もっと知りたくなったイスラーム展

今日はこの間の続きではなく、先週東京に行った時のことを書きます。東京には研修で行ったのですが、帰りに近くの東洋文庫ミュージアム(文京区)で開催していた「もっと知りたいイスラーム展」を見に行きました。ここは、アジアの歴史や文化に関する東洋文学の研究図書館(東洋学分野での日本最古・最大の研究図書館であり、世界5大東洋学研究図書館の一つ)である東洋文庫さんが開設された博物館です。建物はとてもシンプルなんですけど、中に入ると見る人が展示の世界に引き込まれ、そこに静かに浸っていられるような空間を提供してくれます。そして展示の内容も魅力的です。今回は話題のイスラームについて。イスラームの誕生から預言者の意味、歴史や宗派生活規範、イスラーム原理主義にいたるまで、様々なことが書物や絵などを用いながら説明されています。日本との関係も。日本にイスラーム世界の情報が入ってきたのは19世紀以降ですが、西アジアとの交流は600年代の書物からも断片的ではありますが見出せるそうです。室町時代には、相国寺の僧侶が中国から連れてきたアラブ人が京都に住んでいたという記録も残っているとか。

そして何と言っても今回私の心を打ったのは、イスラーム教の聖典『コーラン』です。より正確には「クルアーン」と発音するそうですが、14世紀に現在のシリアで書写されたアラビア語の『コーラン』が展示されていて、それが本当に美しい!!でも、それにも増して美しいのが(私の個人的な印象です)、ペルシャ語の『コーラン』です。ガラスにへばりついて見てしまいます。文字ってあんなに綺麗なものなんですか⁉でも、『コーラン』は預言者ムハンマドに授けられた唯一の神アッラーの言葉(啓示)をまとめたものであり、その預言はアラビア語で授けられたため、神の言葉を置き換えるなどということは許されず、『コーラン』をアラビア語以外に翻訳するということは長らく禁じられていたそうです。今ではできるようになりましたが、それでも「アラビア語以外の言語で書かれたものはコーランとはいえない」という考えは変わらず、他の言語で書かれたものは『コーラン』そのものではなく、「コーランの注釈書」とみなされているようです。『コーラン』とはアラビア語で「誦まれるべきもの」という意味であり、礼拝の時にはアラブ圏以外のイスラーム国の人々も暗記したアラビア語のものを暗誦するそうです。しかし、文字があんなに美しいと感じたのは生まれて初めてでした。きっとアラビア語やペルシャ語の文字が美しいのでしょうが、各節の区切りを示す金色の花や、発音の注意点を書き加えた赤い記号もまた、『コーラン』の美しさをより際立たせているのではないかと思えます。

イスラームとは、神に帰依するという意味のアラビア語だそうです。『コーラン』の中にはどんなことが書かれているかはよく知らないのですが、神を求めた人たちがイスラームによって神に至る道を見い出し、それを守り伝えようとした、そんな彼らのひたむきな思いに触れ、共に神に向かいたいという気持ちが掻き立てられました。

近くに行かれた際には、足を運んでみてくださいね。

イスラム展

ユクティー


アーサナ・瞑想クラス

こんにちは、昨日のアーサナ・瞑想クラスの様子です。

アーサナ瞑想クラス ハラアーサナ

アーサナ瞑想クラス マッチェーンドラ

まだまだ寒い日が続いていますが、時折、日差しに春の気配を感じるようになってきました。
最近、クラスでは体験に来られる方が増えているように感じます。
昨日は初参加の方が2人来られていました。春を間近に、何か新しいことを始めよう!という気持ちになるのかもしれませんね〜。初めて参加された方も、クラスの始めには少し緊張されていたようでしたが、クラスの終わりにはリラックスされ、とても集中してアーサナをされていました。
2時間のクラスの中で、呼吸とともに心がどんどん落ち着いていくのを感じました。

このクラスは、4月から体験コースになります。ぜひこちらにもご参加ください。

サティヤー

 


ヨーガの実践「他者だけのために行為する」

皆さん、こんにちは、ダルミニーです。

先日職場で、上司から注意を受けました。

「もっと相手の立場に立って、仕事をするように」

なんということでしょう。このエゴと無知を無くすためヨーガを実践しているはずなのに、相手の立場に立って仕事をするように心掛けていたはずなのに、この言葉は私の師からいただいた教えのように私の心に響きました。

エゴとは自分中心に物事を考えることです。自分がいちばん心地良いように行為することです。無知とは以前にも言いましたが、この世の中に対する誤った見方です。永遠でないものに永遠を見ること、浄らかでないものに浄を見ること、幸福でないものに幸福を見ること、私でないものに私を見ることです。

私は素直に反省し、今後も気を付けますと伝えました。すると上司は言いました。

「これはとてもいいことなのだ。これを機会に改善できればいいことだし、これはあなただけのことではなくて、みんなの意識がもっと高くなっていってくれれば嬉しい」

なんと、これも私の師から教えられたような気がしました。それから上司は引き続き、

「あんまり相手の言うことを聞きすぎると、大変なことになることもあるから、その点は注意して」

なんとも、そのへんの境界が難しいものです。しかしインドの聖者の方々は、一切の自分というものを無くして、他者だけのために行為されています。本当に高い境地におられるのですね。自分というエゴ意識が全くない状態、それが本来の理想の人間の姿なのでしょう。

『ヨーガ・スートラ』に「心の作用を止滅することがヨーガである」とあります。心はいつも外界の刺激にさらされて、ああでもない、こうでもないと右往左往しています。そしてこの心と身体を私だと思い、その私を満足させるために心を働かせています。心の作用を止滅させるということは、そういった心の動揺を少しずつ静めていって、そうして不動の状態に留めておこうとするものです。

しかしそれは並大抵のことではありません。私たちは本当に大きな仕事に立ち向かっています。この困難な仕事を推し進めるためには、日々の実践と大いなるものへの憧れ、具体的に思い描く理想の姿への憧れが大切なのだと思いました。どうありたいのか、どうなりたいのか、自分の未来の具体的な姿をイメージし、その姿に近づいていけるよう努力することが大切なのだと思いました。

その話のあとには続きがあります。私はその日、上司から注意を受けたのでちょっと元気がありませんでした。しかしその夜、私は大いに人から感謝される夢を見たのです。

師から、「この世の出来事は夢のようなもの、早く夢から覚めなさい」と教えられています。全く真反対のその夢を見た時、本当は何が現実なのだろうと思いました。本当のこと、真実ってどこにあるのだろうと思いました。でもその時に一条の光のように差し込んでくるのが師のお言葉です。

「誰もの中に真実があります。それこそがリアリティです」

師の教え、ヨーガの教えが私の生きる支えです。今日もまたむくむくと勇気がわき起こり、本当の自分、真実のために生きて行こうと元気いっぱいになる私なのでした。

みなさん、日々お仕事大変でしょう。ご苦労様です。日常生活の中にこそ、ヨーガを実践する場所があります。ヨーガの教えにそって日々の生活を送ることこそが、この世間という大海の荒波を渡っていく大切な智慧と力になります。ヨーガという大船に乗って、みんなでこの大海を渡りきりましょう。

またクラスに来てくださいね。待っています。

 ダルミニー


次の瞬間に死んでもいいという生き方

死をなぜ、どのようにして受け入れ始めるのか。私の経験をもとに書いていきたいと思います。それは、症状が進むにつれ、死が近いことを見せつけられるからです。どれほど否定しても、心で誤魔化して死を見ることから目を逸らそうとしても、それが簡単に打ち砕かれるほどの現実を突きつけられるからです。簡単に言えば、症状の悪化を日に日に感じるようになるということであり、それに耐えきれないようになっていくということです。それは、死を自ら受け入れるというよりも、有無をいわせず、手の中に投げ込まれるという感じです。もう、どこにも逃げられない、そう思った時、絶望という鉛のように重く、黒い闇が自分の心を支配するようになります。それとともに、この状況はどんなに近しい、自分を愛してくれる家族や友人であっても、誰も助けることはできないということ、例えたくさんの人に看取られたとしても、現実に死を迎えるのは自分だけであり、孤独の中で死ぬしかないのだということを痛感させられるのです。

だから、死に抵抗しようとする無駄な心は、剥がれ落ちるように離れていきます。諦めですね。完全に諦め切れるということは、無いのかも知れませんが、少しずつ、現実の進行と共に、心もそれに付いていくようになります。まだ、自分にはやり残したことがあり、それが達成できない悔しさがあるかも知れない。自分が去ることで、この世に残していく愛する人を不憫に思う悲しみが死の受け入れを阻むかも知れない。でも、死は、そんなものはいとも簡単に打ち壊してしまいます。

そして神は、死を前にした私たちの内に、熱心な問いかけが生まれるのを待っているのです。なぜ自分がこの世に生まれたのか、なぜこうして死んでいかなければならないのか、という普遍的な問いかけを。この神秘的な、でも人として生まれてきた根本的な問題について、私たちは自分の力だけで本当の答えを見つけ出すことは難しいのです。でも、もしその探求が自分の命を捨てるほどに熱心になされるなら、死という運命すら変えてしまうかも知れない。死を前にして命を捨てるというのも不思議ですが、実は、この人間的探究がもたらす力というものは、私たちの想像をはるかに越えるものがあるのです。

それで、次の瞬間に死んでもいいという生き方ですが、この人間的探究から始まります。本当は、死が差し迫ってからそれを始めても、その生で答えを見つけるために与えられた時間は、とても短いということになります。だから、私たちは、常日頃からその探求に力を注がなければならない。

イエス・キリストはこう言っています。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」。神という言葉が出てきますが、これは、真理を、命を、生きるということの本質を探究することであり、「何よりもまず」というのは、すべてのことにおいて絶対優先ということです。イエスはさらに「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい」とまで言っている。とても極端な例えに思えますが、命を懸けて、まさに与えられた時間と力をすべてこの探究に注ぎ込みなさいと教えているのです。他に長い例え話で説教している場面もあります。彼がどれほどそのことを弟子たちに伝えようとしていたか、よく分かると思います。

そして、もう一つ必要なのは、探究するための方法です。それは、終末期にある人に対しても、死と対峙する恐怖に手を差し伸べてくれるものとなるのです。

 

またまた長くなったので続く

ユクティー


さまらさの台所

今日は2月のさまらさの台所の日です!
今月からは第二日曜日に変更になりましたので1月の台所からあっ!という間でした。

今日のメニューは「豆腐いろいろ」ということで、豆腐を使ったメニューを4品ご紹介しました。
10人分の食事ですが、豆腐がたくさんあります。また旬のお野菜もいただきましたよ。
お野菜はいきいきしています!まさに「旬」ですね。

 さまらさ2月とうふいろいろ

さまらさでは、旬の野菜(食材)を中心に、良質な食材を使って毎日の食事をしていくことを提案しています。それらをいただくことによって身体は清浄に保たれ、同時に心にも良い影響が与えられるのです。今回は具体的に良質な食材とは何か?をみんなで学びました。豆腐のステーキ、白和え、豆腐のサラダ、ひじきの甘酢漬け
豆腐のステーキ、白和え、豆腐のサラダ、ひじきの甘酢漬け

今回のメニューもとっても簡単!すぐにに出来上がるものばかりでした。ぜひ日常のレパートリーに加えていただければと思います。

食後はゆったりとした雰囲気の中、みんなでしばらく談笑をして過ごしました。
とても和やかな時間を過ごせて幸せでした。

今回の参加者から感想をいただいているのでご紹介しますね。

「本当に美味しかったです。レパートリーとしてよく作るようになるのではないかと思います。」

「毎回新しい発見がや驚きがあり新鮮な気持ちにさせてもらっています。
家に帰って料理を作る楽しみもあり、自分の生活を丁寧に送っていくヒントをたくさんいただいているように思います。」

「旬のものを使って手早く作り、余分なものは入らず出来上がる。料理本来の意味を考えさせられました。」

みなさまありがとうございました〜!
次回は3月8日(日)11:00〜、ヨーガ・ヴィハーラで
メニューはサモサ(インドの包み揚げ)とチャイ(インドのミルクティー)です!

サティヤー

 


シッダ・マールガ

シッダ・マールが1

こんにちは、写真は日曜日に行われたシッダ・マールガでの様子です。
総勢40名ほどが集まりました 😀 このクラスは3年以上ヨーガを実践して来た人が参加できるクラスで、クラスの名前の通り、シッダ(成就者)への道を進むものが参加しています!
今回は3人の方が、それぞれに憧れる聖者を選び、その聖者がどのようにして成就したのか、成就した後どのように生涯を生きたかということを話してくれました。

聖者に瞑想していく中で、それぞれの人にはその聖者との親密な関係が出来ていったように思いました。ある発表者のときです、彼女が選んだ聖者の名前を口にした瞬間、「あー!この二人の間には、何か親密な交換があったんだな〜」ということを感じました。それを感じ、それだけで感動して泣いてしまいました。心の思いが言葉となるのなら、心の中での親密な関係性は発する言葉ですぐに分かるものだな〜と思いました。
聖者との親密な関係って、本当に素敵ですよね。これからも楽しみです!

サティヤー

 


「新訳 ラーマーヤナ」

皆さん、こんにちは、ダルミニーです。

さてダシャラタ王がカイケーイー王妃と交わした二つの約束のことを聞いたラーマは素直に、父王の約束を果たすため、王妃の願いを叶えるために、シータとラクシュマナを連れて森へ旅立ってしまいました。ラーマがいなければ生きてはいけないダシャラタ王は、愛する息子を見捨て追放したこと、また離ればなれになってしまう悲しさに心を痛め、ラーマの名前を呼びながら死んでしまいます。

その頃、シャトルグナと一緒に伯父さんの家にいたバラタは、さまざまな不吉な夢を見て誰かが死んだのではないかと非情な恐怖を感じていました。そこへ、アヨーディヤーから迎えの使者が到着します。七晩かけてアヨーディヤーについたバラタは、人影のない灰色に沈んだ都を見るのです。

バラタは自分の母カイケーイー妃から、父王の死とラーマたちが追放されたことを聞いて苦悩にさいなまれます。バラタは、二人の母の苦しみやすべての人の悲しみを思って泣き、カイケーイー妃を非難します。「涙に声をつまらせた市民ににらまれた時、私はあなたの犯した罪に耐えることができません。友人、親族が頼りにしているのは長兄ラーマであることを、あなたは知っているはずだ」と。

そしてバラタを王位につけようと協議する人々に言います。

「王位は長子が相続するというのが、わが王家の永遠の慣習である。だから、あなたたち老練な方々は、私に王位につけと、そのようなことを言ってはならぬ。むしろ私が森に十四年間住むことにしよう。私は長兄ラーマを森から連れ戻そう」

バラタは軍隊を引き連れて森にラーマを迎えに行き、アヨーディヤーに帰って来てくれるよう懇願します。しかしラーマは聞き入れてくれません。

「父王の幸福を願うならばラーマの言葉を受け入れよ。智慧ある顧問達と共に審議して業務を実行せよ。母君がそなたのために成されたことを怨みに思ってはいけない」とバラタを諭します。

バラタは泣く泣く、ラーマの黄金の飾りのついた履き物を頭に載せ、都に帰るのです。このときのバラタのことを思うと涙が出て仕方がありません。いつも優しく兄弟たちにも親切で、大好きだったお兄さん、どんなにかバラタはラーマに帰ってきて欲しかったことでしょう。どんなにかラーマと一緒に、また王宮で暮らしたかったことでしょう。それもこれも、みんな自分の母親のせいなのです。バラタは子供の頃から、長兄のラーマが当然王位に就くものだと信じていたのです。これからは自分が、父王やラーマの代りに仕事をしなければなりません。どんなにか不安だったことでしょう。でも愛する兄さんであるラーマの言いつけにバラタが背くはずもありません。ラーマを尊敬しているバラタは、都に帰ってから王宮を出て、ナンディグラーマ村に行きました。そこでバラタは、ラーマと同じように樹皮の衣、結髪をつけて、敷草の上で寝て、果実や根菜を食べ、十四年間、ラーマの履き物に一切の法令を報告して決定し、いつも履き物を頼りにして政治を行なったのでした。バラタは、ラーマと別れるときにこう告げます。

「十四年の月日が満ちた時に、もし私があなたに会えない時は、私は火に身を投じます」

悲しみにくれるバラタにラーマは優しく「そうしよう」と約束し、愛情深く抱きしめます。

バラタは幾晩涙で枕を濡らしたことでしょうか。愛するラーマ、ラーマを頼りとして今までも生きてきたのです。それなのに、自分のためにラーマは森に追放されたのです。バラタはラーマを人間とは思っていません。神だと知っているからこそ、よけい辛かったと思います。バラタを思う時、そのバラタの苦しみが乗り移ったかのようになって悲しくなります。バラタの十四年間は苦悩に堪え忍ぶ十四年間だったと思います。ただラーマの帰りを待ちわび、それまでの間、りっぱにラーマの代りにアヨーディヤーを守ろうと、ただそれだけを思い、仕事に専念していたのだと思います。バラタは宣言します。

「この王国アヨーディヤーを象徴する尊い履き物、この委託物をラーマに返還した時、私は罪なきものとなるのだ」

ラクシュマナのようにラーマと共に行動し、献身するものもあれば、バラタのように遠く離れたところから、常にラーマを慕い、ラーマのためだけに生き、献身する姿もあります。

私は、バラタから、ラーマへの一途な愛と献身を感じました。神への、存在への、真実への愛と信仰です。ヨーガでは、真実に対する揺るぎない信頼、信仰というものを必要とします。それは自分自身が神である。全てのものが神である。その神、存在に献身し奉仕せよというものです。私たちは幾度となく、師からそのことを教えていただいています。ヨーガは神なる自分、存在、真実、ただそれだけ、ただそれだけを信頼して生きていくようにと教えてくれているのです。揺るぎない信仰が、本物の献身へと私たちを導いてくれるのだと思います。

ラーマーヤナには、たくさんの献身者、バクタたちが登場します。それぞれがそれぞれの場所で、精一杯の奉仕と献身をラーマに捧げます。そのバクタたちが、いっそう神を際だたせ、輝かせるのです。その一途な愛と献身に強い憧れと尊敬を覚え、自分もそうありたいと願うのです。

ジャイ シュリー ラーマ  ジャイ シュリー バラタ

ラーマーヤナ

 ダルミニー


さまらさの台所

今日は毎月一回のさまらさの台所でした!

2月3日の節分にいただく、精進太巻きといなり寿司を作りました。
2月4日は立春です!その前日の節分は今で言う大晦日みたいなものなんですね。

巻き寿司 材料
精進巻きに入れる具材は七福にちなんで七種の具を入れるようです。

巻き寿司1
たくさんの具材をきれいに巻くにはちょっとしたポイントがあります。
みなさん手元を凝視!!真剣そのものです!

いなり寿司
精進巻き寿司もいなり寿司もたくさん出来上がりました。
2月3日には、今年の恵方(方角)の西南西を向いていただいてくださいね〜。

来月からは毎月第2日曜日に開催されます。
2月8日(日)11時〜 ヨーガ・ヴィハーラにて、
豆腐を使った料理いろいろ(ステーキ、スープ、サラダ、白和え)

サティヤー


次の瞬間に死んでもいいという生き方

この間は年末のことについて書きましたが、今日は年始のことについて書きたいと思います。みなさんはお正月、家族や親戚の方たちと賑やかに過ごされたのでしょうか。私は、元旦から仕事でした。正月だからって患者さんはおられるので、休むわけにはいきません。そして、死は正月だからって遅れてきてはくれないんですよね。元旦から急死、急変、看取り、さまざまなことがありました。年末年始に亡くなる人って、結構多いんです。

その日、私はサブリーダーといって、患者さんを担当しているスタッフの補佐をする役割でした。血圧を測ったり、医師の指示を聞いて書類を作成したり(これがまた都会のようにパソコン一つですべて処理できるのと違ってやり方がアナログ!すごい面倒×××)、薬を準備したり、医師の処置の介助をしたり、やることが多くて結構スピードが問われます。

うちの病棟にMさんという高齢の男性患者さんがおられまして、朝9時過ぎに私が血圧を測りに部屋に入ると、「おぉっ!下顎呼吸になっている!」。これは、死が近い兆候です。死の間際に置かれた患者さんは、血圧が低下した後、胸郭を使った呼吸から下顎を使った呼吸に変わり、呼吸回数が極端に減少します。その後、心拍数が低下し始めます。もともとMさんの状態は良くはなかったのですが、これは明らかに家族や主治医を呼ばないといけないレベル。そんな申し送りもなかったので、慌てて大声でスタッフを呼びました。でも…、あれれ?誰も来ない…。ここにはスタッフコールとか、病院なら普通にある気の利いた設備がありません。(注:スタッフコールとは、緊急事態にスタッフが他のスタッフを呼ぶコールで、患者が押すナースコールとは別にある)。仕方なくナースコールを押してみた。うぅっ!誰も出ない…。なんでやねん!(←つっこみではない)。本当はこういう場合、患者から離れてはいけないんですが、仕方なくあたふたと部屋のドアを開けに行って、大声で人を呼びました。それで何とか、その日のMさんの担当看護師と二人で看取る体制を整えたんです。

でも結局、家族が到着する前にMさんの心臓は止まってしまったんですね。亡くなったのは、私が発見してから30分後のことでした。家族はすごく悲しまれていました。毎日病院に来ては食事介助したり優しく話しかけたりされるような熱心な家族でしたから、見ていられないくらい泣いておられました。Mさんにはとてもしっかりしたお孫さんがおられて、その方が詰所に来て言われたんですね。まったく何の準備もできていないので、しばらく置いておいて欲しいと。Mさんが亡くなることを家族は誰も想像してなかったということなんです。師長が15時までならということで許可したのですが、急死ならともかく、Mさんは長い間重症の肺炎を患っていて、ずっと治療してきたし、何度も主治医から覚悟するようにと言われてきたんですよね。なのに死ぬと思っていなかったって…とスタッフはみんな驚いていました。

でも、きっと人間って皆そうなんですね。特にMさんのように何度も肺炎にかかり、何度も死ぬような状況を乗り越えてくると、また今度も大丈夫だろうと思ってしまう。いつか医者のいうこともお決まり文句だくらいに思ってしまって、死が間近に迫っているという実感がわかなくなっていく。

Mさんの家族を見て、あぁ、私もそうなんだなと思いました。私だって明日死ぬなんて思ってもいないけど、そうならないとは限らない。いつか自分が、身近な人が死ぬという実感がない。どれほどたくさんの患者さんを看取ったとしても、その経験によって自分の死を実感することはないんです。

そんなことを感じながら思い出すのは、やはり聖者たちの言葉です。聖者たちの言葉を見ますと、一瞬一瞬を、その時その時を生きなさいというのをよく目にします。聖者たちがそのように生きたということですね。私たちのヨーガの先生も言われます。次の瞬間に死んでもいいという生き方をしなさいと。では、次の瞬間に死を感じれば、そういう生き方ができるかと言えば、そうではないです。次の瞬間に死ぬって感覚、本当に私たちは持つことができるのでしょうか。

私は過去に自分の死を予感したことがあります。私の場合は病気でしたが、症状が日に日に重くなり、死を自ら感じるというより、いくら拒んでもいやおうなく感じさせられるという言い方のほうが的確です。症状による苦痛はひどく、言葉に表せませんが、何と言っても孤独感がひどい。次の日目覚めなかったらどうしようと思って布団に入り、体は重くてくたくたなのに、怖くて眠れないんですね。でも一方で、このままずっとこの苦痛が続くのかと、苦悩し続ける自分もいる。この時、私は生まれて初めて、誰でもない自分がもうすぐ死ぬんだと感じるようになっていたんですね。毎日、恐怖と不安でビクビクしていた。だから、次の瞬間に死ぬかも知れないとは思っているけれど、死んでもいいという生き方をしていたわけではない。

しかし、やがて、ほんの少しずつ死を受け入れ始める日がやってきます。

あの時は、こんな風にコンクリートの隙間に咲き続ける花からよく勇気をもらっていました

あの時は、こんな風にコンクリートの隙間に咲き続ける花からよく勇気をもらっていました

 長くなったので、つづく
ユクティー

 


長岡京 夜クラス♪♪

続きまして、長岡京 夜クラスをご紹介します〜。
JR長岡京駅すぐ隣にある、長岡京市中央生涯学習センターが会場です。
やっぱ駅近はとっても便利〜!!駅から直結です!
クラスは19時スタートなので、お仕事帰りの方がたくさん来られています。
週の半ば、一日の仕事を終えた後にクラスで自分をリセットしましょう!

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クラスには、始めて間もない方から、10年以上(20年近く?)ヨーガを続けている方まで色んな方が参加されています。人数が多いので、男性と女性とに分かれてクラスは進みます。

奥が男性部屋(わかりにくいですけど…)。
男性は先生のサーナンダさんの指導のもと、各自のプログラムでアーサナや浄化法、呼吸法を実践しています。女性はマードゥリーがクラスをリードします。この日はなんと北海道から参加された方も!吹雪で飛行機が欠航になるなどハプニングもありながらも、無事到着。空港から直接長岡京クラスに来られたとのこと。情熱に心打たれます!!

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この日は昨年末のクラスで、一年間行なってきた「瞑想しっかりDay」の最終日でした。アーサナを40分ほど行なってから、全員集合!ヨーガの目的と瞑想の全体像について、サーナンダさんのお話をしっかり聞きました。

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みなさん熱心に聞いてはりますね〜!質問もたくさん上がっていました。
瞑想しっかりDayは終了しましたが、新たな学びのコースが始まるそうですよ〜!
「ラージャ・ヨーガを基礎から学ぶ10回コース」3月からスタートです!!(第3水曜日夜)

nagaoaka2015 ←長岡京クラスの新しいちらし完成!

詳しい内容は長岡京クラスのページをチェックチェック〜!
ヨーガを始めてみたい方もこの機会にぜひぜひお越しくださいね。
ヨガマットのレンタルできます♪

マーダヴィー