ヨーガの実践」カテゴリーアーカイブ

バクティ・サンガム キールタン

天王寺にあるプレーマヨーガサークルで12月5日(火)にバクティ・サンガムが開催されます。http://www.mahayogi.org/classes/bhakti_sangam(詳しい場所と時間はこちらから)
熱心にヨーガを学ぶ尾崎さんが、バクティ・サンガムとキールタンの魅力について書かれた文章をご紹介いたします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

先週のクラスは「バクティ・サンガム」でした。年に4回しかない貴重なキールタンのクラスですので毎回とても楽しみにしているのですが、今回はいつもと違いました。というのも、私はここ最近ヨーガに真剣に取り組むことができなかったのです。

きっかけは些細なことで動揺し、ズルズルと心に振り回されている自分に気づいたことでした。思い通りにならないことに直面して苦しいばかりか、ヨーガを学んでいるが故に心を制御できないことに対して不甲斐なさも感じ、また苦しくなる。同じ苦しさを感じるのならヨーガを知らない方がマシだったのではないか?何のために苦しんでまでヨーガを学びたいと思うのか?また、家族と暮らす身でヨーガを学ぶことに窮屈さを感じていました。どちらも大切で優先させたいけれど、どうすればできるかわからない。自分にはできない。 かと言って、今さらヨーガの教えなしに生きていくなんて到底無理だとわかっている。それなら今まで学んだ少しのヨーガの教えと時々アーサナをやっていれば、それでいいんじゃないか?そんな事ばかり考えていました。 もう、心はドロドロとしたエゴでいっぱいでした。

そんな最悪の状態でしたが京都のヨーガの師のところへ行く機会があり、そのままの気持ちを聞いていただきました。師はいつもの穏やかな笑顔で「とにかく少しでいいから毎日アーサナと瞑想をすること。続ければ必ず変わるから」と仰られ、やはり続ける他に道はないのだと気持ちを新たにしましたが、どこか靄のかかったスッキリとしない気持ちのまま「バクティ・サンガム」を迎えました。

今回は「Nanda La La」というゴーパーラ(クリシュナの幼少期の名)を歌ったキールタンを教えていただきましたが、メロディが頭に入ってきません。神に向けて歌うなんてほど遠く、必死に歌詞カードを追っているうちに1回目のキールタンが終わってしまいました。続いて、ミラバイさんがゴパーラ・マーのお話をしてくださいました。それを聞いて私のハートは大きく揺さぶられました。

ゴーパーラ・マーは幼くして未亡人となり、貧しい生活をおくっていましたが、とても信仰心が篤く、朝は3時に起床し、夜遅くまでジャパ(神の御名を詠唱するマントラのようなもの)を唱えるなど、苦行を行っていました。また、ラーマクリシュナを純粋に愛し彼のもとへ足しげく通っていました。ある朝、いつものようにジャパを唱えていると左側にラーマクリシュナが座っておられるのに気づきます。そっとその腕に触れた途端、その姿は生後10か月ほどのゴーパーラのビジョンに変わりました。ゴーパーラはゴーパーラ・マーを「お母さん」と呼び、イタズラをしたり甘えたりしてきます。彼女はゴーパーラの世話に没頭し、ジャパや苦行をするどころではなくなってしまいました。

夜が明けるとゴーパーラのビジョンを抱いてラーマクリシュナのもとへ向かいました。ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナに昨日あったことを涙ながらに高揚しながら話します。その間ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったりするのを見て、ラーマクリシュナとゴーパーラは同じなのだと気づきます。その数日後、ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナから「もうジャパはしなくていい。おまえは一切を成就したのだ」と言われました。「だが、私の体が健康であるように修行をしてくれるか?」とも言われ、ゴーパーラ・マーは「これからは全てあなただけに捧げます」と誓い、一層修行に励みました。ゴーパーラのビジョンは2か月間ほど続き、その後も瞑想すればゴーパーラが彼女の前に現れたそうです。


ゴーパーラはバターが大好物。
こっそり食べていたのがお母さんに見つかってしまいました。

私はこのお話を聞いていたとき、ゴーパーラのビジョンがミラバイさんの周りをぴょんぴょん飛び跳ねて遊んでいる姿が見えた気がしました。そうしたら、ゴーパーラが自分の家族の姿と重なり涙が溢れてきました。そして、ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったり…という所で、私は大切な事を忘れているのに気づきました。

「人は皆、神なる存在である」ということです。もちろん家族も一人一人が神なる存在であり、家族に奉仕することは神に奉仕すること。私がヨーガか、家族か、と悩んでいたことは全くの愚問だったのです。私は、家族という無償の奉仕を捧げることができる環境を与えて頂いていたのに、それに気づかないどころか、ヨーガと真剣に向き合えない言い訳にしていました。2回、3回と「Nanda La La」を歌うたびに今まで否定的に考えていたことが、全て正反対であったこと、師からたくさん恩寵を受けていることに気づき涙が止まらなくまりました。

いつもはキールタンを歌うと、なんだかわからないけど喜びが溢れ涙が出てくるのですが、今回は歌いながら様々なことに気づき、終るころには、それまで感じていた靄はなくなりスッキリした気持ちになりました。本当に一生懸命、神に集中してキールタンを歌えば、それは識別瞑想をも上回ることがある。と、ミラバイさんが経験談を話してくださいましたが、ほんの少しそれを味わえたのかもしれません。

やっぱりキールタンって、いい ヨーガって、面白い


松山にシヴァ神到来!?

先週の9月16日(土)、9月17日(日)にサーナンダさんが瞑想特別クラスとサットサンガのため、松山ヨーガ・サークルに来てくださいました!ちょうどその週末に大型台風到来という情報がありましたが、有難いことに予定通り無事に開催することができました。

初日の瞑想特別クラスでは「布施について考える」というテーマでお金への執着がなくなったらどうなるか、ヨーギーを見倣う生き方を学びました。私自身が最も印象に残ったサーナンダさんの言葉は「ヨーガの極意は執らわれないことです」という力強い一言です。サーナンダさんは具体的に私たちが何に執らわれているか、どうすればいいのか?を丁寧に説いてくださいました。ヨーギーの生き方の何と清々しいことか!憧れずにいられなくなるような内容でした。

講座後の感想をご紹介します。
「お金に対しての教えでしたが、教えていただき自分のカルマ(因果応報の法則)を取り除けてないこと、欲望の生活を送っているのがたくさん見えました。聖者の生き方からお金に対する無執着を教えていただき、お布施の本来の意味を知り熱い思いが常に自分を奮い立たせることだとわかり魂を感じる会でした。実践していきます」
「生活、生き方を志の実現のために整え、行為していくということを教わり、布施ということに限らず、一瞬一瞬の言葉や思い、選択をどれだけこの意識に向けられているだろうと反省します。もっと情熱をもって真剣にもっと精一杯整え、行動していきたいです」
そして、長年ヨーガを実践している方は「最近、お金をあまり使わなくなったのでなるほどと思いました」という感想もありました。


台風にも関わらず30名以上の方が参加されました。

2日目のサットサンガの中で印象に残った話をご紹介します。

上司との関係に悩むMさんは、上司に認められたいという思いを棄てるにはどうすればいいのか質問しました。
サーナンダさん「輪廻転生と言いますが、昨日が前世、今日が今生、明日が来世と、毎日に例えられます。すると、今日考えたり悩んだりしていることは、だいたい昨日も同じことを考えたり悩んだりしていたと思いますし、たぶん明日も同じことで悩んでいるでしょう。それと同じように、今生で直面している問題や悩みですが、多分前世でも同じ問題で悩んでいたでしょうし、このまま行けば必ず来世でも同じことを繰り返すに違いない、と私は思うのです。そうすると、それは嫌だから今生で何とかしないといけない、それならば今を真剣によりよくしていくしかないと思うのです。

Mさんの場合も、このまま行けばまた来世でも同じようなことを繰り返してしまうでしょう。それは嫌でしょう!それが嫌なら、真剣にヨーガをやっていくしかないです。ヨーガをやっていくことで心が変容します。心が変容すれば必ずそれに接する人の反応が変わります。それによって状況も変わっていきます。具体的に言えば、余計なことを考えず、淡々と仕事に励むこと。そして、ヤマ(禁戒)、二ヤマ(勧戒)で行為を整え、アーサナによって呼吸を調え、聖典の学習や瞑想によって心を調えていけばいいです。そうすれば思いも状況も必ず変わっていきます!

生きていればいろんなことが起こります。子供の頃、嫌なことに出会った時、なぜ出会ったのか原因を一所懸命考えたことがありました。すると、一つの答えが出てきました。それは、生まれてきたからだと思ったのです!様々な原因があるかもしれないけれど、その時そこに自分がいたことにも確実に責任があるのですから!生まれてこなかったらそこにはいなかったし、嫌なことも起こらなかった。しかし、生まれてきた以上、どこでどんな目に遭ったとしても仕方がない、自分にも責任があると思うようになりました。ではなぜ生まれてきたのか?自分とは一体なんなのかが肝心なのです。小手先で逃れようとするのではなく、覚悟を決めて今の状況を受け入れて、そうしてやって行けば、いつか転機がやってくるかもしれません。

実際的には、職場の改善を働きかけたり、自分自身についても改善していけばいいと思います。自分にも改善すべきたくさんのことがあるかもしれない。言葉遣いとか行動とか。そうやって実際的に改善していけばよりよくなっていくと思います」

サーナンダさんの気迫のこもった言葉がその場にいた皆さんに、「人や状況のせいにせず、より良く改善していきたい」という情熱が注がれたかのようでした!
その証拠に今回の講座とサットサンガの後日、クラスに来られる方の話す言葉が別人のように変わっていっているのです。
「すごく落ち込んでいたけど、もう後戻りしたくない!身体のことをくよくよ思い悩むよりも、もっと純粋にヨーガだけに邁進していきたい!」
「人に依存していたことに気が付いたので依存をなくしていきたい」

台風が去った翌日、空気がとっても澄んでいて本当に清々しかったです。先日からこのブログでもシヴァ神のお話しが出ていますが、シヴァ神のルーツは暴風雨の神様。そしてシヴァ神は破壊と再生の神様です。サーナンダさんと一緒にシヴァ神が来てくださって私たちのこだわりを破壊し自由にしてくださったのかというくらいクラスに来られる皆さんの表情が変容したのです。しかし、まだまだこれからです。完全な自由に至るまで力強く前進し今までの癖や傾向を破壊し真理とひとつになって新しい命を生きることができますように。

サーナンダさん、シヴァ神とともに来てくださって本当にありがとうございました!
サーナンダさんのハートはヨギさんでいっぱいです。
最愛の師、ヨギさんに心からの感謝を込めて。

アーナンディー


The Truth Shall Make You Free 〜神聖なるものとの出会い〜

みなさん、こんにちは。
台風来てますね〜。ヨーガダンダさんが紹介してくれていたシヴァ神が大暴れ!です。

さてさて、上の写真は私が通っていた大阪女学院の正門です。(短大側)
私は中学高校と仏教の学校に通って「朝に礼拝、夕に感謝。慈悲やさしくきよらかに、和合なかよくたすけあって、精進つとめにはげみましょう」と6年間毎日朝礼で唱え、お花祭りでは玄関に飾られたお釈迦さまに甘茶をかけ、学年全生徒で正信偈なんかのお経を唱え、せっせと仏教的学校行事に参加してました。お釈迦さまの教えに触れた、学んだという記憶は一切ないんですけどね笑。高校卒業後は一転キリスト教の学校へ。ある意味改宗ですね笑。

短大時代は聖書がすごく好きになって、夢中になって読んでいました。今でも自分の聖書には当時の付箋がいっぱい貼られてます。学校内にあるヘールチャペルには特に礼拝の対象となるシンボルは飾られていなかったのですが、要らない装飾が一切ない質素さの中になんだか静かで神聖な雰囲気があって、礼拝にもよく通っていました。
といっても、その時にイエスさまへの信仰にぱーっと目覚めた!というわけではなかったのですが、この門に書かれた言葉に、なぜだか当時強烈に心が惹かれたんです。その言葉の意味は・・・

The Truth Shall Make You Free
真実はあなたたちを自由にする

その時自分の直観で分かったことは、この言葉自体が真実である、ということです。そして、私たちを自由にさせるという「The Truthー真実ー」というものが、ものすごくキラキラ輝いて見えて、猛烈に憧れたんです。振り返ってみると、理由なく惹かれたこの言葉との出会いが、自分の人生の中で神聖なものとの最初の出会いだったんだな〜、そしてそれがそれからの人生で大きな自分の鍵になっていたんだな〜と気がつきました。神さまはいろんな場面でヒントを与えてくださいます。その後もう10年以上この言葉のことも忘れてたんですけどね。大切なのはそれに気がついて、私たちが神さまを愛し、神さまを求めるようになるかどうか!なのかな?

私が好きな聖書の中の言葉は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」そして「神は愛である」ということです。ヨーガを学んでいくにつれて、ヨーガの教えとイエスさまが教えられていることは、本質的に一致していくことがわかってきました。

誰もの本質は真実であるところの、アートマンである。そのアートマンだけを見るようにと、何回も何回も我が師に教えていただいてきました。はじめは、そう言われてもアートマン以外のことしかないやん!!ってしつこく葛藤格闘してきましたけれども、それをそうなんや、そうなんやでって言い聞かせ続けて続けて続けて・・・(「失敗や小さい後退を気にするな。千回でも理想にしがみつくのだ。千回失敗したらさらにもう一度チャレンジせよ」というヴィヴェーカーナンダの言葉を励みにしながら。ヴィヴェーカーナンダが千回失敗したらって言われるなら、私は一千億回失敗したけど、もう一回って諦めず!)そしたら自分の心は降参したんです。矛盾だらけで完全でない自分の心は、やっぱり真実には最終的には勝てないんですね。

何かに捉われて自分を縛り付けていたものは結局は自分の心やったんやなぁって、本当に楽になりました。「真実はあなたたちを自由にする」という言葉へのあの時のなぜだかわからない憧れは、ここに繋がってたのかな〜。今はその真実なる教えによって、自分の心が “自由” の片鱗を大いに味わっているからです。

一つ前の記事で、ダルミニーさんがシュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサについて書いてくれていましたね。インドのカルカッタ郊外にあるラーマクリシュナ・ミッションの僧院ベルル・マト敷地内には、Ramakrishna Museumがあって、シュリー・ラーマクリシュナや彼の直弟子たちに縁あるものなどが展示されています。
私はそこで見た一枚の絵にものすごく衝撃を受けたんです。それは、主イエスが瞑想に座っている絵でした。それまでイエスさまが瞑想をされていたとか考えてもみなかったので、にわかには信じがたく非常に衝撃的だったのですが、その姿は父である “神” の至福に浸りきっているようで、「あなたたちは私を通して父の下に行く」という教えを絵で表すとこういう風になるんだろうなぁと素直に思えてきて、「私と父は一つである」という教えが自然と心にわき起こってくるようでした。
ああ、イエスさまが教えられていることはこうした瞑想の中で悟られたことなのかもしれないとなんだかすごくしっくりきて、イエスさまの教えとヨーガというものが一直線に繋がったように感じました。ちなみに、その絵ではないですが、私が好きなイエスさまの絵はこれです

そんなこんなで(突然ですが!?)私が担当させていただいている大阪の瞑想専科では、ブッダが教えられた瞑想の道に沿って学びを進めています。詳しくはこちらをご覧くださいネ。
9月24日(日)14時〜、瞑想一日体験会を開催しますので、この機会にぜひ瞑想を体験してみてください。ただ今ご予約受付中です!

また、大阪とは別に、京都では瞑想1日ワークショップが同じ24日にありますので、京都の方はぜひこちらにご参加くださいませ〜!

マーダヴィー


ラーマクリシュナの福音

みなさん、こんにちは
早いものでもう9月ですね。先日、クラスの交流会がありましたが、同じ志をもつ仲間たちが集まり、いろいろな話をすることがお互いの励みとなり、活力となって、ヨーガを楽しく学んでいく機会になりました。今はアーサナや瞑想の実践がしやすい季節でもありますので、さらに深めていきたいものですね。

さて今日は「ラーマクリシュナの福音」より、その教えをご紹介します。

ある日の日曜日、今日も大勢の信者たちがシュリー・ラーマクリシュナの自室に集まっています。彼らの中に一人の新米者、コンナバムから来たサーダカ(修行者)がいた。彼は五十歳を越しているようにみえ、学識について非常なうぬぼれを抱いているように見えた。修行者は顎を天井に向け、身体を直立させて坐っていた。
修行者「師よ、何が道ですか」
ラーマクリシュナ「グルの言葉への信頼だ。人は一歩一歩、グルの指示に従って進むことによって神に達するのだ。糸をたぐっていって目標に達するようなものだ」
修行者「神を見ることはできるのですか」
ラーマクリシュナ「彼は、俗事に没頭している心では知ることはできない。兎の毛ほどでも、『女と金』への執着があったら神に達することはできない。だが、彼は浄らかな心と浄らかな知性、執着の影すらない心と知性によって知ることはできる。純粋な心と純粋な知性と、純粋なアートマンとは全く同一のものだ」
修行者「ですが、聖典に、『言葉と心は、彼の前からむなしく戻る』と書いてあります。彼は言葉と心によっては知り得ないのです」
ラーマクリシュナ「おお、おだまり!人は霊性の修行を実践しないかぎり、聖典の意味を理解することはできないのだ。口先で『大麻』と言ったとて何になろう。パンディットたちはぺらぺらと聖典を引用する。だが、それはなんになるか。大麻を肌にこすりつけても酔いはしない、それを飲まなければだめなのだ。『牛乳にはバターが含まれている』と繰り返すだけで何の役に立つか。牛乳をこごらせ、かき混ぜるのだ。そこで初めてバターが得られる」

シュリー・ラーマクリシュナは聖典を頭の理解だけで終わらせず、実践を通してからその意味を理解するようにと諭されています。私たちの師もまた「ヨーガは実践」と実践の大切さを繰り返し教えてくださっています。師の教え、ヨーガの教えを身をもって体得しなければ、それは知っていることにはならない、実践して初めて日常の行為の中に、ヨーガの深まりの証として現れてくるのだと教えてくださっています。私たちは師の教えを生涯かけて実践し、各々がいかに真実だけのために生きていけるのかを問われているのだと思いました。師の教えに誠実に生きること、それがヨーガの成就につながっていくのだと思いました。

ダルミニー


京都 ヨーガ・瞑想クラス 交流会

京都ヨーガ・瞑想クラスの合同交流会がありました!

プログラムの初めにはアーサナのデモンストレーションがありました。今回はどのクラスでも人気もののゴパーラと土曜日のクラスに通い、最近とても熱心にヨーガと向き合っているMさんがアーサナをしてくれました。気迫に満ちたとても素晴らしいアーサナで、私自身は息を飲むような集中感にとても感動しました。

参加した皆さんも、食い入るようにデモンストレーションを見ておられました。「2人のアーサナを見て、集中間というものはこういうものかと感じた」「自分たちが普段しているアーサナの完成形が分かった」「いいものを見せてもらった」といった感想をいただきました。

その後、さまらさの食事を食べながら、自己紹介を兼ねて、皆さんがヨーガを始めたきっかけや、ヨーガをしてから変わったことなどを話していただきました。

クラスに通うようになって2年になる方が数人おられましたが、皆それぞれに2年前と比べて明らかな変化を感じておられるようでした。

ある方は数年ぶりに会った友人に「人相が良くなった!」と言われたようです。確かに最近の彼女は表情が明るく(昔が暗かったわけではないですが)とても軽やかな印象があります。

毎日アーサナをしていると言われた方は体にしっかりとした軸ができたと言われていました。確かに、最近の彼女からは芯の通った強さを感じます。

またある方は、仕事場でうまくいかなかった同僚と真理を学び瞑想していく中で怒りや不満の感情なく普通に話ができるようになったと言われていました。きっと瞑想によって心が変化し、動揺しなくなっていったからでしょう。

皆さんが日常生活の中で変化を感じながらクラスに通ってくださっていることを知り、とても嬉しかったです。

一方でアーサナの実践にムラがあり、甘いものがやめられない…と話されている方もおられました。それはそこにいる誰もが多かれ少なかれ経験があること、それぞれの体験を話しながら、みんなで自然とアドバイスしあいました。

みなさんの話を聞いていて感じたことは、調子が良い時も、悪い時もあり、状況は色々変わるし、誰もがトントン拍子でうまくいっているわけではないということ。人と比べる必要はなく、それぞれに道があり、コツコツと実践していくことで必ず進歩しているのだということです。
同じヨーガをしている仲間とこのようように話し、励まし、刺激しあえる機会はとても貴重だと思いました。

最後に話をしてくれたSさんは、熱心にクラスに通う中、自分の内に歓びがあることを体感し、自分自身も人に歓びを与えられる存在になりたいと話してくれました。彼女の話している言葉や姿、発しているプラーナ(気)から歓びが溢れ出ているのを感じ、こちらまで歓びが伝わってきました。そんな彼女も、ヨーガをする前は仕事のストレスで体調が調わないことがあったようですが、今ではそのようなことはなくなったと話されました。

改めて、ヨーガって本当にすごい!!一人の人の人生を大きく変化させる、なんとすごい力でしょう!!!!是非またこのような機会が持てたらと思います。


夏の松山瞑想特別クラス

また7月も行ってきました夏の松山に!サーナンダです。
瞑想特別クラスでは累計14回目の訪問になり、随分と松山にも行き慣れてきました。松山のたくさんのヨーガを学ばれている皆さんともすごく顔なじみになってきて、顔を見かけると嬉しくなります。
さて、そんな瞑想特別クラスの感想が松山のアミティさんから届いたので、掲載させていただきます。相変わらずヨーガに熱い松山の皆さまでした!


今年2月から7回シリーズで始まった松山瞑想特別クラスとサットサンガ。その4回目が7月15日(土)16日(日)に開催されました。講師のサーナンダさんは、松山ではすっかり顔なじみになり、いつも多くの人が心待ちにしています。サーナンダさんが定期的に来てくださることで、その度毎にインスパイヤされ、ますます皆さんのヨーガの熱が高まってきています!

今回のテーマは「食と言葉を調える」でした。「食」も「言葉」も私たちの日常生活と切り離す事ができないとても身近なテーマです。具体的な実践のヒントをたくさん頂いて、さっそく日常の中で実践していきたいという声が多く聞かれました。

この2日間で私が感じたことは、真実を悟った人は、どのように行為をするのだろうかということでした。その行為を学び、日常で実践していくことによって心が調えられ、真実を悟ることへとつながっていくということです。

食事について言えば、「すべての存在は等しく尊い存在である」ことが本当にわかったならば、自分の体を維持するための食事は、食物の尊い命を頂くわけだから、旬のみずみずしい良質のものを必要最低限の量で十分だということになり、食材やそれを育てた人や自然に対する感謝の気持は自ずと起こり、他者を思いやり集中して調理するということも自然な行為として行われることになるでしょう。

言葉についても、心の波がなくなったときに真実の自己が輝き出ると教えられるように、真実を悟ったならば、心の思いがないのだから、愚痴や不平不満などあるはずがないし、すべてが等しく尊い存在であるとわかったなら、相手を傷つける言葉を発することなどあり得ない。常に心は沈黙しているだろうから、自分が話したいから話すということもなくなるでしょう。言葉はただ他者のためにあり、相手の話をよく聞き、相手の必要としていることを話し、時には、相手の心を解きほぐすために会話を楽しむこともあるでしょう。

2日目のサットサンガでは、「傲慢な自分を直したい。謙虚さについて教えてください」という質問があり、サーナンダさんは次のように答えられました。
「ヨーガをやって行くと、自分がどれだけ偉いのかということを考えた時に、自分が人より優れていることとか、傲慢になったり、威張ったりする理由が見つからなくなる。この自分の命、生きているっていうことそのものが、自分の力で支えているわけではないから、謙虚にならざるをえない。
才能や、社会的な地位や人より知識があるとかないとか、それで優劣をつけるとかは、本当に些細な事。原点に立ち返って、ここにこうして尊い一個の命をもって存在している、生きていることの神聖な意味を感じることができたなら、自然に傲慢さがなりをひそめて謙虚な思いになって来ると思う。
訓練としてやる時は、徹底してへりくだるということを実践して行くべき。態度、言葉遣い、姿勢、徹底してへりくだる。行動も常に相手を尊重、敬うような行為を無条件にやって行く。」

真実を悟り、真実に生きているヨーギーの生活のあり方はどのようであるのか?それを学び、理想、目標とすること。そして、日常の食事を気をつけたり、言葉に気をつけたり、徹底してへりくだる実践も、何のためにやるのかと言えば、その理想に向かっていくため。
サーナンダさんは、真実、真理は自分の一番身近にあるもの。目の前にある日常にこそそれがある。だから日常が大事、と言われていました。
理想を見失わないようにしっかりと見据えて、目の前の日常を調えていくこと。
ヨーギーは、いつも軽快で大らか。私たちは、その理想の姿になろうとしているのだから、細かいことにこだわりすぎることなく、大らかに軽快に実践して行けたらいいなと思います。

アミティ


人を見るとき

 

京都は祇園祭の最中ですが梅雨が終わったかのように毎日猛暑日が続いていますね。
熱中症にご注意を!!さて、クラスの報告が続きましたが、久しぶりに日常(仕事)の中で良い気づきを与えてもらった真理の教えをご紹介します。

(私は介護の仕事をしています)
先日のこと、支援に入っている方(精神障害のある方)は調子が悪かったのですが、ご自身では自覚がなく、出かけたい!と言われるので、お供しました。途中、道端で何度もバッタンバッタンと倒れられました。時々あるので、ゆっくり休みながら行きと帰りをお供しました。家に帰ってからは、精神状態がさらに悪くなったようで、幻覚が見えたり、幻聴によって外に飛び出しそうになったりと、いろいろありました。本人も自分自身の行動が手に負えないようで、時々正気に戻ったように「アーーーしんどい・・・」と言われます。でもまた幻覚や幻聴の方に引き寄せられていく・・・・私もどうしたものかと悩みましたが、とにかく彼女の安全だけは確保しようと努めました。

家に帰って見つけた真理の教えを読み、改めて感じることがありました。

「いろんな人にはいろんな事情や状況があると思いますけれど、そういうことを無視して、ただその人の存在と命だけを見つめるようにすればよろしい」(シュリーマハーヨーギー)

病気と、存在と命とは全く別物だということ。私はそれだけを見つめて仕事に励めばいい。
この世の中には本当にいろんな人がいるけれど、ただその人の命だけを見つめるよにすればいいのだなと思いました。


アーサナができた!!! 継続は力なり!

アーサナを始めたばかりの頃は、呼吸がままならない、難しい、力みがある、柔軟性がない・・・そんな気持ちに覆われていても、続けていくことで変わってくる。その素晴らしさは、続けた人にしか分からないものだと思う。

今日は大阪は中央公会堂クラスに通ってくださっている方のお声をご紹介。

始めてから2年ほどのNさんは、他の方よりも少し年が上の方。
「昨年はしんどかった〜」とおっしゃった。そして、「続けることにくじけそうになりながら来ていました。今年はもうがんばりません」
なのにアーサナを始めると、人一倍がんばってしまう。そして気付いた時にはできなかったアーサナがぐんとできるようになっている。そして今年、ようやくアーサナや瞑想の良さ、効果を感じられるようになったとのこと……。素晴らしい! まさに、

継続は力なり!

そのほかにも、「アーサナができた!」と、喜びを言葉にしてくださったお二人がいます。

お一人目はTさん、シルシ・アーサナの練習を始めて半年ほど。頭と両肘の3点を床に置いて逆さまに立つアーサナです。
こんなコメントをいただきました。
「一人で立つことができるようになり、やっと形になってきました。練習していくことで、体と心の調和が動きに繋がっていくことを教わりました」

Tさんは最初、肘が床につかない。背中が伸びない、足を上げる点が全く分からない、と、体が動いていなかったことに気付かされたようです。そして、猫の3番目の形を重点的に続けたり、コブラ、チャクラなど、良いといわれるものをやってみたということ。けれど………、

「肘が(床から)浮き、バランスを崩してこける、の繰り返しが続く。もっと簡単にできるもの、という思いはガラガラと崩れ、「何でできないの?」と落ち込むほど上手くいきませんでした。そんな時、ある日のクラスで「その気持ちがあかん。できるんだから。あせらないこと」という言葉をかけていただき、また、クラスの皆さんが、アーサナができるできないにこだわらず、新たなアーサナにチャレンジしていくことがただ楽しい!と、向き合っている姿に気持ちが動かされました。

気持ちの方向を変えたらいいのかも、落ち込んだりせずに、私もそうやってみよう、と思いました。そこからシルシ・アーサナが形になってきたように思います。実際にできた時には、『あ、できた』と、気が抜けたような感覚で、自分よりも周りの人が喜んでくれたことに、嬉しさと感謝があふれてきたのを覚えています。まだ立てたばかりのひよっこですが、これからも形を深めていけるように、チャレンジを続けていきたいです」

 

 

お二方目はもう一人のNさん。クラスに来たきっかけは、瞑想に興味があり、感情に左右される自分なので心の平和を欲していたように思う、とのこと。初めは「瞑想専科」に参加。その後「中央公会堂クラス」でアーサナを体験しました。以下、Nさんからのコメントです。

「体験後、疲れたものの、全身がくまなくのび、マッサージされたような感覚があり、体も心も軽くなっていたように思う。それから週一で通うようになった。
ヨーガを始めて1年が経った。最近は、集中を深めることと息を吐き切ることだけに集中してアーサナをしている。そして、先日ついに念願だった「チャクラ・アーサナ」ができたのだ!
ずーとしたかったけどできなかった「チャクラ・アーサナ」 どんなに嬉しかったか!
チャクラアーサナはいつか絶対できると思いながらも苦しんできたハードルの高いアーサナだった。自分を励ましながらも「なんか全然でけへんな」と時々落ち込んでたアーサナ。
息を吸いながら、一気にヒップを上げるんや!と念じながら何回かやっていると、すっとスムーズに上がるようになった。まだまだ、上がったばかりで形はおそらく無様だと思うので整えていきたい。今は上がるだけで必死。(笑)

アーサナは、意識の持ち方でどんどん深まっていく感じがする。都度都度の先生のちょっとしたアドバイスがすごく参考になる。家では、毎日寝る前にベーシックなアーサナを30分程するのが日課になっている。すると深くよく眠れる日が増えた。

クラスに参加していく中で、アーサナや瞑想は、それ自体が目的ではなく、本当の自分「真我=アートマン」と出会い一体になるための道筋なのだと思うようになった。
「動き回る心は本当の自分ではない。その奥に永遠の本当の自分が在る。」と知るだけで、いろんな意味で楽になった。自分の中に揺るがない「芯」ができたような感じ。日常生活でも、相変わらず心は外界に影響され動き回る時もあるが、その中で溺れるのではなく、少し離れたところで観察する余裕もでてきた。

少しずつ、少しずつ自分が変化していて心も安定してきていることを実感する毎日。
これもマーハーヨーギーのヨーガのおかげです。知り合えて本当によかった!」

*   *   *

昨日のクラスもチャクラやシルシ・アーサナをがんばる姿が見られました。なかなか思うようにできない中で「Tさん、やってみせて〜」と声が上がり見本を見せてもらう。きれいに立てた姿に拍手! 「私もがんばりたくなる!」とまた次に向かう気持ちが芽生えてくる。
お互いに声をかけ合い進んでいく様子がとても微笑ましく、真剣ながらもリラックスした雰囲気がある中央公会堂クラスの皆は元気いっぱい。
思いやりのあるクラスにいられることがとても嬉しい! みんなありがとう〜。これからも一緒に進んでいきましょう!

シャチー


ヨーガの料理クラス なぜ旬をいただくのか!

6月4日(日)、パラマハンサ会員向けさまらさの台所を開催しました。今回は、担当のゴパーラの「日常の料理にもっと旬を取り入れたい!」という思いから会のテーマを「旬をいただく大切さ」として、2種類の旬野菜を使って彩りも豊かなお弁当を2班に分かれてそれぞれ作りました。

竜田揚げのお弁当(左)…しいたけとかぼちゃの竜田揚げ、ねぎとわかめの卵焼き、モロッコいんげんのかつお和え、きゅうりのきゅーちゃん、みょうがと大葉の混ぜご飯
春巻きのお弁当(右)…アスパラとチーズの春巻き、スナップエンドウと卵のサラダ、焼きパプリカ、大根の梅和え、わかめご飯

おかず作りのポイントやお弁当の詰め方、ライフスタイルに応じた工夫など、明日のお弁当作りからすぐ実践できる内容に参加者のみなさん、興味津々でした。
また、旬野菜の特徴や自然の力によって育った野菜をいただくことによって私たちの身体にどのように影響するのかを学びました。

「なぜ旬をいただくのか?」
担当のゴパーラは、理解を深めるために瞑想し、気付いた内容をクラスで話してくれました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
旬をいただくとは、どういうことか?私自身、毎日の自炊はしていましたが、料理は作り慣れたメニューでさっと済ませて二の次といった具合で、旬をいただくということが何だか希薄だと感じていました。そこで昨年の冬から、少しずつですが旬を取り入れた料理に取り組んでいきました。そんな中感じたこと、それは、旬の食物は大いなる力を宿していること、つまり「大地のエネルギー」を宿しているということでした。

冬に大根やごぼうをいただくと、それらはとても甘くて身体の芯から温まる感覚があり、春にいただいく空豆やエンドウ豆は、小さな中にもすべてが詰まった濃厚な味わいとエネルギーが感じられました。その旬の大いなる力をいただいていると実感した時、自然と食べ物に対する向き合い方、接し方が根本的に変わっていきました。

何が変わったかというと、「命をいただいている」――単純ですが、そのことが自分の中から湧いてきました。そうすると食物が愛おしく、丁寧に調理する自分がいました。旬をいただくことが希薄だったのは、命をいただくことが希薄だったのだと気付かされました。命の恵み、それをいただいていると感じたら、料理は二の次なんて絶対に思えない。この大地の恵みに支えられて、自分は生かされている。
その気付きがあってからは、料理をすることが楽しく、作られた料理がとても美味しく感じるようになってきました。そして、何度も聞いていたウパニシャッドの一節が思い起こされました。

「アートマンは1人では楽しめなかったので、自らを2つに分けた。そして男と女が生まれ、

動物、食物が生まれ、万物が展開された」

この食物は、どこから来たのか? 誰が作ったのか? そして食べている者は誰か?

すべてはあなたが種を撒き、耕し、太陽を照らし雨を降らせ、そして収穫し、その恵みを私たちにお与えになられている。大宇宙というこの大農園、あなたこそがさまらさファームであり、耕作者、そして地主!!!

何ということ!!!

その不死の甘露をいただくこと、それは最高の歓び!!!

あなたの大いなる御足の地に礼拝し、毎日の食事ができることを願います。

参加者からは、「旬について考える機会をもらって、自分も野菜も共に生かされているのだという喜びがあり、さまらさの本当の意味を学んだと思う」という感想も頂きました。

次回は8月13日(日)を予定しています。詳細は後日WEBにてお知らせしますので、ぜひぜひご参加ください〜

サティー&ゴパーラ


ヨーガの秘訣・北海道編 神は私を待っておられる!

シュリー・マハーヨーギーの弟子には、遠方に住んでいて、容易に師に会えない方もいます。京都に住む弟子たちは、直伝クラスに通ったり、サットサンガなどで、よく師にお会いすることができますし、ブログでもご紹介させていただいているように、昨年からは台湾や松山、京都など各地で特別サットサンガも開催していますが、それでもなかなか会えない人はどのようにヨーガへの思いを高め、日々実践していけばいいのでしょう。

それについて、遠く北海道に住んでおられる三井さんが、ご自身の思いと日々の実践について投稿してくださいました。北海道から京都まで容易く来られませんから、三井さんはブログやパラマハンサに掲載される師のお言葉を何回も読まれているそうです。そして、年に一度ヨギさんに会いに来られた時の三井さんの、実に濃密な師との交流シーンが目に焼き付いている方も多いと思いますが、この記事を読むと、物理的な距離や回数ではないということが実証されているように感じます。


まだヨーガに出会っていない頃、よく見る夢がありました。
夢の中で私は、とっても大事なことをしていないことに気づき、これをちゃんと覚えておいて毎日やらなきゃ!と決意するのですが、目覚めた時には、その大事なことが何だったのか全く思い出せないのです。
私は何か、とても大事なことをしていない・・・・・。
そこで、今までよりも注意深く意識しながら生活してみることにしました。大事なことをしていないはずなのに、日々の生活は何の支障もなく過ぎていきました。そしてまた同じ夢を見るという繰り返し。

私は一体何をしていないのだろう?

ヨギさんの下に導かれ、ヨーガを学び、毎日アーサナと瞑想をするようにな ってから、あの夢を見ることはなくなりました。
毎日続けるに値する確かなものを得て、心はようやく安堵しました。私の魂は、ヨーガを渇望していたのだと思います。
ご飯を食べたり、お風呂に入ったり、歯を磨いたりするのと同じようにアーサナと瞑想も当たり前の習慣になり、何をしていても時間になれば2階の修行部屋へ向かいます。階段を上りながら思うことはただ一つ。

「神は私を待っておられる。もっともっと深い瞑想を捧げよう!」

どんなに離れていても、どんなに会えなくても、心から尊敬できる師と、同じ志を持つ仲間に巡り会えたことは大きな喜びです。
京都に伺い、ヨギさんにお会いした時に伝わってくる神聖なバイブレーションや、慈愛 に溢れた眼差しや、とろけるような笑顔や、ぬくもりのある声は、言葉や文章ではとても伝えられず、実際に味わってみなければ決してわからないことです。
そして、謙虚で穏やかで親切なお弟子さんたちに接すると、頭が下がる思いになります。ヨギさんの教えが深く浸透し、ヨギさんの存在が心にも身体にも染み渡っていると感じます。ヨギさんのお側にいるということは、こういうことかと思わずにはいられません。
ヨギさんのお側でグルバイと一緒にヨーガを学べたらどんなにいいだろうと思う時、頭に浮かぶのはパラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』の中の一節です。

私はカラ・パトリに、彼の放浪生活について尋ねてみた。
「あなたは冬でも、ほかに着物を着ないのですか」
「着ません。これで充分です」
「あなたは本をお持ちですか」
「いいえ、ひとに物を尋ねられたときは、記憶の中から答えます」
「ほかにはどんなことをなさいますか」
「ガンジス河のほとりを散歩します」
この淡々たる答えを聞いたとき、私の心に、彼の素朴な生活に対するあこがれが強く湧いてきた。私は、アメリカと自分に負わされた重い責任の数々を思い起こした。『いけない!ヨガナンダ』私は一瞬さびしく自分に言いきかせた。『この生涯では、ガンジス河の散歩はお前には許されていないのだ』

この生涯では、ヨギさんのお側でグルバイと一緒にヨーガを学ぶことは私には許されていない・・・・・。
パラマハンサ・ヨガナンダの崇高な使命とは比較にならないとわかっていても、そんなことを考えて寂しくなる時、私を励まし力づけてくれるのは、機関誌『パラマハンサ』に掲載されているサーナンダさんの文章です。

インドの山奥で瞑想行に勤しむヨーギーたちも、社会において多忙な仕事に勤しむ世俗人も、等しく神の思し召しによってその境遇が与えられている。私たちを神の御下に導くための道筋がその境遇にある。
今ある状況は、カルマが要請したものであると同時に、カルマを果たすためにはなくてはならないものであると理解できる。
自分の前にやってくる状況は、すべて神が私たちに与えられる素晴らしい導きなのかもしれない。
肝要なことは、現状に不満を言わず、知足し、淡々とヨーガを実践していくことである。
私たちの真剣なヨーガの実践は必ず神に届き、神はそれを見て慈悲深くもヨーガの道を歩むに必要な熱意と力を与えて下さる。これは真実である。

振り返ってみれば私はずっと、本当のことだけが知りたいと願い、探し求め、これも違う、これも違う・・・と彷徨っていました。もう探し回らなくていいと思うと、深い安心感に包まれます。
お導きくださったヨギさんには、感謝の気持ちでいっぱいです。

サーナンダさんは、「私たちには、戻ることのない長い旅路の覚悟が必要です。」と書いておられます。途中下車することなく最終目的地だけを目指し、風景を楽しみながら長い旅を続けていこうと思っています。

三井