ヨーガの福音 〜あなたは真剣か〜

皆さん、こんにちは
春ですね。この時期、桜が本当に美しいですね。古来、桜の木は花王と称せられ、国花とされて守られていたようです。桜にはいろいろな種類があり、次々と咲き乱れては、私たちの目を楽しませてくれます。そうした後に、儚げに散りゆく桜もまた美しいものですよね。

さて、お知らせです。長らく絶版になっていた「ヨーガの福音」、みんなが待ち望んでいた「ヨーガの福音」が装丁も新たに再版されました。この書は私たちの師である、サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの珠玉の教えが、シュリー・マハーヨーギー自らの手によって抜粋、編集、製作されたものです。この本はコンパクトなサイズになっていて、バッグの中にいつもしのばせておくことができます。なにげなく開いたその一ページが、今のあなたにとって重要なバイブルとなっていくことでしょう。

ヨーガを学び始めた頃、手にした「ヨーガの福音」、そして最初に開いたページ、そこにはこうありました。

あなたは真剣か 

まだ悟りへの情熱が不十分です。三日でもいい、寝ないで「自分は本当にこの人生で何を望んでいるのか」、「自分自身は一体何なのか」を問いかけてみなさい。生きているということは何なのか、ただ食べて寝て、そして死ぬだけなのか……これこそ恐ろしい話です。私たちは永遠の命なのです。そんな限定された命に満足するはずがありません。そんなちっぽけな人生の成功や失敗を恐れる必要はありません。幸福も不幸も塵ほどにもならない。皆さんは悟りに関して、あるいはヨーガに関しての知識は随分お持ちだと思います。でもまだ実体験は赤子のようです。頭だけでやっているからです。そうではない、悟りは「体得」と言われます。体全体で実現するものです。そう、体がなければ実現できないのです。それが人生の、生まれてきた大きな目的です。悟りにあっては体も心も消えていきます。でもそこまでは役割があるのです。生きざまそのものを、一日一日、一瞬一瞬の生き方を真剣になさい。

              サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

 

「あなたは真剣か」最初に目に飛び込んできたこの教えにどきっとしました。そしてこれは「真剣にヨーガを学びなさい」というメッセージなのだと思いました。私はそれまで、正にここに書かれてあるように、食べて寝て、遊んで仕事して、それだけでいいのかな?他にすることがあるんじゃないのかなと思っていたのでした。そして師と出会い、私たちは永遠の命なんだよ、それを体得することが生まれてきた目的なんだよと教えていただいて、俄然生きていることが嬉しくなりました。他にすることってヨーガだったのね、そっちの方が大事だったのねと思ったのです。「真剣」とは、自分が取り組んでいること、自分の生き方に対して、手を抜かず夢中になること、ひたむきに、真摯に向き合うこととありました。

「あなたは真剣か」この言葉に再び励まされ、私は初心を思い出し、前だけを向いて、ただひたすらヨーガの道を歩んで行こう、そう思うのでした。

ダルミニー


歓喜の春の祝祭! サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー!

2017年4月8日(土)、偉大な主ブッダのご聖誕日に、マハーヨーギー・ミッション主催、
第1回 サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー -神性示現大祭-
が開催されました。

美しい桜の花に包まれたプレーマ・アーシュラマ*には、日本各地、そして遠くはニューヨークと台湾から大勢の人々が歓びを胸に集まり、永遠の真理(サナータナ・ダルマ)と主ブッダを始めとするアヴァターラ(神の化身)のご聖誕を歓び、感謝と誓いを捧げました。
*昨年5月に開設されたプレーマ・アーシュラマは、京都市右京区龍安寺にあります。


きぬかけの路から仁和寺の横を通ってゆるやかな坂道を登っていくと、会場のプレーマ・アーシュラマに到着します。途中、咲き誇る桜の花に包まれます!お二人様ご到着。この日は、仁和寺山門に集合し、散策をしながら団体で来られた人も多くいました。皆歓びを胸に集まってきました。


プレーマ・アーシュラマ全景。アーシュラマと呼ばれるにふさわしい品格を備えています。この日は、洒落た数寄屋造りの門の前にサハスラーラの旗が翻っていました。受付には10人の神の化身が皆を迎えてくださいました。この絵は、20年近く前に弟子の一人が描いたものです。


たくさんの人々で溢れかえってきました。皆笑顔一杯です!台湾からも5人のグルバイ(兄弟姉妹弟子)が駆けつけました。


2階のベランダからは京都市内が一望でき、京都タワーも見えます!桜も美しい!


玄関を入ると、庭に咲いていたサンシュユ(春黄金花)と極楽鳥が出迎えてくれます。外の桜の花にも負けない見事な生け花です!


生演奏の素晴らしい調べが会場を包みます。ハートの奥から喜びが湧いてくるようです!

歓喜に始まり、歓喜に包まれ、歓喜が溢れ出した歓びの祝祭になりました!

一輪の花の中にも真理はあると師は言われます。人の中にも、あらゆるものの中に唯一なる永遠の存在がある。名前も形もない存在だけれど、それだけが在り、その唯一なるものが万物として顕現している!しかし、無知というものがやってきて、人はそれを忘れてしまいます。

アヴァターラは、100%真実そのものが人の形となって顕れた存在です。

真理が衰え、非真理が起こるとき、私は常に自らを顕す。善き人々を救い、悪しき人々をなくすため、そして真理を確かなものとするために、私は時代ごとに現れる。

この主クリシュナの宣言の通り、世が乱れ、真理が忘れ去られようとするとき、アヴァターラたちは地上に降り立ち、人々を救済し、永遠の真理へと導いてきたと言われています。

この日は、ヨーガの伝統の中で登場した主ブッダを始めとするアヴァターラ*について思いを馳せながら、最愛の師、シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの存在と使命を改めて思い起こし、弟子たちの祝辞を捧げました。*主クリシュナ、シュリー・ラーマクリシュナ、ババジ、ラマナ・マハリシ

日頃から熱心にヨーガを実践し、サナータナ・ダルマを行為し続けるヨーギニー、ヨーギーたちの純粋な志に触れ、歓喜が渦巻くように高まり、参加された方は、大いに笑い、大いに泣き、大いに歓喜しました!本当に稀に見る、歓びの祝祭となりました!


吉祥なこの日に発行された『ヨーガの福音』と祝祭の記念品が奉納され、披露されました。師の珠玉の教えが記された美しい装丁の聖なる書籍に魅了され、そしてサプライズの記念品には大いに沸き立ちました!『ヨーガの福音』については、Webサイトでもご注文いただけます。

少しでも当日の様子をお伝えできていれば嬉しいのですが、詳細な内容は、機関誌『パラマハンサ』5月号にてご報告させていただきます。

ありがとうございました。

最愛の師とすべてのアヴァターラに、そしてご参加された皆様、ご賛同くださった皆様に、心より感謝を申し上げます。

ジャイ サナータナ・ダルマ アヴァターラ キ ジャイ!!!

サーナンダ拝


ブラゴパーラ vol.2 「千本ゑんま堂 引接寺」編

「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」

今回は、こわ〜い閻魔様😡がご本尊の「千本ゑんま堂(引接寺)」に行ってきました〜😎🙏

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お香の馥郁な匂いと神秘的な音楽が静かに流れ、何だかインドの寺院を訪れたような、ローカルな雰囲気が醸し出されている境内。
閻魔様は格子戸の奥におられ、入り口は左手にありました。

「閻魔様はあの世の裁判官なんです。だから普通のお寺のように正面が入り口ではなく、裁判所のつくりで入り口は横からなのです」

案内の方がそう話していました。
なるほど、閻魔様は裁判官💡
あんな怖い顔をしているけれど、実は公正中立なお方のようです。

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両脇には書記・検事の司録尊・司命尊がおり、まさに裁判所。

閻魔様は、死者の生前の行ないから来世の行き先を裁決します。
その際に、閻魔帳という死者の生前の行ないが記された帳簿と、それらが映し出される浄玻璃鏡(じょうはりきょう)を用います。

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因果応報の理や輪廻転生を信じない人でも、この閻魔様のお話は不思議とリアリティを感じさせるのではないでしょうか?
ではもう少し、この閻魔様について迫ってみたいと思います。

閻魔様のルーツは、ヤマ神というインドの神様です。ヤマ神は「人類のなかで最初に死んだ人であり、そのため死の国において王となって、後に死んでくる人たちの導きをした」と師から教えていただきました。また、ヤマ神のヤマは制御という意味で、ラージャ・ヨーガで説かれている八支足のヤマ、ニヤマ、プラーナーヤーマ、サンヤマ、これらすべてもヤマ(制御)とのこと。確かにラージャ・ヨーガのメインテーマは心の制御ですよね。
そこで、ラージャ・ヨーガの第一項目の「ヤマ(禁戒)」の教えを見てみると、

⑴非暴力 他者に対していかなる苦痛も与えない
⑵正直  他者に対して嘘をつかず、誠実で正直であること
⑶不盗  他者の何ものも盗まない
⑷純潔  純潔であること
⑸不貪  最小限度の必需品以外を持たず、他者から贈り物を受け取らない

であります。
一見すると、どれも道徳的なことのように思いますが、ヨーガを実践すると、どの徳目も真理に根ざしていると実感させられます。「正直」を取り上げると、正直とはただ単に嘘を言わないという消極的なことではありません。嘘の反対は何かといえば「真理」、つまり真理に生きることが嘘をつかない正直さ・誠実さということになります。煩悩や欲望をもっていれば、それは真理に反し、そして地獄という苦しみへとつながっていきます。「煩悩や欲望は苦しみなので、もたないようにしましょう」と言われても、なかなかピンときません。でも、この閻魔様のお話は少なからず死後の世界や行ないの果報のリアリティを感じさせ、「心の制御」が喚起されます。

私は以前、師から心の制御に必須の「識別」について次のように教えていただきました。

「法律家が法を基準に物事を判断するように、識別は真理を基準に行なう」

もし真理に生きたいのであれば、心に閻魔様のような厳正かつ公正中立な真理の裁判官を置き、心の制御に努めたいですよね。それこそが苦しみから解放される、本当に楽しい人生だと感じます。

「閻魔様って、人々が苦しまないように真理に導いてくださっていて、本当はいい人なのでは?」
😡⇒😇
このように閻魔様の印象がチェンジした今回のお散歩でした。

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日本では、お地蔵さんの化身が閻魔様と言われています。

※新しいタイトル「ゴパーラが行く」が不評だったため、「ブラヨーヘイ」を引き継いで「ブラゴパーラ」にします……今後ともどうぞよろしくお願いします🙏

ゴパーラ


もうすぐ……

4月8日に第一回、神性示現大祭ーサナータナ・ダルマ アヴァター メーラが開催されます。

いったいどんな大祭になるのか、今からとてもとても楽しみです。
そんな私ですが、実はこの大祭が開催されると聞いた時は、あまりピンと来ず、何をお祝いするのかな〜と思っていました。「サナータナ・ダルマ——永遠の真理」という言葉はヨーガの教えの中で何度も聞いています。でも言葉を知っているだけで、それが何で、今の私とどう関係しているのか、そのことをしっかり考えたことがなかったのかもしれません。

先日ヨーガのクラスを受けていた時にふと感じたことがありました。

毎週クラスに通い、ヨーガをしていることがあたかも当たり前のようになってきているけれど、ヨーガを始める前の私と今の私を比べてみれば、まったく違う人間になっている、何を軸に、何を最も中心にして生きているかということを見ればそれはあきらかだと思いました。その自分を貫いているものとは、ヨーガです。そして言葉は違いますが、それこそが「サナータナ・ダルマ——永遠の真理」なのだと気がついたのです。
それと同時に当たり前のようにその現実の中にいるけれど、それは当たり前のことではなく、本当に本当に希有で吉祥なことだと感じたのです。

永遠の真理は、永遠というからには、なくなることはなく、これまでにもずっとあり、これからも永遠にあり続けるもの。こちらが気付かなくても、それはあり続ける。そしてそれがあり続けているからこそ出会うことができる。

でも見えない真理をどうやって知ることができたのか……

それは不滅の真理を具現化したアヴァターラたちが時代時代に現れ、見えない真理を私たちの分かる形で生きてくださったからではないでしょうか……そう思うとこれまで生きて、永遠の真理を伝えてくださったすべてのアヴァターラに感謝する気持ちが胸の内から自然と溢れ出てきました。

その感謝の気持ちとそれを知った歓びを、今、一緒にヨーガをしている仲間と捧げることができるなんて!!!何と喜ばしいことなのでしょうか。
永遠の真理とそれを具現化したアヴァターラたちに思いを馳せ、大祭が来る日を心待ちにしています。
御室仁和寺の桜


一切は神

今回は、ラマナ・マハリシの「沈黙の聖者」をご紹介いたします。

インドの聖者であるラマナ・マハリシはその生涯をアルナーチャラという聖なる丘で過ごされました。インドの聖地の中でもアルナーチャラは最も聖なる場所、シヴァ神の秘められた聖なるハートの中心であるとも表現されています。そしてアルナーチャラにはさまざまな動物が住んでいて、この本の中でもたくさん紹介されています。

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いちばん有名なのは雌牛ラクシュミーの逸話です。子牛のラクシュミーは、毎日シュリ・バガヴァン(ラマナ・マハリシ)のところへやってきては足元に頭を垂れていくのでした。また牛小屋の定礎式のときにはたいそう喜んで、シュリ・バガヴァンを迎えに来たりしました。たいへん利口で気の利いたラクシュミーが亡くなった後の墓碑銘には、タミル語で「雌牛ラクシュミー、ヴィシャーカ星座の下で解脱したことをここに記す」とあります。そしてたくさんのお猿さんたちもアルナーチャラには住んでいました。猿たちがシュリ・バガヴァンの前にサマーディの状態で坐り、瞑想の手ほどきを受けている様子も書かれています。また白い孔雀も登場します。このときシュリ・バガヴァンは、これは混じりっけのない純白、グナの混合をもたないスッダ・サットヴァ(純粋の自己)を意味すると言っておられますが、その前を得意そうに通り過ぎる孔雀の写真が載っています。また三日間、同じ枝に止まり続けたカラスの話も出てきます。シュリ・バガヴァンに会いにきたこのカラスは、待ち望んでいたかのように主の手のひらの上で死んでいくのでした。他にも虫や、犬や蛇などたくさんの動物たちがラマナ・マハリシと一緒にアルナーチャラで暮らしていたのでした。その中には高貴な魂の動物たちもたくさんいたのでしょうか。ラマナ・マハリシはすべての動物たちに対して、本当に分け隔てなく接し、共に暮らしておられたのだなと思いました。

師は説かれます。

「ヨーガ行者たちがどのように社会と対処していけばいいのかといえば、すべて平等に接していくのがいい。すべては尊いアートマンなる存在、神なる存在なんだから、その真理を心得た上で丁重に接する、優しく接するということが基本になります」

「結局のところ、実存という、真実在として在るのは真理であるアートマン、あるいは神という存在だけです。形が千差万別あったとしても、そこにあるのは一つの真実だけです」

「ヨーガやあるいは神について学んでいけばいく程に、神は打算がない、そして駆け引きもない、そしてヨーガが教えるところはすべてが神でありアートマンである。単純にその思いだけが心を占めれば、さまざまな出来事の中に自ずと謙虚と感謝が生まれると思います」

 日本にも山を、神がいる場所、神が降臨する場所とみなすような山岳信仰がありますよね。それを思うとラマナ・マハリシがアルナーチャラという丘に住み続けておられたことも、私たち日本人にとっては、なんら驚くべきことではない、素直に受け入れられる出来事なのではないでしょうか。そして京都の町中の至るところにたくさんのお地蔵さんがおられます。日本古来の宗教である神道は「一切は神である」という考えを持っていますが、神々が住むこの日本に、そしてここ京都に、真実を説かれる私たちの師がお生まれになったことも、なんら不思議なことではないのかもしれないと思うのでした。

ダルミニー


京都・春の瞑想1日ワークショップ

瞑想専科
京都瞑想専科の風景。キャンパスプラザ京都の和室は都会の中の落ち着いた空間です。

始めの頃は5分と座るのが苦痛だったのに、いつの間にか、10分、15分、30分と座れていくものですね。不思議な事です。

眠くなることも、雑念に終止することもなく、心は落ち着きを取り戻し、集中していきます。

毎日の積み重ねです。

ヨーガの精密な心のカラクリや神秘的な生理学、人間らしい生き方や理想についての教えも、最初はよくわからなかったものが、だんだんと慣れていって、わかってくるのも不思議な事です。

10月から始まった京都瞑想専科第1期は、今週3月30日に終わります。半年間共に学ぶと、気が通い合うようになることも不思議な事です。

でも、不思議な事ですが、普通の事のようにも思います。習うより慣れろですね。

第2期は、「日常を変えていく」をテーマに、日常生活の中での様々な疑問や課題を通して、瞑想を深め、心と行動を調えていく内容にしていきたいと思います。生活=生きるというところに、瞑想の秘訣があるように感じます。命の働きを知るということでしょうか。

心が変われば日常が変わり、生命の神秘を感じるようになっていくのだから、何とも不思議な事です。

4月23日には、瞑想1日ワークショップがあります。気軽に瞑想を体験してみましょう!

サーナンダ


ヨーガの秘訣・大阪編・・・ヴィヴェーカーナンダの詩

めっちゃ忙しい人がどうやって日常でヨーガを行なっていくのか。
その実践的秘訣を、大阪で家事に仕事に忙しくしながら、プレーマヨーガサークルをされているスディーティが寄稿してくれました。


この数年、私の周囲は何だか忙しい。それは、今までの生活を突然大きく変える必要に迫られるようなことでもあり、一般的に言えば「次から次へと大変やね~」みたいな状況でした。実際、もし自分がヨーガに出会っていなければ、いちいち大パニックになって悲劇のヒロイン気取りになっていたかもしれません。
そう、その時、確かに私はヨーギニーとして、やってくる出来事を淡々と受け止め、その時最善と思われる方針を決め、一つひとつ行動に移していったのです。すると、色々と困難なことが起こっているとは思えないほどスムーズに事が運び、「は~、ヨーガのお陰やわ。私も結構成長してるやん~!」といい気になっていました。

しかし!出来事を受け止めて方針を決めるのと、実際に一つひとつ実践していくのは大違いなのです。「ちょっと~!わかってたけど、やってみたらめっちゃ大変や~ん」なのです。まず時間がない、家族は色々と問題を起こしてくれる、慣れない仕事では自分の無能さに改めて気づかされる、毎日へとへとになって1日を終えることで精一杯と感じていました。いつも何となくイライラして不機嫌で、アーシュラマでヨギさんにお会いできる時だけがすべてを忘れ満たされている時間でした。ヨギさんは、いつも私たちと一緒にいると言ってくださっているし、それが真実だと分かってはいるけれど、その時の私はそれを感じることができず、「余裕がないんです!もう目いっぱいなんです!」と叫び出したくなるときが度々ありました。

それでも私がヨーガから離れてしまわずに済んだのは、一つには〝プレーマヨーガサークル〟があったからです。私には、サークルに来られる方にヨギさんのお言葉を間違いなくお伝えする責任があったし、何よりそこには仲間がいました。心おきなくヨーガの話ができる仲間との時間は、私にとって大きな支えとなりました。元々は一人でも多くの人の助けになるためにヨーガをお伝えしなくては!という思いで始めたサークルでしたが、助けられているのは私のほうだったのです。

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プレーマヨーガサークルでのバクティ・サンガムの様子

もう一つには、グルバイである先輩ヨーギー・ヨーギニーの存在がありました。先輩たちに私の状態を話すことはなかったし、頻繁にお会いできるわけではなかったけれど、知ってか知らずか、いつも少しの会話の中に〝はっと〟させられることが何度もありました。また、何も会話をすることがなくても、直接お会いするわけではなくても、その在り方を見るだけで心がリセットされまた新たな気持ちでやり直そうと思わせてくれる存在でもありました。

そして、上の二つの理由にも増して大きな一つが、師であるヨギさんの存在です。
私は、ヨギさんにお会いして弟子にしていただいて以来、ただひたすらヨギさんの喜ばれる様子が見たくて熱心にヨーガに取り組んできました。ヨギさんが最も喜ばれること、それは私たちが〝本当の自分に目覚める〟こと。そのために、ヨギさんが私に言われたことは「常に神を思う」ということです。それは私にとっては本当に進みやすい道で、いつも胸の奥のヨギさんを基準に物事を決断し、歩んできました。ヨギさんの弟子であるということは、私はヨギさんのものであるということだと思いました。ヨギさんのものである私の面倒はすべてヨギさんが見てくださっているのだから、何がやってこようとそれは私にとって必要なことだし、そのことについて私は何一つ余計なことを考える必要なんてない。ただその時その時最善を尽くせばよい。その考えは私を強くし、目の前で起きる出来事に振り回されることなく進んでくることができたのです。それがどうでしょう!ここ数年、押し寄せてくる出来事に踏ん張りがきかず、たった一つのことさえままならなくなっていたのです。それは本当に苦しい時間でした。ヨギさんにお会いしたい!と思う反面、今の自分ではヨギさんを喜ばせることができない……という思いが湧いてきて、お会いすることをためらう自分がありました。

そんな悶々とした時間を過ごしていたある頃、私にとって大きな出来事が起こりました。それは、私がヨギさんのものとして相応しく生きているかどうかを問われるような出来事でした。その時も、私が自分自身の行く末を心配する気持ちは少しも起きなかったのですが、その問題を起こした人に対してどう対応すればよいか、その対処の仕方を間違えてしまえばその人の今後に大きな影響を与えるかもしれない、という思いもあり本当にどうしていいかわからず途方に暮れました。最初は腹立ちや悲しみのような感情もあり、数日間そのことが頭から離れず、「ヨギさんのものとして相応しくあれますように」と祈りながら、必死でヨギさんに問いかけ、すがり、答えを待っていました。

すると2日後、急に「みんな苦しんでいるんだ」という思いがやってきました。それと同時に、ヨギさんならこの人たちの暗闇に光を投げかけてあげることができるのに、私はヨギさんの弟子でありながらこんなに近くにいる人たちを助けてあげることもできないんだ!という事実に気づかされたのです。それは言い換えれば、一刻も早く苦しんでいるこの人たちのために、私はヨギさんと一つにならなければならない、ということなのです。一刻の猶予もない!という焦りを感じ、自分のことを情けないと思っている時間さえないのだと思いました。
そうして改めて気づいたことは、ヨギさんは「〝常に〟神を思いなさい」と言われたということ。〝常に〟はあくまで〝常に〟であって、〝できる範囲で〟とか〝都合の良いときだけ〟ではないのです。そうして振り返ると、今までの自分は熱心に実践しているようでいて、隙だらけだということにも改めて気づいたのです。もっと隙なく、もっと注意深く、もっとやれる……と。

それ以後も私の状況は特に変わることなく、むしろ叫びだしたくなっていた頃より忙しくなり、周囲の人たちも相変わらず問題を起こしてはくれますが、それらのことは以前のように私を苦しめる力を失ったようです。そんなことよりも、私は周囲の人たちの苦しみを取り除くために、一刻も早くヨギさんと一つになり、ヨギさんを愛するように、ヨギさんが私たちを愛してくださるように、この人たちを愛したいのです。

われ汝について何も知らず
知れるはただ われ汝を愛すということのみ
汝は美し おぉ 汝は美し!
汝は美そのものなり

おぉ 愛しき者
汝の唇のひとつのくちづけよ!
汝のくちづけを受けし者は
汝を慕う心 とこしえにいやまさん!
すべての悲しみは消え
来し方
今 行く末を忘れて ただ汝のみを思う

誰が救いを願わん
誰が救わるることを願わん
解脱をも誰が願わん
われ富を欲せず 健康さえも欲せず
われ美しからんとも 賢からんとも願わず
数多度(あまたたび)生まれさせ給え
この世の諸々の悪の只中に
われつぶやくことなからん
ただわれをして汝を愛させ給え
愛のための愛もて

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ
『愛の叡智』より

この詩は、5年ほど前にミラバイさんがスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの美しい写真と共にカードにしてくださったものです。それ以来、毎日仕事に出かける前にこの詩を唱えています。最初はその美しい詩を唱えることで心を静めようとしたのか、集中させるために行なっていたのか、はっきりと覚えてはいないのですが、いつの頃からかこの詩は私の生きる理想になっていました。「どうか、こうして外から内に向かってこの詩を唱えるのではなく、止めようとしても内から溢れ出す私の言葉となりますように!」と。
そして、今、また新たに強く決意するのです。それを遠くない未来に必ず実現するのだと。

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スディーティ


松山ヨーガ・サークル 瞑想特別クラス7回シリーズ

3月20日は春分の日でしたね!松山ヨーガ・サークルのアーナンディーです。

松山ヨーガ・サークルでの瞑想特別クラスも3年目を迎え、今年はヨーギーの生き方に学ぶ7回シリーズが2月から始まり、3月18日に2回目がありました。講師はサーナンダさんです。
今回は34名(男8名、女26名、初参加5名)の方が参加されました!
サーナンダさんが「来週は春分の日ですね。昼と夜のバランスがとれているので瞑想しやすい季節です。この頃からヨーガを始めると成就するといわれています」と優しく柔らかい声で話された時、まるで会場に春が呼び込まれたように一気に和やかな雰囲気になり参加者の皆さんが希望で胸が満たされたのが伝わってくるようでした。

瞑想 (1)
おさらいで瞑想の基本を教わり皆で10分ほど座ります。

瞑想のあと、いよいよ本日のテーマ「無執着の生き方」の本題に入っていきます。
全部ご紹介したくてムズムズするほど本当に面白い内容だったので長くなってすみません!
要点としては
1、 ヨーガの極意は執らわれないこと
2、 無執着の秘訣
3、 ヨーギーの日常
という流れでヨーギーの生き方をわかりやすく紹介してくださいました。

最初の導入としてサーナンダさんは十八番のシュークリームを事例に話されました。
「たとえばシュークリームに執着するということは自分がシュークリームの奴隷になっているようなもの。そんな人生、嫌ですよね(笑)しかもたとえばカスタードクリーム系にこだわりがあるとします。するとカスタードクリーム系シュークリームしか食べられなくなる!不自由だと思いませんか?美味しいスイーツがたくさんあるのに、それしか食べられないなんて。なぜ、それにこだわるかというと、たいしたきっかけではないんですね。たとえば好きな人が生クリームとカスタードクリームのダブルシュークリームが好きって言ったらすぐに変わるでしょ?(皆爆笑)そうやって心って変わっていく。こだわりがある方がかっこいいと思いがちですが、心がこれが美味しいと幻想のように執らわれているんです。執らわれ=不自由です。でもヨーギーは執らわれがないから、空っぽで自由自在。何でもできるし何もしないでもいられる。シュークリームを趣味や仕事や考え方、生き方などに置き換えてみればいいのですが、いずれにしても執らわれが自分を不自由にしているのかもしれません。
では、意見や志は必要ないのかというと、自分の意見や志は大いにもつべき。ただ、こだわらないだけです。そうすると違う意見や志も尊重することができる。自分の意見も大事にするけれど、他の人の意見も大切にできる」

サーナンダさんはさらに、よくある日常的な事例として、嫉妬、卑屈、思い込み、過去の記憶など心を乱すものがどのような執らわれによって起こるのか、そしてヨーギーのあり方はどうなのかをひとつひとつ話されました。
最初はシュークリームの事例で他人事のように大笑いしていた皆さんもだんだん、ああ、こんなにも執らわれていたのかと気付かされ、次第に真剣な質問がたくさん続き、サーナンダさんの明快なお答えに唸ったり、考え込んだりしました。

私がとても印象に残ったのはサーナンダさんの次の言葉です。

「無執着の別名は無一物(むいちもつ)です。腹の中に一物もない。腹=心のこと。先ほどの嫉妬などの事例は腹に一物があるということですね。いろんなものが何にもなくなった時が無一物です」そして終盤に話された次の言葉です!「空っぽじゃないといけない世界があるんです。一物をもっていると真理にたどりつけない。物にしても考えにしても、悩みにしても、何かに執らわれていては見失ってしまう。真理は無限の喜びといわれます。ハートに無限の喜びがある人は何にも執らわれないのでしょう」

このように誰もがヨーギーの生き方に理想を抱き、憧れをもって近づけるように励ましてくださいました。参加者の皆さんの声を少しご紹介します。

  • 心のあり方としての無執着について事例をあげていただき、より具体的に理解できた。そもそも条件付きで物事をみてそこに価値を見ていた。真理に沿った心のあり方、無執着に向かってサットヴァ(軽快)になっていきたい。
  • 自分自身、レッテルを貼る。感想を持つ。違いに執らわれる・・・すべて当てはまり茫然自失。でもブッダの憂いを離れた境地に瞑想するというのを今日初めてやってみたところ少しだけ感じられた気がして心地よかった。

サットサンガ
翌日のサットサンガも大変充実した時間で「理想を明確にするには?」「謙虚について」「依存から抜け出したい」など実践に基づいた熱意のある質問ばかりでした。
土曜日の講座と関係する質問でサーナンダさんのお答えで印象的だったものをひとつだけ紹介します。昨日の講座を聞いて、違いに執らわれないということは何となくわかるが、実際なかなか思うようにいかず、いつも執らわれてしまい、全然変わらない。どうすればいいのかという真剣な質問者の問いに対して、サーナンダさんは少し考えられ、次のように話されました。

「本当にカルマの力って強いんです。ヨーガを始めた最初の頃や、聖者にお会いした時、大きな衝撃を心が受けてカルマの力が弱まるということが起こります。やっていけそうな気がします。でも放っておくとカルマの力がまた盛り返してくるかもしれない。心が円柱だとしたら、日常で顕在している心は円柱の上の部分だけですが、心の大部分は潜在下にあると言われています。1回や2回教えを聞いて頭では理解できても、それは表層部分の話で、心は潜在下では全然納得しておらず、カルマの影響を受け続けているかもしれません。少しばかり瞑想しても、心全体をすぐさま変えることは難しいのです。だから繰り返し繰り返し理解を育んで実践して体得していく必要があります。しかしそれでも、潜在下ではカルマの掃除が進んでいるんですよ。それが自覚できるほど表層に変化が表れるには少し時間がかかります。
今はまだ変化していないように感じるかもしれませんが、実践していけば、いつの間にか執らわれはなくなっていきます」

サーナンダさんの謙虚さと誠実さを感じた濃密な2日間。そこには常に師であるヨギさんを見倣う姿がありました。
そして敬愛するヨギさん、さらに熱意を込めて実践を続けることで感謝に代えさせていただきたいです!いつも本当にありがとうございます。

アーナンディー


クリヤヨーガ

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

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パラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』には、「クリヤヨーガ(実行のヨーガ)」という教えが際立っていることは、本を読んだ方なら誰しもが感じるところだと思います。しかしながら、その内容は「秘法」ということで、開示されてはいません。
では、なぜクリヤヨーガは秘法とされているのでしょうか?
今回のサットサンガでは、クリヤヨーガの秘法たる所以(ゆえん)が明らかにされました。

サットサンガの前半、真理の教えを実践しようとするも、日常の思いや行為がなかなか変えられないという質問が続きました。師はそれに対して、「本当に生きているという意味とは何なんだろうと。誰が生きているのか。そういう根本的なことをもっと真剣に捉えないといけない。それはすぐには理解できることではないかもしれません。それでも自分自身にそれを問いかけていくことが大事です」と述べられ、この人生の命題の答えを見つけるには「訓練」――アーサナはもちろんのこと、ヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)といった日常における心の働きの訓練――それが最も大切で、その訓練によって瞑想の土台がつくられると説かれました。
会の終盤からは、ブラフマチャリヤ(純潔)の実践など、ヤマ・ニヤマに関する質問が続き、『あるヨギの自叙伝』を読み返しているというゴーパーラが、「クリヤヨーガは秘法といわれていますが、やはりヤマ・ニヤマのところが大きいですか」と質問する。

「大きいです。ヨーガは特にクリヤヨーガ――クリヤというのは実行するとか実践するとかいう意味合いです――実践的ヨーガ、実行のヨーガというふうに訳されるでしょう。そこでは毎日実行すべきものとして、聖典の学習、それから何らかの肉体をともなう修行、訓練、そして神への祈念、瞑想、その三本柱を特に取り上げてクリヤヨーガというふうにいっています。ヨガナンダが本の中でクリヤヨーガというものを初めて西洋に紹介をしたのです。ヨーガそのものを具体的に実際的に紹介したといってもいい。教えとしてはヴィヴェーカーナンダがその先駆であったけれども、それをより実践的なかたちで、つまり弟子たちを育てていくという使命を担ってアメリカに渡ったわけです。その中でヨーガというものをより実際的にしていくためにクリヤヨーガという言葉を使ったのだろうと思う。単なる知的な理解だけではなくて、ヨーガを実践していくという、実践することがヨーガですよということを、みんなに実践を求めた。それだからクリヤヨーガという教えがひと際、あの本の中で際立っている。内容はさっき言った三つの柱を中心としていますが、その毎日肉体をともなう何らかの訓練、修行という意味はアーサナやプラーナーヤーマも指しますし、それからヤマ・ニヤマにおける行為のあり方、これも含んでいるのです。それもあって実践、実際的実践になるわけですから。そして、あえて本ではつまびらかにそれらの内容を教えなかったことには理由があって、これはやはり本当に求める者でないとそれを実践できないから。単なる興味本位の知識としてそれらを知ることでは何の意味もない。だからその真実というもの、真理というものに並々ならぬ関心を抱いて、そしていわばヨガナンダの弟子となり、悟りを求める、実践を行なう者たちに初めてその内容が教えられていくという、そんな手順だったと思う」

ヨーガとは知的理解ではないクリヤ、即ち実行・実践であり、そしてそれを可能にするのは、真理を求める並々ならぬ思いである――
最後に師は、純粋な求道者の象徴ナチケータスについて説かれます。

「以前、『アムリタ――不死ーー』という聖劇をみんながやってくれたのですけれど、あの中でナチケータスという少年が死神の下に送られて、死神から真理を教えられるというくだりがありました。ナチケータスが死の国に行った時に、たまたま死神が不在で、三日三晩待っていたという逸話があります。その三日三晩というのは伝統的な習わしなのです。これは仏教の方にも伝わっていまして、禅宗なんかでは弟子入り、入門をしようと思えば、三日間門前で待っていなきゃいけない。つまり、その者の真剣さというか熱意とか本気とか、そういうものが試されるわけです。そうして三日を過ぎて初めて入門という門を入ることを許される。そんなふうにクリヤヨーガもそういうところを表しているんだと思います」

秘法とは隠されたものではない、求める者の真剣さによって開示される!
どんな状況でも、どんな誘惑がやってきても、ナチケータスが死の秘密という真理だけを求めたように、その門戸をノックし、神だけを叫び続けることができるか?
切に真理だけを求める真剣さと日々の実践、それこそがヨーガの秘法であると学んだサットサンガでした。

ゴーパーラ


ヨーガの料理クラス さまらさの台所

3月12日(日)にパラマハンサ会員向けさまらさの台所がスタートしました!
今回は会を担当してくれたサティーから報告をしていただきます。

今回のメニューは、春野菜のポトフ、マカロニサラダ、プレーンオムレツと旬の春野菜をふんだんに頂ける彩り豊かな一膳です。春野菜のポトフはじっくりコトコト煮込んでいると野菜のうまみが出てコンソメなしでも充分においしくできます。素材の持つおいしさがたくさん詰まったスープの自然な甘みにみなさんビックリされていました。

ポトフ

また今回は台所全体を「素材を生かし切る」というテーマを元に調理やお話を組み立てました。私は日々料理する中で、野菜を使い切れなくて悩んでいました。それを解決したくて、1つの野菜で様々な料理法を学びたいと思い、春キャベツを1つ丸々頂けるメニューを色々試してみました。

私のキャベツのある生活 キャベツとの生活

キャベツといえばこのメニューといったような固定概念があると気づいたとき、同じように日常の仕事でも役割へのこだわりがあり、それを取っ払うことで的確な仕事ができることに気づいたことをお話させてもらいました。

これまでの経験や知識による固定概念に縛られずにアイデアを出して料理していくことの自由さや楽しさを学び、最後までフレッシュに保存しおいしく頂くことで、改めて素材への感謝を感じました。

お話2

参加者にも事前にテーマについて意識して日常の料理に取り組んできて貰いました。

「冷蔵庫の中が整理され、生活において本当に必要な食事の量も分かるようになった」

「とりあえず買っとこうと野菜を買う傾向があることに気づき、料理以外の日常においてもとりあえず置いとこうと放置している物事があることに気づいた」

など、様々な気づきを発表してくれました。料理を通じて気づいたことが、日常の行為も変え、生き方そのものも変えていく。これが正にさまらさの醍醐味なんじゃないだろうか!と感じて嬉しくなった1日でした。

食事
サティー