インディアメーラー2014

インディアンメーラ

10月11日(土)〜13日(月祝)まで、神戸市メリケンパークでインディアメーラーというイベントがあり、そこにキールタンとアーサナのデモンストレーションで参加することになりました。

インディアメーラーの会場は無料で入場していただけます。インド料理やインド雑貨などたくさんのブースが出るようです。お祭りの詳しい内容は:http://indiamela.so-good.jp

「青空広場 de インド体験」のコーナーでは、マハーヨーギー・ヨーガミッション主催による
キールタンの体験をしていただけます。
キールタンとは、インドで古くから民衆の間で歌い継がれてきた信仰の歌、シンプルなフレーズですので、だれでもすぐに歌っていただけますよ。このブログ内でもたくさん紹介しています!ぜひこの機会に参加してくださいね。

10月13日(月祝) 15:00〜16:00
参加費:1,500円

アーサナのデモンストレーションは会場内にあるストリートパフォーマンス場所で行います。(当日パンフレットの会場レイアウトをご覧ください)こちらは無料で見ていただけます。
以前、京の鴨川というお祭りでもしたのですが、シタールの音色とともに集中感のあるアーサナをご覧いただけます(たぶん 🙄 )

10月13日(月祝) 14:00 〜、15:30〜 2回 (各15〜25分)

3連休中!インドを満喫してみてはいかがでしょうか!

 

 

 


誰もが実践できるヨーガ・瞑想専科 合同合宿!

9月20日、21日と誰ヨガ&瞑想専科合同で合宿を開催しました〜
テーマは瞑想。講師は瞑想専科を担当しているサナータナです。

まずは初日、20日の講座は・・・・・・40名以上の参加者が集まりましたよ。合宿1

瞑想って「何も考えないことですか?」「無になることですよね」・・・とよく聞かれますが・・・というお話から始まりましたね。

サナータナはホワイトボードに

瞑想

という文字を書いてこう説明してくれました。

瞑想の文字には「想う(思う)」という文字が入っていますね。
瞑は元々は「冥」という字が使われていたのだけれど、これは「真っ暗」という意味。
・・・「他のことは考えないで(他のことには目をつむって)一つのことだけを想うこと」・・・つまり、思わないことではなく、一点に集中することとなります。
なるほど〜 😀

そして、瞑想の3つの段階を学び、自分がいったい何をのぞんでいるのかを見つめる瞑想をしてみました。
「自分の望み、希望、願望、欲望でもいいですよ。
ただこれを否定せずに、これさえあればもう完全に満足だ!と思える最高地点にまで高めていくようにしてみてください」
欲望を持たない、執着をしないという教えを何度も聞いているから、ついつい「〜したい」を否定してしまいがちですが、これらを否定せずに、永遠で絶対の最高の欲望にしていく。突き詰めていくことで、本当に自分がどう生きたいのか、人生の理想を見つけていくことができるそうです。
そしてそこには、誰もが求めている純粋なものが入っているというのです。

瞑想は対象が大事だといわれています。またそこに向かうには集中力が必要ですが、なかなか最初から集中して瞑想することは難しいもの。そこでサナータナは私たちが楽しんで集中に向かうことができるようにいろいろと考えてくれたのですね。
まずはこんなふうにして瞑想の練習をしましたよ。

さてさて本当に瞑想するのはここからが本番。
皆に寄り添って進めてくれた講座ですが、この後、サナータナはブッダの教えをもとに、そして時にはヨーガ・スートラの教えから、真我の瞑想と識別の瞑想を私たちに分かりやすいように解説してくれました。そしてそれを受けて実際に瞑想を体験、と繰り返し、講座は、2日間で計4時間半ほど。分かりやすく、しかも思わず笑ってしまう場面も多々あったりなど、楽しみながら学んだ、あっという間に過ぎた2日間でした。

本当の内容はブログでは伝えきれません。詳しく知りたい方はぜひサナータナの瞑想専科にお越しください!(大阪10月6日より中央公会堂、京都10月16日よりウィングス京都で開講!)

講座は終わったけれど合宿の醍醐味はまだまだ続きます。
合宿所はマハーヨーギー・アーシュラマの傍に住むヨーガの仲間の家5つ。それぞれにヨーガの名前がついていて、何人かでシェアして住んでいます。これまでも遠方からヨーガを学びに来られている方々の宿泊を受け入れてきました。その五つの菴に分かれての宿泊になります。

各庵に分かれた参加者たちは、ヨーガの仲間の先輩たちとともに、さまらさ料理を作っていただき、またその後は各庵でヨーガの話に花が咲きます。
また今回の合宿は瞑想がテーマだったので、それぞれが30分〜1時間程度の瞑想をしっかり行ない、ぐっすりと眠りました。

ヴィハーラで

庵の一つであるヨーガ・ヴィハーラにて、朝食後の写真です。前の晩にはヨーガの話をいっぱいした後に、自然とキールタンを歌うことになったそうです。皆さんいい顔をされていますね〜

ということで、合宿が終わった後は、勉強になった、とても楽しかった、充実していた、また合宿を計画してほしい、と嬉しい声もいっぱいいただきました。
皆さまありがとうございました〜

 

今回の合宿でとても印象的だったのは、私の家でもあるセーヴァ・クティーラに宿泊した女性の言葉です。
彼女は月1回あった誰ヨガ講座を2年間、ずっと続けて学びにきてくれていたのですが、初めて参加した時、そこに来ている人たちの多くが顔見知りなのだなと感じたというのです。(実際、マハーヨーギー・ヨーガ・ミッションでヨーガを学びに来ている仲間も多く参加していた)
でもそこに参加している人が、1人で参加している彼女に気付いて声をかけてきてくれて、それがとても嬉しかったそうです。そうして少しずつ他の人たちとも仲良くなって、月に一回の講座であっても、たとえ話すことがなくても、ああ来てはるなぁ、嬉しいなあと会えるのを楽しみにしていたと伝えてくださいました。
また、今回の合宿でも各庵に分かれて7〜8人ほどで宿泊しましたが、自分のことや抱えている問題なども、皆、隠さずに話されていたことや、だからこそ自分も素直に話し、聞いてもらえることができること。大人になってこういう人たちと巡り会えたのは、自分にとってもとても貴重なことなのだと話してくださいました。

ヨギさんは、教えを学ぶこととともに、サットサンガやヨーガの仲間との時間を大切にするようにとよくおっしゃいますが、こういう集まりに参加して落ち着いた、心地よく感じているというお声もよく聞きます。自分自身もクラスに参加したり、ヨーガの仲間と会うことで、ぶれない自分でいられたり、もっとがんばろうと思えたりします。
求めるだけではなく、捧げようと思う気持ちがある人たち、そんな仲間の中にいられることを改めて貴重であると感じ、本当にありがたいことだなあと思いました。

またこういう機会をぜひ作っていきたいと思います。その時はまた参加してくださいね!
久しぶりの登場、シャチーでした。


誰もが実践できるヨーガ特別編 in 松山 映像公開!

すっかり涼しくなりましたね。
こんにちは、マーダヴィーです

これから京都では、誰ヨガ・瞑想専科合同ミニ合宿が始まりますね

さてさて、今年の8月に松山で「誰もが実践できるヨーガ特別編」が2日間に渡って開催されました。その時の映像を公開しました

サーナンダさんとミラバイを中心として、アーナンディー、アミティー、松山スタッフと共に行なわれた今回の誰ヨガ特別編。撮影された映像の中から、“バクティ・ヨーガ” に焦点を当てて編集をしました。1日目の講座と、2日目のキールタン・ワークショップから構成されていて、“バクティ” 一色!の内容となっています。サーナンダさんがバクティを語ります!(全国のサーナンダファンの皆さまは必見でございます)

バクティ・ヨーガは、ヨーガの道の一つで、神を愛するヨーガです。

ちなみに私が初めてバクティ(神への愛)と出会ったのは、2004年インドでのこと。当時、私は中国〜インドを旅していて、ネパールのとある村で中古の自転車を買い、自転車で旅していました。

ちょうどその頃インドではドゥルガー・プージャの真っ最中!ドゥルガーは見た目はとっても美しいのですが、実は怖〜い戦いの女神さまなのです。ドゥルガーのお祭りのクレイジーな大熱狂と共に、自転車をこぎこぎ (…マーダヴィーは女神ドゥルガーの別名でもあるそうです…)

チベット〜インドへの道中、私が目にしてきたものは、人々の神に対する純粋な信仰でした。それは大阪で生まれ育った私の宗教観とは全く違っていました。そこには信仰の中に日々の生活がありました。素朴に純粋に神を敬い、愛し、感謝を捧げている人々と出会い共に時を過ごす中で、神の存在と神への信仰そのものが彼らの生命の源なんだとわかってきました。

まず初めに神があり、神への信仰が生きる礎となり、そしてその上に毎日の素朴な生活がある。その様子はとてもシンプルなのに心は満たされていて、本来、人があるべき姿のように感じました。

自転車旅の目的地はシヴァの街!ヴァラナシです。ヴァラナシはインドの中でも最大の聖地!!そこにはシヴァを祀ったヴィシュワナート寺院があります。「ハラ・ハラ・マハーデーヴァ」というキールタンにもその名前は出てきますね。(ご存知ない方は、YouTubeの「Sakti vol.6 – Hara Hara Mahadeva」を見てくださいね♪ 私が撮影したヴァラナシの写真も何枚か入っています♪♪ )

基本的にヒンドゥーの寺院には異教徒は入ることができません。が、なぜだか私はどうしてもどうしても黄金寺院と呼ばれるこのヴィシュワナート寺院に行きたかったのです。警備のインド人数人に止められながらも「私はシヴァを信仰してるのだー!!!」と強引に押し切り、ついにその中へと入ることができたのです。そこで体験したのは一言で言うと『絶対的な神の臨在と、神に狂う』ということ。この瞬間から私は神に飲み込まれてしまったのです。そして、今でもその中に私は生きています。

それは、ひとえにヨーガのお陰です。ヨーガと出会ったから、いつも神を親しく想い、彼の真実に魅了され、その虜となってしまったからです。もしヨーガを学んでいなかったら、とっくの昔にあの経験も忘れ去ってしまっていたでしょう。私たちは色んなことに心が奪われ、本当に大切なことをいとも簡単に忘れてしまうのです。

バクティ、神への愛・・・ その火種は誰もの中にあると言われています。かの地とは歴史や文化の違う場所にいても、この現代の日本においても、神の愛を知り、神は愛であることを知り、愛そのものである神を愛することは可能です。神の存在と神を愛することを忘れてしまうことは、人間の最大の苦しみです。神を想う私の中に神がいて、その神に圧倒される!あの時飲み込まれてしまった神の臨在が今この胸の中に在る。どうして私を残しておく必要があるのでしょう。神は絶対の存在!我を忘れて神に狂喜乱舞!

おっと、、、 しまった。。。
今回は松山映像公開のお知らせなのです。
思わず熱くなり過ぎました冷汗

それではどうぞご覧下さいませ〜。

マーダヴィー


自業自得

こんにちは、サティヤーです!
最近、自分の周りの人の悩み事を聞く機会が多くなったような気がします。
そのほとんどが人間関係の悩み 😥 悩んでいる人は本当に苦しそうで、何とかしたい!!と思っていることが伝わります。ほとんどは相手の話をじーーーーっと聞き、相手が落ち着き、思いが整理できるのを待つというぐらいしかできないなぁといつも思います。

話を聞き終わり、一人になって思ったのは、私はヨーガを始めてから7年ほど経ちますが、こういう悩みは本当になくなってきたなぁということ。でもヨーガを始めて何が変わったんだろう、ヨーガの何によって変わったんだろうと思いを巡らしていました。

以前の私は、仕事にも、人間関係にも悩みがありました。それが大きいときもあれば気にならない程度のときもありましたが、何か問題があるときは気晴らしをしたり、気の合う友達に愚痴を聞いてもらったりして何とか苦しい状況をなくそうとしていたと思います。ヨーガを始めたからといって、それがすぐに改善されたわけではなく、しばらくの間は続いていたと思います。何がきっかけでそれが変わったのか、そこには一つの経験がありました。

ヨーガを始めたことにより、サットサンガやクラスで真理の言葉を聞いていましたが、それはまだ「聞いている」という段階で、理解しているとはいえないときだったと思います。ある人との関係性に悩んでいた私は、とにかく相手を責めていました。「こんな関係性になったのはすべて相手が悪い、私はこんなにも努力しているのに、理解できない人が悪い 😡 」と心の中で悪態をついていました。思えば思うほど、その人に会うのが嫌になり、会わないといけない状況になると憂鬱で、そのような気持ちにさせられることでまた相手への怒りが込み上げてくるという、何とも最悪の状態だったと思います。

ただ、相手を責める気持ちが強くなればなるほど、心のどこかで「嫌気」のような後味の悪い感触があることも感じていました。本当はこんなことを思いたくない、こんな気持ちを持っている自分は嫌だという思いもあったのです。

ある日、ぼんやりと座っているときに、自然とこの相手との関係性について考え始めました。結局のところ、何が原因でこんなことになってしまったのか……。始めは相手を責める気持ちが出てきました。出るだけ出し尽くした後に、そのままじーっと考えました。「で、私はどうなのだろう……」私は本当に本当に1ミリも悪くないのか?そうすると時間はかかりましたが、自分の本当の気持ちが浮かび上がって来るのを感じました。相手にも問題はあるけれど、相手だけが悪い訳ではない、この悪い関係性になった原因の一端は私にもある。少し自分に素直になったのでしょうか。

そのまま考えを続けていく中で、いつの間にか考えはこの問題を通り越していきました。すなわち今、目の前にしている問題だけではなく、あらゆる自分にかかわることの原因は「私」にあるということ。それは良いことも、そして悪いこともです。私がこうして生きているということ、すべてはそこから始まったのだと思ったのです。

しばらく経って、自分の中で浮かんできが言葉は「自業自得」。

自業自得を認めた瞬間、なぜかホッとしたのを覚えています。なぜホッとしたのか?
想像すると真反対の気持ちがこみ上げてきそうな気がするかもしれませんが、私の中では道が定まった瞬間でした。

自分に起こるあらゆることの原因が自分にあるなら、裏を返せば自分自身でなんとでもしていけるということ。誰かに性格を変えてもらう必要もないし、居づらくなって仕事を変える必要もない。自分にできることは、自分自身を変えていくことだけ。ある意味覚悟というか、自分が生きているということを受け入れた瞬間でした。

その後は、ビックリするような展開がありました。その相手と会ってももう何も感じるところはありませんでした。同じ状況、同じ相手なのに、私の心が完全に変化してしまったのか、昨日のような感情は湧いてこなくなったのです。初めての経験に、何とも不思議な気がしたことを覚えています。

私たちの師は言われます。

「心は苦しみや束縛を感じ、自由になろうともがいているのです、もとより真実という自由が在るにもかかわらず。このように見ると、心は自分で一人芝居をしているかのようです。そう、自分で縛って苦しんで、そして自分で解いて自由になる、という」
(『悟り』心と至福より)

私はまさに一人芝居をしていたのだと思います。

師は言われます。

「心がその過ちに気付いた時が真実に回帰するポイントです」

この経験があった時から、私が自由になるための本当のこと(真理)を教えてくれるヨーガへの信頼は増していきました。

誰もが同じ心の構造を持っています。思いは違えど、その思いが浮かんでくる仕組みは同じ。だとすれば、私が悩みを聞いている人たちもヨーガによって、同じように悩みを解決することができるはず!何かきっかけがあれば……。その人の中に必ず解決の糸口があるはず。根気よくつきあっていこうと思いました。

 

 

 

 


ヨーガの実践 「ヨーガって何?」

皆さん、こんにちは、下鴨ラージャ・ヨーガクラスを担当しているダルミニーです。

ヨーガを志した皆さん、皆さんにとってヨーガとは何ですか?自分の人生のどんなところに位置していますか?「そんな大袈裟な、ただの習い事よ」と思っていますか?

最初は本当にこの身体を良くしたい、痛いところをなくしたいなど、自分の身体のことからヨーガと縁をもつ人も多いのではないかと思います。私もそうでした。私が最初に見たヨーガのポーズ(アーサナと呼びます)はアルダマッチェーンドラ・アーサナでした。この見たこともない捻るポーズを見て、身体によさそう、いつかやってみたいと思ったのがきっかけです。みなさんもきっかけはどうであれ、ヨーガに魅せられ、引きつけられていることでしょう。ヨーガを志すこと自体が身体にせよ心にせよ、このままの自分ではいけない、自分をより良くしたい、自分を大切にしたいという思いの表れなのだと思います。

ではこの自分とはいったい何なんでしょうか?

師は教えてくださいます。

「私たちはこの身体でも心でもない。誰もの中に本質としてある純粋な意識、それが本当の自分である」

そしてヨーガの聖典『バガヴァット・ギーター』にこうあります。

「武器で傷つくこともなく 火で焼かれることもない 風はこれを乾かさず 水はこれを濡らさない これがアートマンである」

アートマンというのは自分自身のうちにある純粋な意識のことです。真実とも言うし、神とも言うし、魂とも言います。「私たちは傷つかないんだよ。心は傷ついたと言って泣いているかもしれないけど、それは本当のことではないんだよ。そのことに早く気が付いてね」と言っているのがヨーガです。私たちは、本当はこの真実を知っているのだと思います。だから私たちはヨーガに魅せられ、引きつけられているのだと思います。

ヨーガとは、自分自身に内在する本当の自己を目覚めさせるものです。

まずヨーガを始めて気が付かされるのは、思い通りにならない、また見て見ぬふりをしていた自分の身体と心のことです。いかに自分のことを知らなかったかが良く分かります。そして次第に今の自分の問題を認識しはじめ、その問題を解決するべく努力をしていくようになります。自分自身を大切にしている皆さんであれば、それは自然に辿っていく道でありましょう。そして自分自身が変わっていくことによって、周りの人たちが変わりはじめ、互いが影響をし合い、共により良くなっていくということにも気が付かされるようになります。そうしてヨーガが、生きていくうえで自分に本当の勇気や愛や自由を与えてくれるものだということが分かってくるのです。そして師は、それらはもともと自分たちの中にあったのだということも教えてくださいます。そうするとヨーガがますますおもしろくなってくるんですよ。

大切な自分自身のことを後回しにしていてはいけません。一緒にやっていきましょう。

 ダルミニー


最近のオシゴト

南相馬にやって来て約1年半、経験した事や感じたことを綴っています。

私にとって、ここはもう支援の場所ではなく、生活の場になりました。京都が南相馬に変わった、それだけです。ただ、ここでしか経験できないことはたくさんあります。その一つは、今任されている仕事です。今日はそのことについて少し書きたいと思います。

この地域の病院は、どうすれば生き残れるか、それを必死に模索しています。

あの原発事故以来、多くの人が避難したきり戻らず、職員の数も激減しました。都会でも看護師不足は深刻で閉鎖する病棟もありますが、それでも都会はまだ入って来る看護師が期待できます。でも、ここでは今後職員が増えることはありません。今いる人だけで何とかやっていくしかない。しかし、職員自身も高齢化しており、定年間近の人も多く、今の体制も徐々に保てなくなっていくはずです。

私の病棟を例に挙げると、今いる看護師は14人、3年後には6人に減ります。6人のうち、支援看護師や夫の転勤で来た期間限定で働く看護師を除くと、3人になります。3人で50人の患者さんを看ることは不可能ですから、今後病院は縮小したり、形態を変えてやっていくことになります。

そのために私が今取り組んでいるのは業務改善で、その中でも看護記録時間の短縮を図るために記録用紙を作り変えることです。田舎の病院というのは、色々な面で古いやり方をずーっと続けているところが多い。人の出入りが激しい都会の病院とは違い、この病院の看護師はほとんどが定年までの40年間をここで勤めます。働く人も同じだし、多少手間がかかっても、みんななんとなく面倒だと思っていても、自分たちが慣れたやり方の方が安心だしやりやすい。病院間の競争もほとんどない。だから、業務改善があまり行われず、時間も労力も無駄が多いのです。

そこで私は、看護記録用紙をもっと効率的なものにすることを看護師長に提案しました。でも、最初は師長にも主任にも無理だと言われました。それでも、今後業務改善は必ず必要になることを伝え、師長と話し合いました。そうすると、一度見本を作ってみましょうということになり、よそから来た看護師さん2人にも助言をもらいながら、高齢の看護師さんでも抵抗なく書けるような工夫をして、記録用紙の見本を作って見せました。今は看護部長(看護部のトップです)の許可も得て、師長と話し合いながら、さらにうちの病棟に合ったものへと作り変えています。

こうして新しいことに自主的に取り組んだり、ありきたりの方法に捉われず創作していくのって、とても楽しいですね!これまで私にとって業務改善というのは、上司から言われてやることでした。正直、あんまり興味がなかった。ただただ受け身だったんですね。自分のことを大きな組織の末端にいる一員としか思っていなかった。確かに、出来上がった組織の効率化された業務は、素晴らしい。ここは田舎の小さな病院で医療や看護も遅れている。でも、まだ形になっていないこの病院だからこそ、みんなで作り上げていく楽しさを、今私は味わえているのかなあと思います。

ただ、こういうことを、来てすぐの私がやっても、周りの反発しか受けなかっただろうなと思います。いくら正しいといわれていることでも、それが人に受け入れられるとは限らない。やっぱり人間って感情の生き物なんですね。このことは、震災後石巻に支援に行った時に自分自身の経験からも、そして同じ団体で活動した仲間の経験からも学んだことでした。でも、一年半経って、ただ言われるままに働いてきただけだったけれど、少しは周りにも信用してもらえるようになったのかなあと思います。

残念ながら、作成中の記録用紙は守秘義務のためお見せできないですけど、代わりにといっては何ですが、最後に私の働く姿をよかったら見てください。

詰所1
私のいる病棟の詰所です。この日は夜勤。看護師一人と助手さん二人の体制です。

薬
朝5時。仮眠の後、仕事再開です。いつになく真剣です。薬を扱っているので間違ってはいけないのです。この後配薬、検温、採血などなど盛りだくさんの業務をこなします。まだまだ帰れません…。

fufu1
笑っている場合ではないのですよ‼さっさとしましょう。

 ユクティー


ブッダの言葉

こんにちは、サティヤーです。

2つ前の記事にアップされているブッダの聖劇、みなさんご覧になりましたか〜?!

実は私、2回とも聖劇に参加しています。一度目は亡くなった子供の亡骸をずっと抱きしめているキサゴータミーの役、二度目は妊婦の役、どちらもお母さん役です。

前回の瞑想専科では、「Story of Buddha」を鑑賞し、その中で印象に残った場面や、ブッダの言葉に瞑想をしました。久しぶりに鑑賞し、懐かしいなぁ〜(みんな若いな 😯 ……)と思いながら見ていたのですが、最後のキサゴータミーの場面、彼女の中で起こった心の変化について、この瞑想専科に通うことで分かることがありました。

キサゴータミーはやっと授かった子供が亡くなってしまい、そのことを受け入れることができず、ずっと亡骸を抱きしめながらあやし続けます。どこかではもう無理かもしれないと思う気持ちはあるのですが、きっとそれを受け入れ自分の気持ちを直視できずにいるうちに、何が現実で、何が幻想かが分からなくなってきたのだと思います。しかし、時間が経つにつれ、その矛盾は大きくなり、ついには発狂し、狂ったように「誰かこの子を生き返らせてー!!」と叫びながら町を走ります。

そこで、聖者ブッダに出会うのです。ブッダは言います。

「若いお母さん、今までに死人を出したことのない家からケシ粒をもらってきなさい。そうすれば、私がその子を生き返らせてあげましょう」

キサゴータミーは全速力で走ってありとあらゆる家に入り、ケシ粒を求めたと思います。だって、「生き返らせてくれる」そんな言葉は初めて聞いたはずです。だからこそ、何とか見つけようと、必死で求めました。

ケシ粒というのは、インドで日常的に良く使う香辛料ですので、持っていない家を探す方が難しいかもしれません。ですので、ケシ粒はすぐに見つかります。でももう一つの条件、「死人を出したことのない家」というのが、どうしても見つからないのです。どの家に行っても、「あー去年に父親が死んだ」とか「そういえば何年か前におじいさんが亡くなった」とか、もしかしたら同じように子供を失ったという家もあったと思います。自分の子供の命を生き返らせること、そのことだけで心の中がいっぱいいっぱいになっていたキサゴータミー、しかし、家を訪ねていくうちに、少しずつ落ち着きを取り戻し、自分の状況が客観視されていったのではないでしょうか。

苦 苦しみを正しく見つめる。

8月の瞑想専科で習った瞑想方法の一つ、心の仕組みを知る瞑想法には、まず、自分の心を客観的に、何の判断もせずに見る「止観」ということから始めると習いました。家々を訪ね歩く中でキサゴータミーはその状態になっていたのだと思います。

集 原因を見極める

自分の心を客観視し、現状をみたところで、きっとキサゴータミーは思ったのです。「死んだのは、私の子供だけではない。ありとあらゆる人が死んでいる。生まれたものはみんな死ぬのだ。それはどうしようもないことだ」心が動揺し、動揺の渦中にあるときには、「それでも私の子供だけは死んで欲しくない!」と受け入れられなかったはずです。心を外側からただ見ることができたときに、どうしようもない状況に対して右往左往していることが見えたのだと思います。

滅 原因を根こそぎ取る

キサゴータミーの場合は、何に動揺しているのか、その原因に気付いた後すぐに「気付き」へと心は変容していきます。亡骸の中にはもう何もない、そう認められたとき、きっと心は解放され、苦しみが取り除かれたと思います。その証拠に、今まで離すことができなかった亡骸をブッタの前でそっと置くことができたのです。

道 無執着、自由な行動や生活

ブッダ「私から見たら、その子もあなた自身も不滅の存在です。悟りとはその真理を求め実現することです」

それを聞いたキサゴータミーは、亡骸を抱き続けるという人生から、本来人として生きるべき道を教わり、ブッタ自身の境地へ導く道に入ることを決心します。

あのお芝居ではほんの何秒かの出来事ですが、キサゴータミーの心の中では「苦・集・滅・道」にそって瞑想が行われ識別された結果、人生が180度変わったのだと思います。だれの言葉も届かなかったキサゴータミーの心に、ブッダの言葉は入り込み、瞑想へと導き、彼女は心を超えた気付きによって問題を解決した。ブッダはそのような状態を引き起こし、誰も救うことができないような状況から一人の人を救ったのです。

キサゴタミーの心境は、他人事ではありません。状況はいろいろですが、何かに執われ、周りが見えなくなってしまうことは誰にでもあることです。キサゴタミーがブッダの存在や言葉によってそれを解決したように、私たちも同じことができると思います。ブッダは2500年前の聖者ですが、その存在と言葉は永遠だと思います。

最後の場面では、ブッダが教えた「苦・集・滅・道」が行われていたとは!演技をしているときには正直そこまでの理解はなかったです。(ごめんなさ-い 🙄 !)何度見ても、新たな発見がある「Story of Buddha」こんな作品がこれからも作れたらいいな〜と思いました。

ちなみに、脚本家であり、瞑想専科の先生であるサナータナさん、これであっていますか〜!


波を静めて海を見る

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こんにちは! ミラバイです。
私、最近とても久しぶりに、大きく心が動揺しました(笑)。えー、ヨーガって心の波を静めるんじゃないの〜という声が今にも聞こえてきそうですが 😎 、いやいや、修行途上の身、正直なところ揺れ動くこともまだまだあるんです……。
振り返ってみると原因はなんてことない、本当につまらないことだなぁ〜と思うし、今となってはもうどちらでもいいことで、自分の中に原因があるということも分かるのですが、その時、心をフルに動かして思ったことは、「あー、しんど」(私、関西人)。
つまり、心を動かす、心にいろんな思いをもつってことは、本当に疲れる!ということ。身も心も疲労するし、そのためにか食事もわんさか食べてしまったりもします。

ヨーガを始めた頃は、自分がどれだけ変化しているのか、また続けている中で自分が本当に成長しているのかと疑問に思ったり、自信がなくなったりすることもありますが、時間が経ってから振り返ってみると、自分が気付かないだけで、ものすごく変わっているということに後々から気付かされます。また、そういった変化に気付くというのは、本人がいちばん最後なのかもしれません。

心がそのように動いて、「あぁ〜、そういえば昔は毎日こんな感じだったなぁ」と思い出しました。あれやこれや、いらないことや、考えても仕方のないことばっかりずっと考えて、くたくたになって、いっときも心が安まることがなかった。そして今まで自分が心を大きく動かして、これが喜びだと思っていたことが、本当は喜びではなかったこと、そしてそれらを手放した時に本当の歓びを味わい始めたということ。何にも執らわれないということがいちばん楽ちんで、自由で、幸せ‒‒‒‒それは苦しみという反動がやってこないから‒‒‒‒そういうことを実感してきました。それを思うと、今はヨーガのおかげで、本当に軽やかになったなぁと感謝しています。

変化し続けてやまない波のような自分の心や周りの状況、この世界に巻き込まれず、それをしっかりと静めて、変わらない本質‒‒‒‒海だけを見つめられるようになりたい。そして、いつも穏やかで大らかで、かつ愛と力に充ち満ちた心でありたいなぁ〜と改めて思ったのでした。

追伸:おかげさまで次の日には復活しました! これもヨーガの力なり〜!

 

 


野外演劇「永遠のブッダ」公開!

またまた、マーダヴィーです〜。

本日8月25日、京都の吉祥院天満宮では古くから伝わる六斎念仏という法会があるそうです♪そして25日と言えば天神さんの日ですね!北野天満宮近くにお住まいの方は行ってきましたか〜?

さてさて、今年の4月6日に大阪市天王寺区にある西照寺で行なった野外演劇「永遠のブッダ」の映像を公開しました!

毎年4月の第一日曜日に、大阪・一心寺周辺では「なにわ人形芝居フェスティバル」が開催されています。私たちは2011年に初めて参加させて頂いて、今回が2回目の参加となります。お寺や神社などが主催されているフェスティバルなので、お釈迦さま(ブッダ)についてのお話をお芝居にして、皆さんに見て頂きました。

2011年は、ブッダ御自身の誕生〜悟りを啓かれた後のお話を取り上げました。その時の「ブッダの物語」映像も前・後編に分けて、YouTubeで公開していますので、復習兼ねて、ぜひもう一度ご覧くださいね。

ちなみに今日の大阪での瞑想専科では「ブッダの物語」を上映し、脚本・主演のサナータナさんが熱ぅ〜く解説してくれはる予定です!京都では8月28日木曜日の瞑想専科にて上映しますので、お楽しみに!!

今回の「永遠のブッダ」は、ブッダとある弟子との物語です。取り上げられたテーマは、現代の私たちへのメッセージでもあります。(人は生まれ変わることができるのです!!)時代と空間を超えて、ブッダが教えられたことは、私たちへと伝わっています。

アクション・シーン満載のこの物語、私がこれ以上ネタバレしてしまう前に(笑!)、ぜひぜひぜひぜひご覧くださいませ〜。最後にはブッダの言葉の贈り物がありますので、最後まで見てね。

マーダヴィー


あなたは何を持っていますか?

残暑お見舞い申し上げます。 マーダヴィーです!

さてさて、わたくし事なのですが、今年の始めに実家を処分しました♪

住んでいたのは私一人だった(一軒家に一人暮らし!)ので、いつか家の処分はしなくちゃいけないな~と分かっていたものの、なかなかそのような大事には踏み切れず、いつでもできる、でも自分しかやる人いてないぞ、あぁかなり大変そうだ (TーT) ・・・と後回しにしてきましたが、とうとう「やるぞー!」と一念発起して実行しました。

大阪は住之江区の商店街から歩いて15秒の所にあった実家。めっちゃ下町です。ご近所さんとも家は違えど、一つの大きな家族のように育ってきました。今でも私を身内のように心配し可愛がってくれます。

誰もが生まれては死にを繰り返す輪廻転生の中で、自分自身で両親や環境を選んで生まれてくると言われています。私が生まれてきたところはちょっと事情のある家庭で、自分の手で解決しておきたい諸問題もあったので、それも含めてこの際一気に片を付けて、シンプルに生きるのだ~! と決心しました。

まずは、物理的な面での第一歩です。私は生まれてからずーーっと同じ所で暮らしてきたので、実家には相当の物があるのは分かっていましたが、ずっと見て見ぬフリ。自分の物は簡単に処分できますが、いざ開かずの扉を開けてみると、ありゃ~、出るわ出るわの大荷物。私の幼稚園の制服(大事に残してくれていたのね 涙)や、祖母の日本刺繍のお道具や大量の着物、はたまた20年以上も前に亡くなった祖父の3ピース・スーツまで綺麗なまま保管されて・・・ そして、いつか使うやろうと残してあったものの数々(ちょっと置いとこ~と思ってる物は、結局要らないのです)

・・・結局、家にあるものの98%の物を処分しました。

処分するのに一通り自分で目を通して、はいゴミ、これもゴミ、という風にガツガツ進めていきました。物を捨てる時に、例えば写真とか手紙とか、それらを見始めたらもうキリがないですよね。(みなさんも経験あります?) 色んなことを思い出したり、感傷に耽ったり……。 自分の物だけではなく、家族の物を見ても、その一つ一つに嬉しい思い出やら悲しい思い出やらがいっぱいくっついています。

感情が動くと作業は全くはかどりません。ただ事務的に、はい要らない、これも要らないという風に、ゴミ袋に放り込んでいくことをひたすら繰り返しました。その時につくづくと感じたのは「あぁ、かつて自分、又は誰かが大切にしていた物は悉く本当に無くなる。そして、それを大切にしていたその人もいなくなる」ということ。

この家だって建てられて60年近く経って老朽化し、解体されて無くなる。いつ誰が定めたかもわからない境界線で囲われたこの土地も、今は私たちの所有物だって言うけれど、すぐに他の人に譲渡されるし、そもそも初めからこの地球には境界なんてないのに、限定作って自分の持ち物だ~なんて主張して、ほんとバカげてる。

「だとしたら、この世界に自分の所有物と言えるものはあるのだろうか?」

という疑問がやってきて、思わずゴミを整理する手が止まりました。

でも次の瞬間

「自分の持ち物と言える物はほんとに何一つないけれど、“純粋な信仰” だけは持ってるわ!!!」と、答えがはっきり分かったのです!!

“純粋な信仰” が自分の唯一持ち物だ!と分かったとき、すーごく嬉しかったです。外側にあるいつかは壊れゆく物や、変わってしまう思いでもなくて、自分の内側にある“信仰”、それだけがどんなものよりも心の中に燦然と光輝いていて、何よりも大切で、自分の生命の源であり、それが私と言えるようなものだったと気がついたんです。

信仰と言うからには、何を信じているかという対象があります。私にとっては、神さまと真実です。(私は神さまが大好きです)

そして突然、中世に生きたミラバイのことを思い出しました。彼女も同じように、神への信仰だけを自らの持ち物とし、神だけを愛して、インドの大地に生きたのだと。ミラバイの魂が、時を超えて私の心に流れ込んできました。彼女は何も持っていなくても、どんな状況になっても、恐れるものは何一つなかった。それは神が彼女を愛し、彼女も彼だけを純粋に愛していたから。そんな愛の人を神さまは永遠に守るしかないでしょう。ねぇ?神さま。

自分が生きていくために必要最低限な物(+α+α+αくらい?結構いっぱいあるやん笑!)を実家から持ち運んで、今は暮らしています。無駄な物に囲まれているより遥かに快適!心も軽い!

以上、本日はマーダヴィーがお届けしました!
なお、もうちょっと続きがありますので、それはまた次の機会に~!