、次々と塀をよじ登り、原野を見ると大声で笑い、向こう側に転げ落ちた。この三人はまったく、その原野について情報を伝えることができなかった。第四の男だけが帰ってきて人々にその情報を話して聞かせた。彼は、他の人々を教えるためにブラッマジュニヤーナを得た後にも、自分の肉体を保持する人々に似ている。神の化身はこの類に属する人々である。

私たちのために戻ってこられた神の化身の方々、そのことを私たちはどれだけ理解できているのでしょうか。みなさんだったら塀の向こうに行ってしまいますか?自分のためではなく、他者のためだけに生きる神の化身の生き方を見倣って生きていきたいと思いました。

ダルミニー


ラーマクリシュナの福音

みなさん、こんにちは
もうすぐ桜の季節ですね。桜といえば、「花祭り」、四月八日はブッダの御聖誕日です。ブッダはインド北部のルンビニ園でお生まれになりました。そこはたくさんの花に囲まれた美しいところであったということで、御聖誕日にお花をお供えするようになり「花祭り」と呼ばれるようになったといわれています。そしてその日は、「サナータナ・ダルマ アヴァターラ・メーラー 神性示現大祭」がプレーマ・アーシュラマで開催されます。アヴァターラとは神の化身、神人であります。この世で苦しんでいる私たちの救世主として、慈悲深くもこの世に顕れてくださいました。その時代時代に顕れた神の化身の方々の顕れをお祝いする大祭です。このお歓びの日が待ち遠しいですね。

 

さて今日も「ラーマクリシュナの福音」からご紹介いたします。

ある日の土曜日、Mがダクシネシュワルに着いたのは朝八時ごろだった。シュリー・ラーマクリシュナは自室の小さい寝台の上に座っておられた。床に数人の信者が坐っている。
ラーマクリシュナ「お前は巡礼に出るつもりなのか」
ゴパール「はい、少し遍歴してまいりたいと思います」
ラーム「師は、人はさまざまな聖地を訪れるサドゥーであった後に、旅への願望が十分に満たされると、一カ所に坐っているサドゥーになるのだとおっしゃっています」
ラーマクリシュナ「神は『そこに』おいでだと感じるあいだは、その人は無知だ。しかし神は『ここに』おいでだと感じると知識を得るのだ。ある男がタバコを吸いたいと思った。炭に火を付けてもらおうと隣の家を訪れた。真夜中のことで家人はもう眠っていた。さんざん戸を叩いた後、誰かが出てきて扉を開けた。そして、『おや、どうしたのか』と尋ねた。『分からないかね、私のタバコ好きは君も知っているだろう。火をもらいにきたのだよ』と男が言うと、隣人は『ハハハ!君はまったくりっぱな御仁だ。わざわざここまでやってきて、戸を叩いて。まぁ、自分の手に火のついたランプをさげているではないか』と言ったという。(みな笑う)人が探し求めるものは彼のすぐそばにあるのだ。それでも彼は、ここかしこさまよい歩くのだよ」 

現代でも「自分探しの旅に出る」という人の話をよく聞きます。そして私たちも長い心の旅を続けてきました。旅に出て、どこまで本当の自分を知ることができたのでしょうか。本当の幸せや自由はそれによって得ることができたのでしょうか。旅の終わりに私たちはヨーガと生涯の師に出会うのだと思いました。ヨーガは真実を実現させるもの、自分自身に内在する本当の自己を目覚めさせるものであると師から教えていただいています。 

真実を知った存在がインドには連綿と顕れてきました。そして彼らの達した、あるいは彼らが目覚めた真実の証言はこうです。『かつて、この全宇宙の背後にあって、偉大なる存在として昔から求められていたものと、この体の中にあって、私という真実の存在とは同じである』。その真実は言葉も届きませんし、形もありません。神という言葉さえ届きません。言えることは、それは『ただ在る』というものです。それだけがリアリティです。それがあなたです。真実は既に私たちの中に在ります。ただちょっと心がそれを覆い隠して邪魔をしているようなものです。無知という暗闇を払い除けなければいけない。そうすれば、もう既に在る真実は独りでに輝くでしょう。

               サット・グル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

本当の自分、本当の幸せや自由はここかしこを探さなくても、もう既に自分の中にある。それを思い出すために私たちは生まれてきたのだ。この教えがどれだけ、私たちを勇気づけ、前に進ませてくれていることでしょう。

時空を超え、真実の教えに触れる、このありがたさ。
人間の魂を揺さぶり、目覚めさせる、神の化身(アヴァターラ)に勝利あれ! 

ダルミニー


ブッダに迫る。

早いものでもう三月。春の気配が一気に増してきて、街はどこかウキウキした感じがします。新しいことを始めるには、いい季節ですね。

私も春から新しいチャレンジを始めました。
ブッダへの瞑想です。

ブッダを全く知らない方はいないと思いますが、私は限りなくそれに近い存在でした。
悟りを開いた仏教の始祖。キリストよりも古い時代の聖者。インドの山奥で修行した人。
正直その程度しか知りませんでした。

ブッダについて学んでいくと、先ずでてくる教えが、諸行無常・一切皆苦ではないでしょうか?
それにしても、なんと身も蓋もない言葉でしょう。
漢字四文字熟語というのもあいまって、私には厳酷でもの凄く陰気な、全く絶望のようなイメージしかありませんでした。
「そんなもの俺には関係ないぜ!!」と若い頃なら息巻いていたかもしれませんが、実際にこの年齢になると身にしみて思い知らされるばかりです。

「欲望を叶えたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、彼は実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。」
「欲望を叶えたいと望み、貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、彼は矢に射られたかのように悩み苦しむ。」

「いちいち言われなくても知ってます!」です。
でも分かっているのに、どうやったって同じ事を繰り返してしまいます。

それほどまでに人間は欲深く、儚いものになおさらのこと執着してしまいます。
ついには追い求めることがロマンだなんて言ったりもして・・・・・・

覚者からすれば馬鹿で愚かな人間も、幸せになりたいと願う気持ちは常に本心からあるのです。
ただ、無知がその純粋な願いを遠ざけ、延々と繰り返し続ける因果の輪から出られないのです。

仏陀は人間の苦しみを本気で真っ正面から考え抜いた人だと思います。
苦しみの種類を見分け、成り立ちを観察し、遂にはその原因と解消法を発見したのです。
でもそれは一般にはとても理解しがたく、簡単には手に入れられない境地でした。

命を賭けて自らを痛めつけ、全てを投げ打って苦行を課してもダメ。諦めて享楽に耽っていながら神頼みだけしていてもダメ。

「慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。」

慈悲喜捨を意味するという解釈もあるようですが、私は先日のサットサンガで師が仰った、四つのヨーガの完成形の心境のように感じました。

この世の理は確かに残酷で、夢も希望もねぇ!かも知れません。でもそれを大前提として認め、受け入れる覚悟をした上で、
実はそこから離れられる術があるのですよ!と諭して廻った。
本当は誰よりも人を愛し、生涯を目の前で苦しむ人に手を差し伸べ続けた、慈悲そのものの人だったのだと感じます。

仏陀よ、私は貴方のハートを理解できていますか?
私はもっと貴方を思い、貴方に迫ります。

二千五百年前、一人の人物が人類の根源的な問題の答えを解き明かした。
しかし仏陀以前にも、幾多の覚者がこの答えを解いていたと言っています。その記しは人類の共通の記憶として現代の私達の魂にも刻まれていると言います。そして瞑想で、その記憶にアクセスすることができるとも。

来月、四月八日は仏陀の聖誕日。そしてMYMの祝祭、サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラーが開催される日です。
それまでに少しでも深く仏陀のハートに迫って行きましょう!!

Caitanya


美しい世界が見たい

家庭を持ち、子育てをし、仕事をしていると、職場関連、子供の学校習い事関連。親戚関連など、本当にいろんな人とお付き合いする機会があります。

人と接する時、心に留めている言葉があります。

「トゥルシダスは『善い人にはこの世は善で満ちている。しかし悪い人にはこの世は悪で満ちている!』と言っている。この世は善くも悪くもない。私が善と呼ぶものをあなたは悪と呼ぶかも知れないし、その逆もあるだろう。何処に標準があるのか。標準は、人生に対するわれわれ自身の態度の中にある。各自がかれ自身の標準を持っているのだ。しかも経験と洞察力とが深まれば標準も変わって行く。残念なのは、われわれがまだ悪を認める、ということだ。われわれ自身が完全に善になったら、全世界が善として現れるであろう。われわれは自分の心の投影を見ているにすぎないのだ。常に一切万物の中に主を見よ。そうすればあなたは悪を見ないだろう。疑い深い心はあらゆる処に悪を見る、信頼の心は善だけを見る』

「だが、誰が理解しようとするか。誰もかれもが自分のエゴの中に閉じこもっている。その牢獄の中から、われわれは世界を判定する。治療法は、すべてのものの中に主を見ることである。」(スワミ・トゥリヤーナンダ)

人間関係でこじれるときは、よくよく考えると、結局どんなときも、自分の中に疑いの目があったことが分かります。神だけを見て謙ることが出来たとき、そこには美しい世界が広がります。

疲れていたり、自分を調えられていない時は、濁った目で人を判断しがち。

アーサナ・瞑想、真理の学び。地道なのだけれども、やっぱりこれらのクリアヨーガを毎日行うことが、素直に飛び込んでいける秘訣なのだと思います。

いつでも、どんなときでも、神だけしか見えない人に、なりたい。

京都のとある公園、桜の花が少し咲き始めていました。


ブラゴパーラ vol.5 「高山寺 明恵上人」編

皆様、こんにちは。
寒い日が続いていますが、わずかばかりか日差しも暖かく感じられ、春めいてきましたね。
今回のブラゴパーラでは、立春の2月4日に洛西高雄の「高山寺(こうざんじ)」を訪れてきました〜😎

ここは、洛中の喧噪を離れた深山。
凛と立つ杉の木が物語るように、そのプラーナ(気)は澄み切っていました。

境内に入ると、「明恵上人」の掛け軸がありました。

弟子の成忍が筆写したものといわれているそうです。

この高山寺は、鎌倉時代に明恵上人が開山したお寺。
大学で仏教を勉強していた私でしたがその当時は、明恵上人のことは「法然を批判したお坊さん」ということだけしか知りませんでした😅
この明恵上人は、『摧邪輪(ざいじゃりん)』という書物で法然の念仏を批判をしています。
その内容は、念仏を唱えることによって救われるとする法然の専修念仏に対して、仏道には悟りを求める「菩提心」が必要不可欠だというもの。
ただ今回、この明恵上人に触れてみると、念仏批判をしたこの明恵上人こそが「念仏者」なのでは👀❓と感じさせられました。

明恵上人は、宗派は華厳宗ですが、若い頃から真言密教や禅、またサンスクリット語を学んでいたエリート。
将来を嘱望されていましたが21歳の時に国家的法会の参加を拒み、その後は遁世して和歌山の白上、京都の高山寺で修行に励みます。
この間、ブッダへの強烈な思慕が顕著になってきます。
ブッダへの思いから『大唐天竺里程記』という書物を作って仏跡巡礼の計画を立て、2度もインドに渡ろうとしたほど(一度は病、二度目は春日明神の神託で断念)。
そして何よりブッダへの強烈な思慕の表れは、禅定に入るために自らの右耳を切り落としたということ――
出家して奥深い山に入ること自体、煩悩を断ち切らないとできないこと、またそこで修行していたら煩悩がなくなっていきそうな印象も受けます。
それでも心の奥深いところでは切っても切れない根深いものが煩悩だということを、明恵上人は教えてくれます。
しかし、その煩悩を断ち切って悟りに至りたいという覚悟から、彼は右耳を祭壇にくくりつけ、切り落とします。

「楞伽山(りょうがせん)」(インドの南海地方にあるとされる山)と名付けられた高山寺の裏山。
そこで穏やかな表情で瞑想している明恵上人。

ただ、切り落とされた右耳は隠れています。
私はこの掛け軸を見ているとその穏やかな表情の背後から、明恵上人の悟りへの凄まじい情熱と、そして何よりブッダへの愛を感じずにはいられません。
このブッダへの純粋な思いこそが「本当の念仏」ではないか、そう感じた今回のブラゴパーラでした。

この高山寺には日本最古の漫画とも称される絵巻物「鳥獣人物戯画」も伝わっています🐸🐰

ゴーパーラ


この春、瞑想を始めよう! in 松山

先週末2月17日に松山ヨーガ・サークルにて2018年瞑想特別クラス7回シリーズが始まりました。少し暖かく春の気配を感じる気候になり、松山ヨーガ・サークルの前では、目を引く鮮やかなピンク色のチラシを覗き込むように読んでいる人を見かけました。

昨年まで3年間瞑想特別クラスを行なってきましたが、今年からは基礎編「瞑想を始めよう!」に戻り、一から瞑想を学んでいきます。

初回「瞑想のイロハを学ぶ!」では、瞑想していくとどうなるのか、瞑想とは何なのか、どうやって進めていけばいいのかなど、今年一年の土台となることを学び、実習しました。初めて参加する方や、もう一度基礎から学びたいという方など、40名の方が参加されました。

*写真:ヨーガや瞑想の教えをわかりやすく学び、Q&Aで理解を深めていっています。瞑想していくと・・・・

  • 心がとても静かになり、いろんな執われから解放されていきます。
  • 心は澄み渡り、日常が変わります。
  • 不思議なことに、喜びに満たされていきます。
  • 集中力がつき、いろんな物事に動じなくなっていきます。

*写真:瞑想の実習では、静かな気が会場を満たします。

今回、昨年まで3年間熱心に学んで来られた山口さんが、ご自身の実践と経験を寄稿してくださいました。毎日の実践の様子が伺え、とても参考になる内容だと思いましたので、ご紹介させていただきたいと思います。


松山 瞑想特別クラスへの参加は、今年で4年目になります。

3年前、家族や世間への義務を果たしながらヨーガに取り組んでいくことは、困難なことだと感じていたのですが、今回、基礎編の第1回目を受けて、瞑想をしていくとどうなる?の教えに「たしかに!そうなるよなぁ。」と思いました。そうなんです。この3年間「実践していきたい」の感想しかなかったのに⁉︎です。

瞑想特別クラスでは、この3年間、心の仕組み、瞑想の目的や方法、ヨーガの教えを聞き、自らの理想の生き方、そのためにどうすることが必要か考える機会とそれを実践していく勇気や励ましを直接的な言葉ではないのですが頂いてきました。

ヨーガを初めてから瞑想の対象は、「神」と決めています。でも、毎日座ることはできなかったし、時間も短いし、神への瞑想というよりは、心のおしゃべりを聞いて終わるばかりでした。それが変わるきっかけになったのは、私にとっての理想の生き方が明確になって、神への想いを強くしていきたいと神の御名を唱え、神を讃え歌うと決めて、昨年の5月から毎日、キールタン を歌ったことです。場所に応じて、声を出したり、声は出さないで、心の中で歌ったりしています。

最初は、意識的に、心がおしゃべりをはじめたら歌うように癖をつけることからしました。でも、しばらくすると、意識的にしなくても気がついたら歌うようになっていました。最近では、仕事中でも、することがない時は、神の御名と神への想いが身体に流れて、嬉しくてニヤニヤしている自分に驚くことがあります。

日常の中で神を想う時間が増えると、アーサナや瞑想で心がおしゃべりをすることがなく、心の静けさの中で行うことが少しずつ増えてきました。また、アーサナや瞑想を行うことが神を想う時間を増やしてくれる、相乗効果があると感じています。

まだはじまったばかりの実践ですが、この1年、瞑想特別クラスを通してさらに、バクティ・ヨーガを深めていきたいです。

山口正美  *写真は、御聖誕祭でキールタンを奉納する山口さんです。山口さんは松山ヨーガ・サークルでキールタンの会をサブリーダーとして運営されています。


サットサンガより プレーマ 真の愛 

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

愛とはいったい何でしょうか?

愛する人がいるとき、気持ちが高まってただその人だけを思う。昼も夜もその人が心を占めている。
強い昂奮と多幸感に支配されて、食事もいらない、眠りもしない、そして何も恐くない。
でもその幸せな状態に長く留まりたいと願う反面、現実には時間と共にその感覚は薄まり、状況が少しずつ変化するにつれ、相手に対する新鮮味がなくなり気持ちが離れていくことも。

愛は絶対のものでしょうか?
永遠の愛、本当の愛とはどんなものなのでしょうか?

先日のサットサンガで、愛とヨーガについて師が説かれました。

「ヨーガの完成、悟るべき真実というのは不滅の存在。これは二つとない唯一の存在であり、純粋意識、そして至福という歓喜です。バクティ・ヨーガの完成とはプレーマという真の愛、本当の愛です。では本当ではない愛といえば何かというと、いわゆる人間的な愛。この世俗に見られる一時的な愛。これはその陰に憎しみやら、さまざまな不完全なものをもっているからゆえに真実ではない。
だけどバクティ・ヨーガにおける愛というのは、真実の愛。これは言い換えれば献身奉仕です。他者への愛。『隣人を愛せよ』というものにも通じる献身奉仕。

この献身奉仕はカルマ・ヨーガのゴールでもある。それは同時に自由自存というラージャ・ヨーガのゴールとされている境地でもある。また、それだけが在るというギャーナ・ヨーガのゴールでもある」 

四つのヨーガで悟る真実というのは、二つとない唯一の存在。それは純粋な意識であり、至福そのもの。
何物にも依存しない自由な自己。それだけが在るという境地、そのありのままの状態で他者に献身奉仕することが至福、つまり完全な真の愛と同一した状態。
これが解脱。ヨーガの完成。
何と美しく、完全で、円満で、自由なのでしょう。

師は最後に、エゴや無知に阻まれ、不完全ながらも世俗で修行する私達弟子に希望の言葉もおっしゃられました。

質問者「真理や神に対する最高の愛、プレーマは世俗に生きる生身の人間同士の間にも発生できますか」                                                                                    (低く力強いお声で)「できますとも」

質問者「それが自由自存ということになるのですか」                                                                           「はい、そうです。」

質問者「それは肉体の制限を超えるのですか。例えば生涯の間の時間であったりとかそういうものも超えて」
(即答される)「超えます」

質問者「永続するもの」
(ハッキリとしたお声で)「はい。」

私はまた雷に撃たれました。師の御言葉がハートを貫きました。

本当の愛を、何が何でも実現したいと心に誓いました。

Caitanya


ウェブサイトをリニューアル!

本日、マハーヨーギー・ミッションのウェブサイトをリニューアルしました! それにともない新しいコンテンツもいくつか増えましたのでご紹介したいと思います。

WEB

ぜひ、お読みいただきたいのは、「真理の教え」!
http://www.mahayogi.org/teachings-of-truth

記念すべき、シュリー・マハーヨーギー台湾初訪問、第一回目のサットサンガの記録を公開させていただきました!!!
答えを求めて熱心に問いかける人々、それに対し、軽快に、力強く、また親しみ深く語りかけ、導かれるシュリー・マハーヨーギー。快活にテンポよく進んでいく問答の様子からは、真理の息吹!まさにサットサンガの醍醐味が感じられる、臨場感溢れる内容となっています。

 さらに!師の教えのエッセンスを、生きる秘訣、ヨーガの道/実践、信仰と愛、瞑想、真理・真実在という5つの項目に沿って、新たに抜粋・編集したものも掲載しています。

 私たちが人生の中で唯一実現すべき真実と、そこに至る道しるべが、これほどシンプルで明快に、体験に基づいて具体的に示されていること、そして何より語られた存在が、遠い過去でもなく、海の向こうのインドでもなく、現代の日本に今、おられるということは驚くべきことでしょう。

この「真理の教え」の一ページが、何かを求め探している人、道に迷っている人の目に少しでも留まり、新たな扉を開くきっかけになったら、と願います。

 師シュリー・マハーヨーギーについて
http://www.mahayogi.org/shri_mahayogi

 その他、中世の聖人ミーラー・バーイー、チャイタニヤ、カビールの生涯や、台湾で活動しているヨーガの仲間、プラサーディニーの手記も掲載しています。