謝ることの意味

幼い頃から、私と父は事あるごとにぶつかり、関係を絶った時期もあったほどでした。しかし、ヨーガを実践する中で関係を修復することができ、少しずつ穏やかな交流ができるようになっていきました。

先日のこと、父と会い、仕事のことを中心に近況報告をしていたところ、驚いたことに父の口から昔のことを詫びる言葉が出たのです。 
当時の父は何の仕事をしてもうまくいかず、経済的に厳しい状況が続いていたため、子供である私にも辛く当たってしまったこと、その頃のことを、親として本当に申し訳ないことをした、と話してくれました。 
また、そのようなことがあったにも関わらず、今私がしっかり働いていることが嬉しい、と言いました。 
私は、自分の力で生きていくことの大切さを教わったから、大丈夫、と答えました。 
父は少し微笑んで、今までで一番穏やかな雰囲気で頷いていました。 

私は師の教えを思い出し、読み返しました。 

 

”——もし他者を傷つけてしまった場合、どのようにしたらいいですか。 

誰かを傷つけたということを自覚しているのはよろしいです。可能ならば、その傷つけた相手に謝罪をする。もしできなければ、心の中で謝罪をする。そして二度と同じような行ないをしないように気を付けてください。 

——心の中で謝るのは何のためですか。 

自分のためです。それによって心は一つのカルマを浄化するべきなのです。 

 

もし誰かを傷つけてしまったと気付いたら、直接謝るのが一番だけれど、たとえそれが叶わなかったとしても、自分の行為を振り返り、真剣に反省し、その方に心の底から謝ること。その結果、自分の中の過去との決別がもたらされる。そう師は教えてくださっているのだと思いました。

父はずっと前から私に対して心の中で謝っていたのかもしれません。もしかしたら今回言葉にして直接謝ることで、父は背負ってきた荷物を一つ下ろせたのではないか。そうだったら私も嬉しい。

この出来事で、謝ることの本当の意味と、それを真摯に実践することの大切さを改めて感じました。

父の家の近くの道は、イチョウが落葉して絨毯のようになっていました。

 

 ハルシャニー  

 


師がお生まれになった日のこと

真っ暗だった世界に、黄金色の眩い光が差し、草木に滴る朝露の雫は玉虫色に輝き、鳥たちは歌い、花々は咲き、虫や動物たちは活動し、人々が目を覚ます。

11月頃から12月にかけてのこの時期、朝の光は格別な光を放っています。大地に日が昇るその数分間だけ、強烈な輝きに世界が包まれます。それはそれは神々しく、きっとみんなが待ち望んでいた主の誕生された日はこういう朝だったに違いない、とこの時期になるといつも思います。

太陽の昇る角度や気温やいろんなことが関係しているのだとは思いますが、この期間だけの特別な朝の色。光がとても柔らかく優しい感じなのです。
夏には少ししんどそうだった植物たちも息がしやすそうで、ピンとしてハリがあり「見て見て~」と言わんばかり(笑)。新しい芽を出したり、命の誕生を感じたりするこの季節がとても好きです。
命が生まれる時、全世界が祝福に満ち、虫も動物も花も草木も石も壁も空気さえもが、歓びに満ち満ちる、奇跡の瞬間とはこういうことなのだろうなと感じます。

オレンジ色のもみじ

オレンジ色のもみじ

私たちの師がお生まれになった75年前の11月23日は、きっとそんな朝だったんだろうなと今年も思いを馳せていました。日に日に、すべての存在がその日に向けて準備をするかのように、次第に美しい彩りへと変化する様子には感動し、赤く染まっていく葉っぱは主への愛ゆえに頬を赤らめているかのような、そんな気さえしてしまいます。

紅葉が美しいこの季節は、世間的にも観光や旅行やさまざまなイベントやお祭りなどが行なわれ、皆が活発に動き回っている雰囲気があります。街中がお祭り騒ぎのような最中に、私たちは師の御聖誕祭のために心を一つにして、師への感謝をお捧げできるようにと毎年準備を進めてきました。その準備自体もまた嬉しく、お祭り前夜がずっと続いているかのようで、世間の他のことが全く眼中に入らない状態に自然となっていました。世間が賑やかになればなるほど、逆に妙なる集中と静けさを感じたり・・・。

御聖誕祭の当日の様子は、一つ前のブログ記事で紹介されています通り、本当に祝福に満ちた掛けがえのない一日でした。師への尽きせぬ感謝は、何も変わりませんでした。むしろ大きくなるばかり。感謝の思いを形にしたような手作り感あふれる素朴な祝祭で、純粋で清らかなものを私は感じました。

そして特に印象的だったことは、結びの祝辞でマードゥリーさんが代表して述べられた言葉、「前に進む」でした。そこにみんなのすべてが象徴されているようでした。その日のみんなの姿そのものに感じました。いろんなことが起こる中で、時に、足を止めたくなることもあります。でも、それでも前へ進め~!と師から激励されているように感じ、それは『ラーマクリシュナの福音』の中のある場面とも重なりました。

ある日、ラーマクリシュナが信者から祭礼に招かれます。その帰り道、ラーマクリシュナと直弟子たちは、街中がお祭り騒ぎの雑踏でごった返している中を馬車に乗って帰られます。

 

*  *  *

・・・人々はアリのように行列をつくって動いていた。
群衆は道の両側の華やかに飾られた店や露店を眺めていた。
菓子の店や香水の露店があった。
美しい絵や、けばけばしい絵が壁にかかっていた。
よい着物を着た店の主人たちが来訪者にバラ香水をふりかけていた。
馬車が一軒の香水の露店の前に止まった。
師は絵や灯を見つめて子供のようにお喜びになった。人々は大声で話していた。
彼は叫ばれた、「前へ進め!とまるな!」彼はお笑いになった。
大声で笑いながらバーブラームにおっしゃった。「とまるな!お前たちは何をしているのだ」信者たちも笑った。
彼らは師が自分たちに、神に向かって進みつづけよ、現状に満足してはならないぞ、と言っておられるのだと理解した。

 

※引用・参考『ラーマクリシュナの福音』

*  *  *

秋晴れの優しい光に包まれた師の御聖誕祭の日、とにかく一歩前に進もう、小さな一歩を止めずにがんばろうと思いました。

紅葉の道

ナリニー


The 75th SATGURU JAYANTI

マハーヨーギー・アーシュラマ

11月23日、サットグル・ジャヤンティー<シュリー・マハーヨーギー 御聖誕75周年祭>が開催されました。
私たちにとっては最愛の師が旅立たれるという大きな衝撃が走った年でしたが、吉祥なる日に、変わらぬ感謝と誓願を師に捧げられるよう、日本各地、ニューヨーク、台湾より100名を超える弟子たちが集い、歓びと希望に満ちた一日となりました。今回、京都は3会場に別れ、各地もそれぞれ会場に参集しつつ、それをZoomで繋げるというデュアル開催を試みました。

マーラー

師のご生家であり、師が長年にわたり道を求める多くの人々に真理を説き、導いてこられたマハーヨーギー・アーシュラマでのプージャー(礼拝の儀)から祝祭は始まりました。その後、会場から会場へ順々に繋ぎながら、祝辞やキールタン、映像などが奉納されました(一人一人の祝辞や詳細は会員サイト「Web版パラマハンサ」にて後日掲載します)。

キールタン「Panduranga Vitthale」

有志メンバーによるキールタン「Panduranga Vitthale」

台湾から奉納されたヨーガの展覧会の映像

皆の言葉や姿には、師を心から慕う溢れる想いとともに、悟りの実現に向けて、師の教えを自分たちがまさに生き、師に倣っていこうという力強い決意が現れていました。私たちは新しい幕が開けたことを自覚し、一つの方向を見てさらに前へ進むことを改めて確信することができたと思います。

生きとし生けるすべての生類、誰もの本質は尊い、永遠なる真実の存在である――この普遍的な真理を示すために、各地を駆け巡り、惜しみなくすべてを注いでくださった師に、深い感謝を捧げます。
これからの未来にわたって、師が語られた真理の言葉がこの世界に清らかに響き渡っていきますように!`

シュリー・マハーヨーギー

Jai!
Satguru Shri Mahayogi Paramahansa
ki jai!!!

 

マハーヨーギー・ミッション 


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ⑥

私が絵を描き始めたのは、ヨギさんにインドの細密画について教えていただいてからです。
最初はインドの細密画を模倣するところから始まったのですが、何枚か描いていくうちに、ヨギさんは日本にお生まれになり京都にお住まいなのだから、京都アーシュラマや日本を感じるような風景の絵を描きたいと思うようになりました。

そう思って描いた1枚が、今日ご紹介する『Paramahamsa』No.29の表紙絵で、この号には、2001年のサットグル・ジャヤンティーの模様が掲載されました。

 

そして、今年、2023年のサットグル・ジャヤンティー、師の御聖誕75周年祭はもう目前です。

私たち各国の弟子にとって、今年は大きな節目を迎えた年であり、来たるサットグル・ジャヤンティーは、私たちにとって意味深いものとなると思います。
たとえ師のお姿が見えなくても、師が目の前におられる時と同じようにジャヤンティーを迎えることができますように。

師はおっしゃいました。
アヴァターラがこの世界にお生まれになる日、全世界が祝福されるのだと。
この吉祥な日を、全員で歓びをもって迎えたい。
そして、師に出会えたことを、決して良き思い出として終わらすことなく、一人一人が師の教えを生き、師が示された真実を生き生きと表すことができるように、身口意をもって行為していきたい、そう思います。

シャチー


神に行為していただくために

私は鍼灸師として、様々な症状を抱えた人に会います。不安や痛みを抱えている人は、自分の中に真実の存在、神がいるとは思いも及ばないような状態です。 
私にできるのは、患者さんが発する言葉に耳を傾け、その気持ちに寄り添い、少しでも楽になってほしいと願って行為することだけです。 
ただ、この思いが強くなりすぎると、こうしたらもっといいのではないか?もっと結果を確実に出すには?と考えてばかりになり、どう行為すべきか定まらなくなることがあります。 

 師はいつも目の前にいる人の話に真剣に耳を傾け、その人にとって必要なことを、一つ一つ丁寧に言葉にして伝えられていました。師の言葉を聴いた人は、悩みや苦しみが消えてホッとしたような表情になったり、明るい表情になったりしていました。その光景を見ているだけで、私の心も洗われるようでした。 

私も、僅かでも師のように行為できるようになりたい。 

私の中にある真実の存在、神である師に行為して頂けるなら、そうした状態の方たちにも、自らの中にも神がいる、と感じてもらえるかもしれない。 
そうすれば、痛みや苦しみを感じているのは本当の自分ではないこと、自らが喜びそのものであることを自覚し、今をより良く生きていけるようになるはず。 
それを実行するためには、私という思いをなくし、目の前にいる人の中におられる神を見て、行為すること。 

師が共にいてくださると想いながら患者さんに触れていると、時折私が行為しているという感覚がなくなっていることがあり、患者さんの表情がハッとするほど晴れやかになったり、安心したような雰囲気に変わったりします。きっと、私の中におられる神、ヨギさんが行為してくださっているのだと思います。 

 一歩一歩ヨギさんに近付いていくことで患者さんのためにもっと良い行為ができると信じ、ご自身の中に神がいることを感じてもらえるよう、日々患者さんに接しています。 

空に向かって真っ直ぐに伸びて咲く、皇帝ダリア。この花を見ると秋の深まりを感じます。

 

 ハルシャニー  

 


『マハーヨーギーの真理のことば』第十五章 宗教と社会

わっしょい!わっしょい!秋になると私の住む地域では子供達が御神輿を担ぎ、歩いて回ります。御神輿の上には神様が祭られていますので、宗教行事の一つと考えられます。その他に夏祭り、お盆、お彼岸、大晦日など、私達の日常にはたくさんの宗教行事があります。これらの行事の際、その意味が深く語られることは少ないですが、宗教は私達の暮らしの基盤となり、人生を豊かにしています。
その一方で、宗教が争いの原因となってしまうことがあります。宗教戦争で傷ついた人々を見て、悲しくなります。何か自分にもできることはないかと思いますが、個人として出来ることは少なく、無力さを感じます。一体私達の社会において宗教はどうあるべきなのだろうか?という疑問が晴れることはありませんでした。このような疑問に対して、『マハーヨーギーの真理のことば』には明確な答えが書かれてありました。
シュリー・マハーヨーギーは、宗教は本来人の心を慰安するものであるが、実際は神頼みのような現世利益を目的としたものから中には形骸化しているものもあり、自らの宗教の優位性を主張して対立を生み、人を束縛して苦しめる宗教ならば、むしろない方がよいとまで仰っています。
私はこういったすっぱりとした意見をこれまで聞いたことはなかったのですが、その通りだと思いました。しかし、人生の中では多くの苦悩があります。純粋に人を助け、争いを生まないのであれば、宗教はあった方がよいと思います。シュリー・マハーヨーギーはこの点についてこう仰っています。

本当の宗教というのは、永遠に壊れない、全ての中にある存在の真実のことをいいます。その尊い命を誰もが、万物が与えられている。それ自身それだけで尊いということを単純に知ることができれば、人はいがみ合うこともなく、争い合うこともなくなるでしょう。 

『マハーヨーギーの真理のことば』第十五章 宗教と社会 

これは、ヨーガの中心的な考え方であり、サナータナ・ダルマ(永遠の宗教・永遠の真理)と呼ばれています。アーサナや瞑想といったヨーガの修行法はこの真理を知るための方法です。既に宗教を持つ人も無宗教の人もヨーガ、真理を学ぶことができます。
世の中がどのような状況下でも、まずは一人一人が真理の教えを学び、現実社会の中でそれを実践する、自分を律していくことが大切なのだと私は思っています。それが周りに波及し、やがて大きく広がっていくと信じています。社会は一人一人によって構成されています。私がヨーガを深めることで、人としても成長し、周りの人達に自然と元気を与えられるようになれたらと思います。そのために、日々の生活における一つ一つの行いを大切にしていきたいと思います。

島本廉


『マハーヨーギーの真理のことば』第十四章「瞑想―実践編」


湖面のさざ波が月の姿を正しく映さないように、
私たちの心のざわめきが真実を覆い隠している。
ヨーガによって心のざわめきを静めたなら、
真の自己は自ら輝き出るだろう。

 

第十四章のページを開くと、上記の師のお言葉が目に飛び込んできます。
私は師にお会いする前に、マハーヨーギー・ミッションのホームページでこのお言葉に出会いました。まだヨーガも何も知らない頃でしたが、そのお言葉からしんと静まり返った寂静の境地を垣間見て、暗闇に光が差したような何とも言えない安堵感を覚えました。ヨーガによって心のざわめきが静まるということ、そうすれば本当の自分――真の自己が“自ら輝き出る”というところに希望を見ました。そして今も、このお言葉の示す境地に惹かれてヨーガを学んでいると思います。その状態へ至るための具体的な方法、ヨーガの本格的な中身、瞑想のその内容についての導きが第十四章にははっきりと示されています。

瞑想は人それぞれ違う景色が広がっているのかもしれないし、中身を確認し合うこともできない。だからこそ本当に瞑想を知っている方、ヨーガを成就されている方、悟りの境地におられる方、そういう方から瞑想のことを教えていただくのが、いちばんだと思ってきました。

今、師にお会いして瞑想のことをお尋ねすることはできなくなりました。でも、師は『マハーヨーギーの真理のことば』の第十四章に、とても細やかに、具体的に、瞑想についての手解きを遺してくださっているのでした。

第十四章は52ページもあり、おそらく一番ボリュームのある章です。「瞑想ーー実践編」なので、ヨーガの要の部分だと思います。とにかく一つずつ項目について記事が書けそうなほど(笑)一つの項目が濃いです。これは、一つ一つ、じっくりと自分が向き合って瞑想していく中で理解できることだと思いましたし、この章にはヨーガの秘義的な内容も含まれていると感じます。

瞑想の実践について、四つの節に分けて解かれています。

一節 「識別瞑想の実践」
二節 「死の瞑想」
三節 「真我への瞑想」
四節 「聖者・神への瞑想」

まず一節を読むと、瞑想がしたくなります。理由は、ただ読んでいるだけではそこに書かれていることを十分に理解できないからです。自分が識別瞑想に取り組まなければ、とらえることができないような微妙なところが書かれているからです。

この複雑な迷路のような心の状態のことや、心の性質や、この世の正体、世界の理(ことわり)について、ものすごく分かりやすい言葉を使われて、具体的に解き明かされ導いておられる師の存在には、今更ながら本当に驚愕しました。とても本格的な内容なので、もしかしたらすぐに分からないこともあるかもしれません。そういう場合は、「瞑想――基礎編」の第十三章に戻ってから第十四章を読むことをお勧めします。私もすぐに分からないことが多かったので何度も十三章に戻りながら十四章を読みました。二節、三節は、こんな貴重な深淵な内容を公開してもいいんだろうか・・・と思うくらいの唯一無二の内容です。

十四章の中で特に私が何度も読んでしまうところは、四節「聖者・神への瞑想」です。人によって違うとは思いますが、私は瞑想をする時は自分の理想の姿、つまり聖者や神のお姿に瞑想することがほとんどなので、四節の内容は、とても分かりやすく大きな道標、導きとなっています。

そして何といっても、四節には師ご自身がブッダに瞑想された内容が記されています。なかでも特別に感じている項目は「ブッダその人のハートに集中する」。ブッダがどういう人であったか。師のお言葉を読んでいると、もう師そのものじゃないか・・・と思えて仕方ありません。師のお言葉は本当に不思議なのですが、聞いていると自分も瞑想しているような感じになり、師のお言葉に自然と導いていただけます。

最後に「ブッダその人のハートに集中する」より、師のおことばをご紹介いたします。

 ・・・ブッダという言葉と彼が生存していたシーンに瞑想していきました。
時間と空間を超えて、昔のブッダの時代に集中していった。
そして瞑の中でブッダは本当に最低限度の布を纏(まと)っている姿で佇んでいた、座っていた。
そして朝が来たら徐(おもむろ)に起き上がり、托鉢に歩く。
そしてまた座る。
そして時には多くの弟子や信者たちに教えを授ける。
そういう姿が毎日毎日続いていた。
弟子や信者たちはいろんな質問をする。
そしてブッダはそれに相応しい助言を与え、答えを導き出す。
それを聞いた、教えを授かった弟子たちは皆、とても霊的に引き上げられた。
ブッダを思うと、ブッダの五十年近い教えの姿は何も変わらない。
ブッダそのものは五十年間近く全く同じ姿、同じ境地。
彼は本当に真実の、永遠の存在であった。
そして彼自身が様々な瞑想で得た答えが多くの人に与えられた。
それがブッダの教えというもの。
だからブッダを瞑想する時には、ブッダその人のハートに集中していけばいいと思うよ。
この世界がどんなに変化しようと、いろんな人がいろんなことを言っても、
ブッダは全く乱れることはない。
ずーっと同じ。
それこそが、それが真実の存在の至福にあったということです。
そしてブッダの教えの究極は、「あなたもそれである」ということです。
そう、あなた方一人一人の本当の姿は永遠の存在であり、至福なのだということです。


『マハーヨーギーの真理のことば』

 

ナリニー


ヨーガ・トークス in 東京

先日、東京特別バクティ・サンガムに触れたブログがアップされました。
バクティ・サンガムの後にはヨーガ・トークスも開催されたので、今回はそのことに触れたいと思います。

ヨーガ・トークスには、15名が参加。バクティ・サンガムの講師のミラバイさんを囲み、午前中に開催されたバクティ・サンガムの感想を話すことから会が始まりました。
ミラバイさんと共に座っているだけで、そのプラーナに触れて心が安定するような感じがしました。

ミラバイさんは一人一人の話を真剣に聴かれていました。

発心が揺らぐ場合はどうすればいいのかという質問に対しては、何度も立ち返ることで発心が強くなっていく、と答えられていました。
ヨーガに生きようと覚悟して実践しても、ヨーガではないことをついやってしまう、という悩みに対しては、ヨーガは〇〇をしてはいけない、と制限しているわけではないけれど、それに執着していないかどうかが大切、と話されました。
質問した人はミラバイさんの言葉を聴いてすっきりした表情になったり、笑顔になったり、それは師の元でサットサンガに参加しているのと全く同じでした。ヨーガを学び始めたばかりの人も、久しぶりにヨーガに触れた人にも、それぞれに感じるものがあったかと思います。

私が一番印象に残ったのは、師についてミラバイさんが語られたことです。

グルバイの1人が師のことを話しました。
師がお隠れになった翌月の弟子のサットサンガで、最後にストートラムを歌った時、人の姿をとられたヨギさんにストートラムを捧げることができたことが、いかに吉祥なことであったかを思い知ったと同時に、絶望感、喪失感に苛まれた。

話を聴き終えた後、ミラバイさんはこう仰いました。

師は「存在」という言葉をよく使われた。
存在とは、あったりなかったりするものではない。
目に見えていても見えなくても、確かにあるものを存在という。
師は、真実の存在そのものだった。ということは、師のお姿が見えなくなったから、師は存在しなくなった、とは言えない。
私たちはまだ本当の師を知らないと思う。いつか本当の意味で、師にお会いできるようになりたい。そして私たちが今できることは、師の存在と教えを残して、一人でも多くの方に伝えていくということ、そのために自分ができることを行為していきたい。

一言一言を丁寧に語ってくださる声は、耳から入ってきているのだけれど、直接胸の中に響いてくるようでした。
そしてその目は、真っ直ぐ師を見つめられているように感じられました。
話の内容だけでなく、ミラバイさんの身体全体から力強く伝わってくるものがあり、私もそうありたいと強く憧れる思いが溢れ出てきました。

自分の中にも確かにある真実の存在を信じ、真っ直ぐに師だけを見て、師の教えを生きていきたい、と決意を新たにしました。

 みんな良い笑顔!  

 ハルシャニー  


キールタンの醍醐味 ②東京にバクティ・サンガムが帰ってきた

晩秋のきりりとした空気の晴れやかな東京の朝。待ちに待った「東京特別バクティ・サンガム」の日がやってきました。バクティ・サンガムとはキールタン(注1)を通じて神について学び、愛を高めていくクラスです。歌好きや音楽好きにはとりわけ楽しいひとときでもあります。今回はヨーガの歩みの中で長くキールタンを歌い続け、多くの方々に神の喜びと信仰を伝えてこられた先輩弟子のミラバイさんを京都からお迎えしてのクラスとなりました。あの?!ミラバイさんが「東京で!目の前で!」歌ってくださるなんて夢のようです。当日は嬉しいことに青森、愛媛、大阪、静岡などの遠方からも含め17名の皆さんが参加されました。ミラバイさんの歌声の威力は絶大です。

コロナ禍を経て久しぶりの実開催のためか、東京という少々気取った土地柄のせいか、着座した皆さんからは期待と同時に微かな緊張が伝わってきました。一番緊張していたのは私かもしれませんが……。
ひとたびミラバイさんの声でキールタンが歌われ、追いかけて皆さんの歌声が聞こえてくると、会場はたちまち神様の愛に満たされたかのように暖かい雰囲気に包まれました。
今回はシヴァとクリシュナを讃える歌を1曲ずつ歌いましたが、クリシュナの歌の時には立ち上がって手を繋ぎ踊る方もいて、まるで東京にラーサ・リーラー(注2)が現れたかのように見えました。

私はハルモニウムを弾かせていただきましたが、演奏しながらこんなイメージを思い浮かべていました。前奏に続いてミラバイさんの声が天から聞こえてくる。さりげなく入ってくるナンディニーさんの太鼓はシヴァ神の足音。はじめは軽やかに、そして次第に力強く! 追いかける参加者の皆さんの声が厚く重なってくる。私も歌う!! やがてそれらがひとつになって昇竜のように空に舞い上がっていく。「演奏冥利に尽きるなあ!!」とずっと感じていました。

クラスの最後に、参加された方が「コロナ禍が終わり、こうして皆さんと直接お会いしてキールタンを歌えることが本当に、本当に嬉しい」と涙ぐみながら感想を話されたことがとても印象に残りました。他の皆さんも同じ気持ちだったことと思います。開催できて良かったと心から思った瞬間でした。

個人的には「バクティ・サンガムでミラバイさんの隣でハルモニウムを弾く!」という、初めてハルモニウムに触れた時からの秘かな夢が実現してしまったわけです。神様への愛の強さについて自問自答すると恥じ入るばかりに未熟な私ですが、このような機会が与えられたのは師の恩寵によるほかありません。東京の先輩グルバイの皆さんが、参加される皆さんのことを一番に考え準備されてきた今回のバクティ・サンガムはひとまず終了しましたが、これに留まることなくヨーガの学びに励んでいきたいと思います。今、師の御声が聴こえてきます。
「これがゴールじゃないで」

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最後に参加者のSさんから寄せられた感想をご紹介します。

「日曜日は大変貴重な体験をさせていただきありがとうございました。初めて触れた生のキールタンがミラバイさんによるものだったことはすごく幸運だったのではないかと思っています。美しいお声やお話やお姿全てに深い信仰を感じました。
始めは皆さんを乱さないようにとおっかなびっくり小声でひっそりと歌っておりましたが、ふと歌詞カードから顔を挙げると目の前で太鼓を叩くナンディニーさんの喜び溢れるお姿が目に飛び込んできて目が離せなくなりました。突然熱いものがこみ上げてきて堪えきれず涙が零れてきたのには我ながらびっくりしました。私というより私の内なる何かが悦んでるような、自分ではコントロールできない感覚を覚えました。その後は何でもいいから自由に歌いたくなって声も大きくなっていました。
そして翌日、いつもは起きたとたんに大好きな常連曲が頭をぐるぐる回っているのですが、その中に昨日聞いたばかりのキールタンが時折顔をのぞかせます。今まで見たことのない景色を見せていただいたような、新たな世界への一歩かもという予感と共にキールタンのパワーの大きさに驚きワクワクしています。素晴らしい会をありがとうございました」

(注1)キールタン:インドの神々の御名を繰り返し唱え賛美する歌
(注2)ラーサ・リーラー:主クリシュナとゴーピーが輪になって踊る遊戯のこと

小菅貴仁


『マハーヨーギーの真理のことば』第十三章 瞑想ーー基礎編

私は10代の頃から「早く落ち着きたい」と口癖のようにしょっちゅう言っていました。自分はただ落ち着きたい願望が強いタイプだと思っていましたが、ヨーガに出会い、「自分の中に真実(神)が在る」という教えを知り、「落ち着きのない心が静まってわだかまりのない心境になることで、自分の中に在る真実(神)が自ずと顕れてくるのか」と妙に納得しました。ずっと感じていた落ち着きたい願望は、「自分の中に在る真実(神)を無意識に求めていたからだ」と気付き、嬉しくなりました。そしてそれを実体験したいと思い、瞑想を始めました。
瞑想における心とその奥に在るものについて、『マハーヨーギーの真理のことば』第十三章 瞑想ーー基礎編に説かれているので引用させていただきます。

瞑想の実際的な面として、座って息を調えて心を落ち着かせる、これも簡単な瞑想の一つになりますけれども、経験すると、少々普段の活動とは違う心地良さが伴ってくると思うのです。その心地良さがどこからくるのか、これは私たちの本質として、心の潜在下、奥の方にはもう既にその心地良さのような状態、平安な状態があって、逆説的ですけれども、普段は心の表面の活動によってその平安な状態が現れないでいる。日常の様々なことや行動、あるいは心の様々な想念によって搔き乱されてしまっている。ですから息を調え、静かにすることによって、その上辺の活動が静まって、本来の静けさが現れてくる。

「自分の中に在る真実(神)」に触れたいと瞑想を始めましたが、集中力のなさ、また座法の不安定さに苦労しました。それでも自分の内面を見つめようと努力することに安らぎを感じ、とにかく毎日瞑想するようにしていると、不思議と日常で自分を見失うことが減っていきました。またやり続けていく中で、座ると自然と心が静まることが増えていきました。

ただ、毎日の瞑想が習慣付いてくると、瞑想を深めていく難しさを感じ、それには根気強くこつこつやり続ける熱意が必要だと感じました。そのような時、師は力強く励ましてくださいます。

サマーディは必ず訪れます。それを聖典の中だけの話だと思わないでください。熱心になることです。それだけが必要です。それを十分に準備するためには真理を学び、それだけを求めなければならない。自分は何者なのか、誰なのか、あるいは完全なる存在としての神、そのどちらかに集中していくなら、心の中にあるそれ以外のものは取り除かれていきます。
覚者の命の言葉をよく学んでください。更には、その覚者たちは私たちと全く同じ体を持っていたということを忘れないでください。その具体的実例が、無知とエゴという名の敵に勝つための私たちの最も強い味方であり、武器です。学び、考え、そして瞑想。そして、あなた方は真理を実現するでしょう。
【注釈:サマーディ 三昧。心が消え、対象のみが意識面にある状態】

師はご自身を通して、サマーディは本当に在ると私たちに見せてくださいました。師のお言葉、行為、1つ1つが真実の現れそのものでした。師が与えてくださった大きな導きは、たとえ師にお会いできなくても、この『マハーヨーギーの真理のことば』を通して感じ取ることができます。そして師の境地への憧れが、瞑想への情熱の支えになります。師が与えてくださった大きな祝福に感謝し、これからも熱心に瞑想を実践していきたいと思います。

 

船勢洋子