ヨーガの実践」カテゴリーアーカイブ

『ヨーガ・スートラ』写経ーー『インテグラル・ヨーガ』

9月に入っても暑い日が続いていますが、皆さまはこの酷暑、どのように過ごしておられますか?
私は先月、『ヨーガ・スートラ』の写経に取り組んでいました✍️
3年前にもその写経をしたのですが(『ヨーガ・スートラ』写経)、今回はスワミ・サッチダーナンダが『ヨーガ・スートラ』を解説した『インテグラル・ヨーガ』を写経しました。
実はこの本、私たちの師シュリー・マハーヨーギーが翻訳監修に携わっていて、私はその一つ一つのスートラ(節)を写経していると「あぁ、師の的確で明細な表現だ〜!!」と感じ入り、師の息吹に触れたように感じられました。
さて、ちょっと問いかけなのですが、ヨーガの偉大な発見って、何だと思いますか👀?
「梵我一如」の発見、「無知」の発見、「バクティ(信愛)」の道の発見など、たくさんありますが、「見ている意識(本当の自分)」の発見もその一つだと思います。
『ヨーガ・スートラ』では、心をただ客観的に観照している「見ている意識」があり、それが「本当の自分」であると説いています。
私自身、「見ている意識」を知ったのは、師シュリー・マハーヨーギーのニューヨークでの問答が収められた『プラナヴァ・サーラ』という聖典を読んだ時でした。
その時まで私は、心が自分だと思うこともないほど、心が自分であり主体だと何の疑いもなく思い込んでいました。
しかし、「見ている意識」を知った時、「今、確かに見ている意識が在り、心は見られている。心は客体であり、主体は見ている意識である」ということに気付かされ、そして次の瞬間、心は電流に打たれたかのような天地がひっくり返るほどの衝撃と顛倒(てんどう)が起こりました。
それにより、その後の1週間ほどは心が真実を知った歓び、そしてそれを教えてくださった師への感謝で満たされたのでした。


今回、『ヨーガ・スートラ』の写経をして再認識したことは、やはり「見ている意識」について『ヨーガ・スートラ』は克明に書き記しているということです。
また、「見ている意識」に留まれるように、心の煩悩を無くすアプローチも仔細に説いています。
大袈裟に聞こえるかもしれませんが、『ヨーガ・スートラ』は苦悩する人類を救う「希望の光」だと感じています。
心は「見ている意識」を知らないから、欲望や世界に巻き込まれ、苦しんでいます。
そして何より、聖典が輝き、人を苦しみから救済へと導くのは、「グル(師)」によってです。
グルの存在ゆえに、難解な聖典に光が当てられ、人は真実を知り、実現したいと思えるのです。

私がグルから教えていただいた「見ている意識」ーーその真実を初めて知った方は、今、この瞬間、目を閉じて、その存在を感じ取っていただけたらと思います。
それは誰もの中に在る確実なるものです。

ゴーパーラ


ヨーガ・サーラ・スタジオ20周年記念企画 アーサナクラス/瞑想特別クラス 基礎編

8月23日(土)愛媛県松山市では、ヨーガ・サーラ・スタジオ20周年記念企画の一環として、京都のマードゥリーさんをお招きして、特別クラスが開催されました。
午前中は、近くの公民館をお借りしてアーサナクラスがあり、最初に30分ほどの講座もありました。

講座の様子。細密画やチャクラ図を使って目に見えないプラーナ(気)やチャクラ、土、水、火、風、空という五大の物質との関わりについて分かりやすく教えてくださいました。

体操とは違って、大いなる哲学を土台に持つことを学んだ後に行なうアーサナ。会場全体がしんとした神聖な空気に包まれました。

午後からの瞑想特別クラスでは、識別の瞑想についてお話と実践がありました。真理を学び、考え、瞑想する。識別の大事なポイントを教わりました。
識別というのは、自分の心を真理と照らし合わせて、不要な思いなどをバサバサと心の中から切り捨てていくことです。真理とは、完全、純粋、永遠、不動のものです。真理ではないものは、必ず変化していきますので、心がそういうものに執らわれていると、それがどんなに魅力的なものであったとしても、必ず苦しみに終わるのです。苦しみを取り除いて、軽やかに生きていくためにも、真理ではないものを心から切り離して捨てていくのです。

「何のために生きるのか」ーーマードゥリさんご自身がじっくり向き合った体験談を交えて識別について話してくださいました。

30分間、静かに瞑想。

当日、マードゥリーさんが選んでくださった7つの真理の言葉の中から各自、好きな言葉を選んでしおりに書き写して、持ち帰りました。

真剣に選ぶ参加者の皆さん。15分以上考えこむ方もおられました。

しおり作成チームのスタッフが喜びをもって美しいしおりを用意してくださいました。好きなしおりを選んで真理を書き込みました。

朝から夕方まで、盛りだくさんの1日でしたが、参加者のみなさんはとても充実されたようで、喜びの声がたくさん届いています。

(参加者のみなさんのご感想)

・今日の講座を聞いて強く感じたことは、「何のために生きるのか」という問いをあやふやにしてしまっている自分です。マードゥリーさんもはっきりおっしゃったようにあやふやにせず、真理を軸に徹底して追求し、検証すること。アーサナを1つ1つ大切に行なうように、命の様々なシーンに対しても、情熱をもって集中していけるようになりたい。

・30分じっくり座って、自分の心の奥深くまで潜っていく感覚がありました。普段ふわっとした理解で満足しているところを感じ、無意識に執着している対象があることに気付かされました。「もっと知りたい」という知識欲も煩悩の一つだと再確認しました。心の習性はしぶといものだと、また学びました。また、こういう機会があれば参加したいです。

・マードゥリーさんの力強いメッセージが明確に入ってきたことで、聖典を読む時に自分なりに漫然と読んでいることに気が付きました。不要なものに時間を割いていることを再自覚しました。

松山に来てくださったマードゥリーさんは、蓮の花のように優しくきれいな人でした。同時に、何事にも動じない堂々とした佇まいで、未来を切り拓いていくような力強さを感じました。マードゥリーさんと少しばかりの時間を共有したことによって、その力強さが少し、私にも乗り移ったのかもしれません。美しい真理のしおりを抱きながら、元気な足取りで帰路に就く、最高の一日でした。

笹沼朋子


『マハーヨーギーの真理のことば』第一章「愛の真理」

アーサナ中に体験した忘れられない出来事があります。
アーサナを始めて何年か経ち、少しずつ真理の教えにも触れていっていたある日、いつものように自宅でアーサナを行なっていました。すると、「このままではだめだ!!」という思いが突然やってきて、私はアーサナを中断して立ち上がりました。

その頃、我が家では、イチゴという名前の白い犬を飼っていました。私は、彼女の自由にできる場所をリビングだけに制限していました。理由は、部屋が汚れることがとにかく嫌だったからです。今となっては、とてもエゴ的で傲慢な行為だったと思いますが、本当にあの瞬間までは、それが間違っているとは思いもよらず、考えることすらありませんでした。
けれどその時、私はアーサナを中断して、部屋を行き来できないように置いていた柵を取っ払って、彼女が家の中を自由に行き来し、過ごせるようにしました。そして、当たり前のことなのですが、汚れたら綺麗にすればいいと素直に思えたのです。その瞬間、憑き物が取れたかのように、私自身も自由になれたような清々しい感覚と救われたような気持ちを味わいました。そして、彼女以外の家族にも窮屈な思いをさせていただろうことにも気付きました。

それ以来、彼女の毛並みはツヤツヤとして、元の白さを取り戻していったように見えました。そして以前よりも生き生きとして、元気に走り回っているように見えました。私はその姿を見て深く安堵しました。

部屋を清潔にしておくことや整えておくことは、もちろん悪いことではありません。できるだけそのようにしておく方が、私だけでなく、きっと家族も心地良く過ごすことができるだろうと思います。けれど、心の思いは、完全に純粋なものではなく、「私」と「私のもの」への執着が入り混じり、時に、それはエゴ的で傲慢な行為となり、他者を苦しめたり、気付かないうちに傷つけてしまうこともあることを知りました。

天国と地獄は人の心の中にあります。あなたが「私」と「私のもの」を突っ張ればそこは地獄になり、「あなた」と「あなたのもの」に自らを捧げるなら天国になるのです。心は迷いやすく間違いを犯すかもしれないが、自らの苦しみを避けるためには他者を苦しめてはならない。自らの幸いを招くためには他者の喜びに奉仕することです。それは愛です。

『マハーヨーギーの真理のことば』第一章64頁

彼女が旅立った時、自分のしていたことを本当に申し訳なく思い、彼女が生きている間に大切なことに気付かせてもらえたことを改めて深く感謝しました。
そして、また同じような間違いを犯さないように、この教えを大切に心に留めています。

サットサンガで、あの日の出来事についてお聞きした時、ヨギさんは、良い気付きだったこと。そして、アーサナによって集中状態が生まれ、心が静まり、瞑想のような状況が訪れたことを教えてくださいました。

ヨーガを正しく学び、実践していくことは、誰もにとってより良く生きるためのたしかな拠り所となり、道標になってくれると思います。
一人でも多くの人がヨーガと出会えますように。真実を求めて、真摯に学びと実践を続けていきたいです。

藤原里美


東京イベント報告 ヨーガに触れる2days

8月2、3日に、東京・中野で、特別クラス「ヨーガに触れる2days」を開催しました。 
京都在住で大阪・西宮北口クラスを長年担当されているシャチーさんを講師にお迎えして、2種類のクラスをしていただきました。 day1は、「呼吸を知る・体と向き合う・心を静める アーサナ・瞑想」のクラス。初めての人にも分かりやすいように、MYMのクラスで行なっているアーサナ(ポーズ)について大切なポイントを聞いた後にアーサナする流れで行なっていきました。 
      アーサナ後の静まった雰囲気の中、しっかり集中されているように感じました。

この日初めてクラスに参加された方に感想を伺うと、楽しかった、気持ち良かった、と笑顔で答えてくれました。  私も参加者の1人としてアーサナしましたが、長年実践している人にとっては、1つ1つの動きを今一度確認し、丁寧に形を作り、吐ききる呼吸を意識して行なうことで、より集中感を高めて瞑想しやすい心身に調えることができたと思います。 

day2は、「カルマ・ヨーガに倣う 働きの秘訣」を学ぶ講座。 
現在、東京で毎月開催している瞑想会ではヴィヴェーカーナンダの『カルマ・ヨーガ』をテキストにして進めていることもあり、カルマ・ヨーガを分かりやすく教えていただきたく、シャチーさんにリクエストして実現しました。 
 
カルマとは、原因とその結果。この世界に対して行なった行為は、必ず自分に帰ってくる。
例えば愚痴を言うとスッキリするように感じるかもしれないけれど、かえって心に愚痴の印象が刻まれて苦しくなる。言葉として外に出さないようにすることで、次第に思いはなくなり、心は真の穏やかさを感じるようになる。
目の前に困っている人がいたら助ける。これは他者を助けているようで実のところ私たち自身を助けていることになる。
日常生活のあらゆる場面で「私がしている」という思いを手放していくことで、目の前の人だけを見てその人が喜ぶことができるようになる。いつもの行為がヨーガとなり、喜びをもって他者に奉仕する、というカルマ・ヨーガの理想に近付いていく。

カルマ・ヨーガという言葉を初めて聞く方もおられましたが、シャチーさんご自身の体験談を元に親しみやすく話してくださったので、皆さん時折笑いながら熱心に聴き入っていました。 
シャチーさんが描かれた細密画。講座の中で描くきっかけになったエピソードも紹介してくれました。

 
初めて参加された方からの感想です。 
・今日のお話は目から鱗で、どれから実践してみようか、楽しみながらトライしてみようかと思っています。 
・講座の中で耳にした「軽やかに生きる」、良い言葉だと思いました。そうなれるように生きていきたいと思います。 
・これまでアーサナをしたり、クラスで聞いたことを実践をしてみて、特に介護をする上でヨーガの効果を感じてはいたけれど、今回のお話を聴いて、自分が感じていたことが一つに繋がったような感じがしました。これからは今日のお話を思い返し、進んでいきたいと思います。 

講座が終わった後、細密画をシャチーさんの解説付きで改めて鑑賞。

特別クラスから1週間ほど経った頃、改めてお2人の方にその後の様子を伺ってみました。 

day1に参加されたIさんは、その日から毎日アーサナを続けるようになったそうです。 これまで毎日やった方がいいと思いつつできずじまいだったけれど、仕事の疲れや悩みを解消して自分を変えるためにも、今度こそ続けていきたいと思いを強くされたようでした。

day2に参加されたMさんは、何かとぶつかりがちだった家族の話を、相槌を打ちながら聞くようにしているとのこと。それは、シャチーさんが語られた、師が目の前の人に常に穏やかに優しく接して、頷きながら真剣に話を聞いていた、というエピソードが印象に残ったからだそうです。

2日間の特別クラスがヨーガの本質に触れる良い機会になったようで、嬉しいです。 

大阪でシャチーさんのクラスを受講していた方も参加してくれました!

ハルシャニー  

 


夏休みブログ🍉🎐〜円空や鬼、ブッダのことばについて〜

残暑お見舞い申し上げます。
まだまだ暑い日が続きますね☀️
今回は夏休みシーズンということで、ちょっとラフでフリーな感じでブログを書いてみました🏖️🏄
少し長くなったのですが、お付き合いいただけたらと思います🙏

1年半ほど前になりますが、あべのハルカスで開催されていた円空展に行ってきました。
円空は生涯で民衆のために12万体の仏像を彫ったと伝えられている修行僧です。

飛騨千光寺に伝わる金剛力士像。まるで木からそのまま仏が現れたかのような姿です。寺の境内の立ち枯れた木から直にこの像を彫ったとか。

円空の特徴は大胆な荒彫りーー私は初めてその彫りをネットで目にした時、衝撃を受け、私の心にも深い印象を刻み込みました。
そこからというもの、円空に魅了された私は、その仏像が安置されている滋賀や岐阜のお寺に足を運びました。
その時のブログはこちら💁「ブラゴパーラvol.8」

この円空展では、たくさんの作品(円空仏)が展示されていました。
素朴な微笑みを浮かべる数々の円空仏を見ていると、円空が民衆のために12万体の仏像を彫ったという事実が心の中に浸透していきました。
円空のその偉大な行跡はもちろん知ってはいたのですが、実際に円空仏を見ていると、自然と頭が下がる思いになったのです。
ブログを1000書いたとしても円空には遠く及ばないし、アーサナを毎日12ポーズ×12年間やり続けても50000ポーズほどです。
数がいちばん大事ということではないですが、円空仏と対面することで、彼の行動がどれだけ驚異的なことであったのか、また神狂いであったのかと心の奥から感じ、謙虚な気持ちになりました。

そして円空展の目玉は「両面宿儺(りょうめんすくな)」でした。
『呪術廻戦』という人気漫画に登場し、有名になった鬼神です。


歴史上で両面宿儺は朝廷に叛逆した飛騨の豪族だと言われ、異形の鬼の姿で伝えられていますが、地元では武勇に優れた英雄的な人物だったそうです。
その両面宿儺の像を円空が飛騨高山の千光寺に滞在中に製作したようです。

ちょっと話は逸れますが最近、仕事で映画『鬼滅の刃』を観る機会があったのですが、鬼にもいろんな鬼がいて、それがきっかけで「鬼って何なのかな?」って考えることがありました。
それは王権側から見たら叛逆者であり、また人間の心が生み出す嫉妬や怒り、欲望、死への恐怖etcが鬼となって現れているのかな思ったのと、不平不満や嘘、暴言を口にすれば、鬼のように顔が赤くなりツノが生え、その場は修羅・地獄と化します👹
かのブッダは、「人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割く」と言って言葉の慎重さを説いていますし、また「時を空しく過した人は地獄に落ちて悲しむ」とおっしゃっています。
以下が、ブッダが私たちを苦しみから脱するように鼓舞した言葉になります。

起(た)てよ、座れ。眠って汝らになんの益があろう。矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもは、どうして眠られようか。
起(た)てよ、座れ。平安を得るために、ひたすらに修行せよ。汝らが怠惰でありその〔死王の〕力に服したことを死王が知って、汝らを迷わしめることなかれ。
神々も人間も、ものを欲しがり、執着にとらわれている。この執着を超えよ。わずかの時をも空しく過すことなかれ。時を空しく過した人は地獄に落ちて悲しむからである。
怠りは塵垢である。怠りに従って塵垢がつもる。つとめはげむことによって、また明知によって、自分にささった矢を抜け。

『ブッダのことば』 第二 小なる章 10、精励

とても力強い言葉です。怠惰になって地獄に落ちないように、瞑想の修行を怠らずに努め励むこと、それが心を平安にするためにすごく大事なことだと分かります。

あと、もし心が波立ったり荒れているな、怠惰になっているなと思ったら、円空仏などの仏像や聖なるシンボルを目にすることも大事なことだと感じています👀
目を通して、心は落ち着き、清涼になると思います👹⇨😊🏝️

ゴーパーラ


ヨーガとインド神話

私は、マハーヨーギー・ミッションのバクティ・ヨーガのクラス「バクティ・サンガム」で、キールタンを歌ったり、インド神話や神々について学んだりする中で、自然とインドの神々に親しみを感じるようになりました。

また、機関紙『パラマハンサ』に長年連載されていた『バーガヴァタ・プラーナ』の記事を読み続けるうちに、「インド神話って本当に面白い!」と強く感じるようになっていきました。

私たち日本人には、古くから「八百万の神」という多神的な感覚が生活に根づいています。多くのユニークな神々が登場するインド神話に、どこか懐かしさや馴染みやすさを感じるのも、そうした文化的背景があるからかもしれません。

ヨーガは特定の宗教に属するものではありませんが、そのルーツはヒンドゥー教と同じく古代インドの叡智にあります。そのため、ヨーガの教えとヒンドゥー教の聖典や神話には、重なり合う部分が多く見られるようです。

こうした背景などを少し知ったうえでヨーガの実践者として神話にふれると、最初は知らない神様に戸惑ったり、荒唐無稽な作り話のように感じられた物語が、次第に知的な理解を超えて、心に深く響いてくるようになりました。

インドの女神信仰の聖典に『デーヴィー・マーハートミャ(女神の素晴らしさ)』というものがあります。

この書籍に『デーヴィー・マーハートミャ』が収録。

この聖典は、女神の誕生からアスラ族(悪魔)との壮絶な戦い、そして女神が完全勝利を収めるまでの大スペクタクルな物語と、女神への賛歌から成っています。
インドの女神は、最も優しく美しい存在でありながら、この宇宙のすべてを生み出しすべてを飲み込むエネルギーそのものであり、宇宙最強で最恐(?!)でもあります!

どれほど最強かというと、宇宙の創造主ヴィシュヌ、シヴァ、ブラフマー、インドラをはじめとする、あまたの神々から放たれた神の光のエネルギーが一つに集結して誕生したのが女神ドゥルガーなのです。その上、それぞれの神々から、特別な神の武器を贈られ、完全武装した女神となります。その想像を絶する強大な威力を持った女神がひとたび雄叫びをあげると、「全世界が震撼し、海は波立ち、大地は震え、山々が揺れ動いた」と語られるほどのスケールです!

しかし、そんな女神にさえ対抗する力を持っているアスラたちは、倒しても倒しても、しぶとく次々とわいてきます。ついには大憤怒したドゥルガー女神から、より強力なカーリー女神が生まれ、最後にはアスラの王が倒されるのです。

さて、この聖典についての解釈はさまざまあると思いますが、私自身が読み終えた時に、最も印象深く胸に迫ってくるのは、「人間の無知」の象徴とされるアスラの、なんとしつこいことか…ということです。
そして、それをあの手この手で何とか滅ぼそうと戦ってくれる女神や神々の、なんと偉大で慈悲深いことかという思いです。

ヨーガでは、私たち一人ひとりが神の顕れだと教えられています。そう考えると、この壮絶な戦いは、私たち自身の「無知」との心の闘いでもあると思います。

女神とアスラとのあまりにも凄まじい戦いを思うと、気が遠くなりそうですが、物語の最後に描かれているのは「勝利」です!
私にとって『デーヴィー・マハートミャ』は、女神のように猛々しく、そして勝利するまであきらめずに、自分の中の無知と闘い続ける勇気をもらえる、そんな神話であり、聖典です。

それほど長いものではありませんので、もしよければぜひ一度読んでみてください!

(参考文献/平凡社東洋文庫『ヒンドゥー教の聖典 二篇  ギータ・ゴーヴィンダ/デーヴィー・マハートミャ』)

シャルミニー


ダヌル・アーサナで苦手意識を克服する

ダヌル・アーサナ弓の形は、その名の通り弓を模した形です。
横から見ると矢をつがえ弓のように見えます。 

初めてクラスでダヌル・アーサナを行った時、あまりにきつくて息を吸うのも吐くのも大変、この状態で形を保持するなんてとんでもないと思いました。

毎日アーサナすることが習慣になっても自宅ではダヌル・アーサナは短い保持で戻しがちでしたがクラスでは他の参加者の方々の集中力に助けられて、少しずつではありますが、長めに保持することができるように。
ただ、自分としては限界まで足を引き上げたところからクラス担当者のサポートによりさらに足が引き上げられると、「無理無理無理無理!!」と心が悲鳴を上げることもしばしば。せっかく引き上げてもらったのに、段々下がっていく息を吐き切るようにとアドバイスをもらっても、形を保持することに必死で浅いままの呼吸
ダヌル・アーサナ対する苦手意識消えないまま月日が流れていきました。 

しかし、あるを境にその苦手意識がなくなっのです
それは自宅でアーサナしていた時のこと。
次はダヌルかぁ…と毎回気が重くなことにうんざりして、もうこんなのは終わりにしたいと思いました。 

ダヌル・アーサナはきつい苦しいというのは思い込みだから無視する!
他のアーサナで息を吐き切れることもあるのだから、ダヌルの時だってできるはず!
そう決めてから、ダヌル・アーサナへの取り組み方が変わりました。 

しばらく経ったある日。いつも通り形を作り限界まで足を引き上げできる限り息を長く吐き切るようにしていたら「あれ?意外と苦しくないかも?初めて感覚に驚きました。
いつもより高く上げることができてこれまでよりは少し楽にその位置を保つことができて足が上がったことで胸が広がり、深く吐き切れました。れだけでなく、自然に吸う息が入ってくるまでの間、一瞬時が止まったように感じました。深く吐き切るなんて苦しいと思っていたのに、むしろそちらの方が楽に感じることにも気付きました。

これを機にダヌル・アーサナをするのが少し楽しみになり、アーサナ全体を通してより丁寧に吐き切ることが習慣になりました。また、形を取ることで体がきついと感じても、その感覚に囚われずに実践できるようになったと思います。
そして、アーサナだけでなく日々の行為においても避けてしまいがちなことに対してもあれこれ考えずにとりあえずやってみよう、と思えるようになっていきました。 


二元性を超える

この世界は二元性の世界です。生理的に感じる暑い寒いというようなものから、心が思う好き嫌い、得手不得手、全ての事柄が対立的に二元性を持っていると思います。そして心はそれらの二元性の中で振り子のようにいつも動揺して、定まることを知りません。ヨーガを学んでいけば、世界の二元性という現象そのものは認めるのだけれども、結局それによって心が動揺してしまうことは防がなければならない、つまり二元性を克服しなければならないということが見つけられます。暑い寒いや、快適さや不快などもそうですが、やはり心が創り出す好き嫌い、好ましいもの好ましくないもの、そういう偏見を何より無くさなければいけないということになります。
アーサナが落ち着いてくると呼吸が落ち着いてきて、同時に心も落ち着いていきます。それは聖典や真理の言葉を理解する土壌ができていくということを意味します。
心が動いている間は動揺して止みませんが、心が静まってくれば、真理、真実という不動のものを感じる力が出てきます。アーサナは間接的かもしれないけれども、そういう心に与える影響をもって、二元性の克服を目的に挙げています。 

『マハーヨーギーの真理のことば』より 

 

私の苦手意識の克服に大きな影響を与えてくれたダヌル・アーサナ。
私と同じような方にとって、少しでも参考になれば幸いです。

国分寺クラスに来られている皆さんも、ダヌル・アーサナに真剣に取り組まれています!

ハルシャニー  

 

 


アーサナの秘儀 ――師が確認された古の道――Raja Yogaを終えて

5月に1年間続いた「アーサナの秘儀――師が確認された古の道――Raja Yoga」のクラスが終わりました。この1年間、一つ一つのアーサナのポーズの作り方のポイントや効果など、教わったことを家やクラスで実践しては質問する。また、他の方の質問に対するアドバイスを聞いて、自分も実践してみるということを繰り返し、正にアーサナと共に駆け抜けた1年間でした。


毎日アーサナをしていたので、できている!と思っていたことが実は全然できていなかったということがありました。ハラ・アーサナ(鋤の形)は手で背中を支えて、と教えられますが、私は手に全く力が入っていなくて、ただ背中に添えていただけでした。意識して背中をしっかり手で支えると、もっと遠くまで足を伸ばしていけることに気付いた時には、今までなぜ気付かなかったのか、と本当に驚きました。
また、サルヴァンガ・アーサナ(肩立ちの形)で、パドマを組んで頭の方に倒そうとした時に、講師の方が背中を一押ししてくださいました。その一押しは自分では今まで行くはずがないと思っていた限界を超えたところまで、ぐいっと背中が倒れていきました。「あっ、いった!」と思った瞬間に体の中が熱くなり、心がすっきりして何か付いていたものが取れたような感覚、壁みたいなものが剥がれ落ちて自然にいろいろなものが流れ始めた感覚がありました。自分でも気付かないうちに作っていた限界や苦しみから解き放たれたようでした。

気付きや学びをいただき、改めて一つ一つのアーサナに集中して、丁寧に意識して作っていくことで、アーサナ全体への集中感が増しました。その集中は瞑想へと繋がり、日常でも心が安定していました。そしてアーサナの大切さや信頼が深まり、自分を信じる強さが生まれたように思います。
このような変化は、クラスのみんなが感じられたことだと思います。

後半に設けられたサットサンガ(霊的問答)では、回数を重ねるごとに「できないと思っていたことができるようになりました!」という感想が増えて、その度にみんなで喜び合いました。ヨギさんから教わったアーサナを正しく理解したいという同じ思いで、真剣に学び、質問し、その質問に対し講師のシャンティーマイーさんが真摯にアドバイスをくださったことで、学びが深まっていきました。そして最終回では、みんながこれからの実践への期待と喜びに満ち溢れた顔になっていました。今、クラスを終えて、本当に貴重な機会だったと思います。これからの実践に生かし、精進していきます!

桜井みき桜井みき


リーラー・ヨーガ・スタジオ 開設から1ヶ月の様子

6月19日で新スタジオをスタートして1ヶ月が経ちました。この1ヶ月の様子をご紹介します。まずスタジオの名前ですが、「リーラー・ヨーガ・スタジオ」に決まりました。「人の本性は喜びに満ち溢れている」というヨギさんの教えを多くの人と分かち合いたいという気持ちが込められています。

5月上旬にスタジオ近辺に1800枚のチラシをポスティングしていたので、初日から「ポストにチラシが入っていました〜」というご近所の方の参加がありました。その後もチラシを見たという方、クラスに通っている方の紹介、WEBを見てなど、新しく体験に来られる方が増えています。スタジオがあることでクラス数が増え、参加される方も選択肢があって通いやすくなったと思います。「来週は予定があるから別の曜日に来ます」と言われたり、「しばらくは60分のクラスを受けるけれど、慣れてきたら90分のクラスを受けます」と言われたり、それぞれのペースで続けてくださっていて、スタジオができて本当によかった〜と思っています。
スタジオの前の通りは車の通りが少なくとても静かです。特に扉を閉めてしまうと異空間のような静けさが訪れます。クラスは日常の喧騒から離れて自分自身に向き合える貴重な時間です。集中しやすく、とても気持ちの良い空間だと言ってくださる方が多いです。

クラスに来られた方からは嬉しい言葉もいただいています。「よく眠れるようになりました」や「久しぶりにこんなに深く呼吸をしました」、「体の痛みがマシになりました」など、クラスを1回〜4回ほど受けただけで、効果を感じておられるようです。「家でもやります!」という積極的な言葉もいただきました。また通い始めた方がご親戚やお友達を連れて参加してくださって、喜びの輪が広がっています。
クラスに来られた時は少し緊張されている方も、終わるころにはとてもリラックスされ、目がキラキラとして、まるで別人のよう!?毎回そんな様子を見せていただいて、私はとても幸せだな〜と思うと同時に、ヨーガの素晴らしさを再確認し、もっと多くの人に知ってもらいたいと思うのです。ヨーガは単なる健康法ではないけれど、痛みや悩みが少しでも減るというのは本人にとっては大切なことです。毎日を快活に過ごすことができるというのは、その人の人生にとってとても大きなことだと思います。ヨーガは地道に、長いスパンで続けることが大切で、ライフワークだと教えてもらっています。参加してくださった方がまた来たい、続けたいと思ってくださるように丁寧にクラスをやっていきたいと思っています。

6月からは15分無料体験会とエコマルシェと称して、グルバイの不要になったものを軒先に並べて安く販売、丹波から新鮮なお野菜を持ってきていただいて販売しました。さらに800枚ほどチラシをポスティングし、みんなで協力して、近所の方の目に止まるように工夫をしています。雨や猛暑もあり時期的に難しかったですが、無料体験会に来られた方がクラスにも参加されました。


また6月から
金曜日の夜のヨーガ・瞑想クラス(19:00~20:30)
土曜日の朝の瞑想クラス(10:00~11:30)
バクティサンガム(キールタン)も6/29(14:00~15:30)から始まります。
7月には日曜日の朝のヨーガ・瞑想クラス(第2、第4 10:15~11:45)も始まり、クラスが増えます。アーサナだけでなく、瞑想やキールタン、ヨーガの料理、どのクラスも同じ場所で受けることができ、多角的にヨーガを学ぶことができるのはマハーヨーギー・ミッションの特徴だと思います。

スタジオの魅力は、どのクラスに行っても同じことが学べることだと思います。担当者それぞれに個性はありますが、ベースはヨギさんから学んできたヨーガです。どのクラスに行ってもそのヨーガの真髄が学べます。参加される方が、ヨーガの面白さ、奥深さに触れ、私自身が感じてきたワクワクするような気持ちや希望を持ってくださったらいいなと思っています。誰もの人生にとって必要なことがヨーガの中にあります。それは難しいことではなく、最もシンプルなこと、でも他では誰も教えてくれないことだと思います。クラスの中で一緒に学び、ともに成長していきたい、スタジオ自体がみんなと一緒に成長していけたらと願っています。

クーラーや電気、冷蔵庫、コンロなどが揃いスタジオの中は少しずつ整ってきています。まだまだ完成ではないけれど、スタジオを使いながらみんなで使いやすい形に変化していけたらいいなと思っています。ぜひ遊びにきてくださいね〜!


ロープを外して本当の自分を実現する

3年ほど前、義父が難病と診断されました。 
主治医から、治療方法はなく急に悪化して亡くなる可能性が高いと言われました。 
義父は現役の頃は困難を抱える人たちが安心して暮らせる環境を整えるために働き、引退後は地域の人たちのために様々な活動をしていましたが、それらを他の人に引き継ぎ、闘病生活が始まりました。 

 私は師の教えを支えとして、自分にできることを精一杯やろうと努めました。 

実に善き人の、たとえ悪しき人であっても、死に接するのは寂しいものです。 
私たちの本性が永遠不死であるから、それを知っているからかもしれません。 
病に苦しむ人、死に逝く人に奉仕することは最善です。 
身近なあなた方の家族の場合においてもそのように尽くしなさい。 
食べ物を口に運び、排泄をさせ、体を洗い、床擦れを防ぐため、時折体の向きを変えてあげねばなりません。 

義父が外出が困難になってからは、義父の好物を差し入れ、季節の変化を感じられるように話をしました。毎回義父は嬉しそうで、義父が喜んでくれそうなことを考えるのが夫と私の習慣になりました。 
急変を繰り返す度に義父の体力は低下、苦しそうな時間が増えていきました。定期的に鍼灸治療をしていたこともあり、義父の体が限界に近づいていることを痛感しました。それでも義父の気力は衰えず、一切弱音を吐くことなく力強く生き切り、旅立ちました。
義父の死が現実となり、苦しみから解放されて良かったという思い、よく頑張ってくれたことに対する感謝の思い、もっとできることがあったかもしれないという後悔の念、様々な感情が入り乱れました。 

義父が生まれ育った多摩川流域の景色

そんな中で迎えた義父の葬儀当日。
初七日の法要も併せて行われました。 僧侶の方が読経の前に、お経の意味を説明してくださいました。 

初七日とは、故人が三途の川に辿り着く日。無事に三途の川を渡れるようにと祈るお経を唱えるが、お経の最後に大きな声を出すことに意味がある。
故人が家族など大切な人たちを残したまま逝くことに未練がある場合、それはこの世に対する執着となり、三途の川への旅立ちを妨げることになる。大きな声で喝を入れるように読経することで、故人をこの世へと繋ぎ止めるロープを断ち切り、彼岸、悟りの境地へ向かいやすくする。そして同時に、残された家族も故人への想いに区切りを付けやすくする。 

僧侶の方の話に出てきたロープという言葉は、ヨーガを学ぶ中でも何度も見聞きします。 

ヨーガの目的は、誰もの中にある本当の自分を実現すること。それは仏教でいう悟りの境地へと至ることと同じです。
本当の自分とは、生まれたことも死ぬこともない永遠の存在で、誰もの中にあります。
悟りの境地とは、本当の自分に目覚め、そこに留まることです。 
私たちはこの世という此岸から、悟りの境地である彼岸へと、ボートを漕いで進んでいるような状態にあります。漕ぎ進んでいくためには、まずボートを此岸に繋いでいる「ロープ」を外す必要があります。 

「ロープ」とは無知、煩悩、執着の象徴。 
大切な人とずっと一緒にいたい、この幸せな状態が永遠に続いてほしい、と願うことは、執着にあたります。世界は常に移ろい変化するもの。どんなに大切な人であってもいつかは別れの時が訪れ、どんなに楽しい時間も無限に続くことはない。身体を持って生まれてきた以上、肉体は必ず終わりの時を迎えます。 
肉体があってもなくても「本当の自分」は永遠に変わらず存在し続ける。それこそが真実で、それ以外のものを手放していくことが、「ロープ」を外すということになります。 

義父との別れが辛く悲しいのは、限りある肉体が義父だと思っているから。それは真実ではありません。
生まれることも死ぬこともない本当の自分に向かいボートを漕ぎ進んだ暁には、永遠に自由で純粋そのものの存在として、共に在り続ける。

「善き人であっても悪い人であっても、その死に接すると寂しいと感じるのは、私たちの本性が永遠不死ということを知っているからかもしれない」

今私は、この教えに確かな希望を感じています。 
それは、死に接して寂しいとか悲しいとか感じること自体が、私たち自身の中にある本当の自分が永遠の存在であると知っていることの証明だと思うからです。

いつかこの身体を私と思っている意識がなくなり、永遠の存在と一つになったのなら、外すべきロープもなくなる。それを目指し、ボートを漕ぎ進めたいと思います。

国分寺クラス会場の近くでは毎年蓮の花が咲きます。今年ももうすぐ咲きそうです。

ハルシャニー