太鼓の導き!

8月に松山で2日間のミラバイさんのバクティ・サンガムがありましたが、私(山口正美)の松山バクティ・サンガムは5月から始まっていました。未経験者でしたが太鼓を担当することになり、月に2回京都に通い、太鼓の叩き方をヨーガダンダさんに一から教わりながら、ミラバイさんと練習するという無謀な挑戦を、ミラバイさんのお役に立ちたい、バクティ・サンガムを盛り上げたい一心でやってきました。

ヨーガ・ヴィハーラでの練習風景。写真右アミティーさん。

練習をはじめて1ヶ月ほどで、教わった叩き方ができるようになってきました。ただただ楽しくて、公園で練習していると、必ず散歩中の人が立ち止まって、「いい音色だね。なんという楽器か、なぜ練習しているのか」と声を掛けられました。

けれども、京都のバクティ・サンガムに参加するとハッとするのです。「ヨーガダンダさんの太鼓は私と違う!私もこんな風に叩きたい!」―ここから太鼓の練習は迷走することになりました。

右手を強く叩くようにすればいいのか?強弱をつければいいのか?叩き方ばかりを考えすぎて、今までできていたこともできなくなってしまいました。次の練習日が近いのにできない!! そこで、ヨーガダンダさんに相談のメールを送りました。その返信は、

「あらゆるものに神の顕れを感じて行為している。日常の行為でもそうするように意識していて、そうすることで自然と目の前の必要とされる行為が生まれてくるように感じている。だから自ずとリズムキープもできるし、その曲の雰囲気にも合う叩き方になる。太鼓であってもヨーガを深めていくことができるし、また日常の行為に繋がっていくものだと思う。」

それは、私の心を大きく揺さぶりました。同時に本当にそうだと感じました。

また、みんなを盛り上げたくて始めた太鼓なのに、神の御名を唱えず太鼓を叩いていることに物足りなさを感じ、神の御名を唱えることで味わう感覚を味わいたい気持ちが曲の中で湧き上がり、それに溺れると太鼓が叩けなくなり、慌てて立て直すことを繰り返し、一曲を通して叩けなくなっていました。

ヨーガダンダさんのアドバイスから、日常生活を見直しはじめた頃、梅雨が明けました。

久しぶりに公園に行き、思いっきり叩きました。何度も何度も繰り返し叩きました。すると、初めは、太鼓が何度も途切れましたが、次第に心が静まり一曲を通して叩けるようになっていました。それは、アーサナをして、ポーズをするごとに集中していく感じとよく似ていました。

太鼓を叩くことを通して、神の御名に集中するその感覚を体感したように感じました。けれども、糸口のようなものは見え始めていましたが、一曲を通して叩くことはなかなかうまくいきませんでした。そんな状態で、本番前日のリハーサルを迎えます。

私はミラバイさんに、「曲の途中で楽しくなってくるとトチってしまいます。どうしたらいいですか」とお聞きしました。すると「役割りに徹することが大切です。あのチャイタニアも外で神の御名を唱えたのは、人の為だったと思います。」と言われ、ハッとしました。ヨーガダンダさんにも同じことをアドバイス頂いていたし、他のことで、別の先輩からも同じことを言われていました。一体、どれだけ、自分のことばっかり優先してるんだろうか、恥かしさが込み上げました。

ヨーガ・サーラ・スタジオでの本番!中央ミラバイさん、写真右アミティさん。

本番1日目。みんなが盛り上がるように、曲の雰囲気に入っていけるように、リズムをしっかりと刻み、音もしっかり出すことに徹しました。無我夢中でした。すると、最後の曲を叩き終わった後で、ミラバイさんの鈴は見てたけど、みんなのことは見てなかったことに気がつき反省しました。

2日目。前日の反省を踏まえて、みんなのことを見ながら、ミラバイさんのことを感じながら叩きました。無我夢中でしたが、同じ曲を3回叩いたところで、誰が叩いているのか?太鼓が自ら鳴っているのか?神の中にいるのか?というような感覚になりました。すると、ミラバイさんがリズムをアップ、ダウンさせたいタイミングも自然とわかるという、まるで、神がすべてをなさっているのを目撃しているようでした。

その曲が終わった瞬間、神の懐の中は無恐怖なんだということが、突然胸に広がり、これまでの全ての取り組みの中に失敗することを恐れる私の小さな小さな心があったことに気づかされました。神だけを見て、他者(あなた)だけを見て行為していけばいいんだという実感がそこにはありました。そうすることが、全ての恐怖を取り除くことになるのだと思いました。

感激する自分の心があり、涙が溢れました。けれども、瞬時に役割と神への集中に戻り、最後までつたないながらではありますが、役割を果たすことが出来ました。すべてが終わった時、師とすべての人々への感謝、そして神への信仰だけがありました。

ミラバイさんが帰られる日に感想をお伝えすると、「ここからが、スタート」と言葉をいただきました。これからは、さらにヨーガ・サーラ・スタジオでのキールタン活動を充実させていけるように精進していきます。本当にありがとうございました。

オーム・タット・サット・オーム!!

山口正美


識別とヴィヴェーカーナンダ(8)

九月に入りましたが、この夏は雨がよく降りましたね。
私の職場は景勝地の嵐山ですが、ここは天候や季節でさまざまな表情を見せ、多くのことを語りかけてくれます。
 
八月のある日、私は電車に乗って、ヴィヴェーカーナンダ著『ギャーナ・ヨーガ』を読みながら、通勤しました。
嵐山駅に着くとなぜか突然、自分の内側から「シヴァ」の御名が聴こえてきました。
そのすぐ後、凄まじい大雨に襲われ、かなり濡れました。
ただ、シヴァの御名が心の中でループし続けていたので、雨に濡れても全く気になりませんでした。
仕事中は雷が鳴っていましたが、仕事が終わる頃には雨はやみ、外は静かになっていました。
 
帰り道、いつも通る嵐山の橋を渡ると、聴こえてきたのは川の音でした。
普段は気にならない川の音ですが、大雨のあとだったため、その音はとても大きくてダイナミックで、一瞬にして私の心は奪われました。
その瞬間、川の流れが聖音「オーム」に聴こえました。
 
 
『ギャーナ・ヨーガ』「多様の中の単一」には、次のことが書かれていました。
 
「どのようにして一者(神・真我)を見るのか? この心、これほど迷いが深く、これほど弱く、これほどやすやすと誘惑されるこの心でさえも、強くなることができ、われわれを繰り返し繰り返し死ぬことから救済する知識、その一者を垣間見ることができるのです。
山頂に降る雨がさまざまな流れになって山腹を流れ下るように、あなたがここに見るすべてのエネルギーは、その一者からきます。それがマーヤーの上に落ちて、多数となったのです。多数の後を追いかけてはなりません。一者の方においでなさい。
『彼はすべての動くものの中にいる。彼は宇宙を満たす。彼は犠牲の中にいる。彼は家を訪れる客人である。彼は人の中、水の中、けものの中、真理の中にいる。彼は偉大なる者である』」
 
雨や川、雷は凄まじいエネルギーをもっているように見えますが、それは背後にある一者「偉大なる存在」を根源とし、すべての万物、私自身の中にも「それが在る」というのです。
 
八月の仕事の帰り道、私の心は「シヴァとオーム」で満たされました。
そして常に、「彼」だけで満たされるようにと願います。
多数の後を追いかけずに「一者」だけを見る識別、その実践あるのみです!
 
「オーム タット サット オーム 神は真実在なり」
 
 
 ゴーパーラ

『理想の人間になるためのガイド』vol.3 完成!

中国語でヨーガの教えや弟子たちの実践の記事が掲載された、『理想の人間になるためのガイド』vol.3 が、先日27日(火)についに完成しました! 

1冊目と2冊目では、命の意味やカルマについて、ヤマ・二ヤマなど、ヨーガの基本的な教えが中心に掲載されていました。今回の3冊目では、瞑想についてや、マハーヨーギー・ミッションのウェブでも掲載されている「ヨーギーを目指して」シリーズ、またサットサンガでのシュリー・マハーヨーギーの教え、Shri Mahayogi Speaks to a Soul (NY website より)などが翻訳され、紹介されています。

台北ではこの冊子を用いて、今年の春から毎月一回読書会を行なってきました。母国語でヨーガの教えを読めることは、参加された方にとってとても大きな助けになり、喜びであったそうです。皆様の声をご紹介したいと思います。

「この本は薄くて持ち歩きやすく、友達にも勧めやすくて、とてもいいです。読書会に参加すると、自分がチャージされたような気がします。毎回の内容は自分の課題にも当てはまるので、日常生活の実践にすごく役に立っています」

「いつも本を側に置いているので、スマホを見る時間が減りました」

「中国語で読めるため、より詳細な教えを知ることができます。本の内容は以前に読んだものであったとしても、いつもインスパイアされます。ここには、さまざまな日常の場面で応用できる一つの基準が書かれていると思います。ヨーガマットの上でアーサナをするのは練習で、日常生活が本番だと先輩に言われました。これはまさに本番で使える攻略本でしょう!」

::::::

なお、表紙のデザインのイメージですが、ヨーガの実践が深まっていくにつれて、私たちが克服するべきものは外側の物事ではなく、自分自身であったことが分かるようになります。つまり最初は山を征服しようと山を目指していたけれども、実はそれは自分自身であった。そういうところから、山が人の顔として表されているということでした。

この3冊目でシリーズの最後となります。師の教えがこうして少しずつみんなに紹介されていることは、本当に素晴らしく、喜ばしいことだなぁと思います。今後少しでも多くの方の手元に届きますように。

ミラバイ


歓喜に包まれたバクティ・サンガム2days!!

数日前まではまだまだ夏真っ盛りでしたが、すっかり涼しく過ごしやすくなりましたね。

さて、昨年に引き続き8月17日(土)、18日(日)にミラバイさんが松山でバクティ・サンガムをしてくださり、暑さも一瞬で吹きとばす勢いでヨーガ・サーラ・スタジオに神と魂を結ぶ愛の歌、キールタンが力強く響きわたりました! ミラバイさんはこの2日間、バクティ(神への愛)という目に見えないものをキールタン、体験談、サットサンガを通して、その優しい言葉や表情にありったけの思いを込めて全身全霊で伝えてくださいました。誰もがミラバイさんの人柄や優しさに触れ、まるで神への愛が伝染していくように感じました。1日目は33名。2日目は24名が参加され、ミラバイさんの両脇にはハルモニウム担当のアミティさんと太鼓担当の山口さんが座り、会を盛り上げてくれました。

 

ミラバイさんは初心者の方にも親しみやすいよう1日目は基礎編で、2日目はさらに深めていけるように構成してくださいました。初参加の方6名全員が初日に来られ、ミラバイさんの著書『真実を求めて』を読んで興味をもたれた方や、親しい方からの口コミでのご縁で来られた方、「不動になりたい」と1人でヨーガのクラスに熱心に通う高校生の姿もありました。初参加の方からは、心を打たれた、楽しく歌えて心が温かくなった、神に守られて生きていることを少し思い出せたような気がした、というご感想をいただきました。

1日目はキールタンの体験談付きでした。ミラバイさんはその中で「キールタンを歌う時、自分の心を見ずに神に向かう訓練をした時期があった。心がどんな状態だったとしても、キールタンを歌えば神の歓びが確かな印象として心に刻まれた。私たちの本質そのものの歓びに立ち返るようになっていき、気が付いたら自分の心を見るのではなく、神の方を見る習慣へと少しずつ心が変わってきた」と謙虚に話されました。実践に基づいた言葉は説得力があり、私たちの心奥に宝物のように届けられました。参加された方のお一人は、次のような思いを熱く語りました。

「以前はキールタンを歌う気がしませんでしたが、自分の心ではなく神を見るという言葉を聞き、キールタンを歌いたくなりました。この日の帰り道、とても気持ちが軽くなり、帰宅後キールタンを歌いながらお風呂掃除をしました。今日だけではなく、これが続くように実践していきたいです」。

 

2日目は「夏のバクティ名作劇場」と題してミラバイさん、アミティさん、山口さんの3人で臨場感たっぷりにシュリー・ラーマクリシュナの生涯の一部分が紹介されました。どの話も素晴らしかったです! その中でも特に皆の心に残ったのは、シュリー・ラーマクリシュナが弟子に与えた、ある教えでした。ある弟子は、自分は神を感じることができないこと、そしてすぐに神を忘れてしまうということに悩み、師に相談をします。するとシュリー・ラーマクリシュナは、お前は神の信仰者であるはずだと勇気づけますが、弟子は納得せず、自分にはそんなことは分からないと否定しました。すると、師は言われます、

「物事の真実は、それを人が知っているかいないかによって決まるものではない。お前はそれを知っているのかいないのか知らない。しかし、お前は神を愛する者なのだよ」。

私たちも彼と同じように悩み、自分が神が分からないことや神を感じられないことばかりを見てしまいますが、そんなことは関係がないというのです。誰もの中に神への愛がある、ミラバイさんの声(神への愛の熱い振動)が私たちの耳に届いた瞬間、みんなの中に「私は神を愛する者である」という自信と情熱がハートに点火されたように感じ、とても感動しました。その後のみんなの歌声はとても情熱的で、あらゆるものを吹き飛ばすかのように一心に神に向かっていました。

***

バクティ・サンガムが終わって1週間がたちますが、今もなお歓びの声が続いています。

「神様の存在は特別じゃない気がした。私が意識するしないにかかわらず、神は愛してくださっている。何も考えなくていいんだなって素直に思えました」

「ミラバイさんの話の中で、キールタンを歌っている時に皆さんを愛おしく感じてくるという言葉が印象に残った。それを聞いて、これまで自分がいろんな相手に対して思ってきた好き嫌いの感情は、実はどうでもいいことだと感じた。先日、職場での辛い場面で心の中から自然にキールタンが流れてきて、そのとたん元気になった。キールタンの力ってすごいですね!」。(なんとこの方は、今までずっと何年間も「キールタンがよく分からない」と言われていたのです)

ミラバイさんのバクティ・サンガムによって「私は情熱が足りない」とか「バクティが分からない」というみんなの悶々とした思いが、パッと取り払われたように感じました。数年前まではバクティ・サンガムは一過性のイベントのように思っている方が多かったのですが、今は違います。キールタンもアーサナや瞑想と同じように続けることが大事で、キールタンの実践によって心は変わるという信念を抱く方、そして日常でもやってみようと思われる方が少しずつ増えているのです。ミラバイさん本当にありがとうございます!

そして、このような機会を与えていただいたシュリー・マハーヨーギーに、心から感謝いたします!

アーナンディー


ブラゴパーラvol.7 「化野念仏寺 小野篁」編

残暑お見舞い申し上げます。
まだまだ暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか?
お盆ということで、お墓詣りに行く方もおられるかと思います。
そこで今回のブラゴパーラは、京都嵯峨野の「化野(あだしの)念仏寺」に行ってきました〜😎

八千体を数える石仏・石塔は、あだし野一帯に散乱した無縁仏の石仏を明治中期に地元の人々の協力を得て集められ、極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聴く人々になぞらえ配列安置されているとのことです。
古くからこの京都では、北の「蓮台野(れんだいの)」、東の「鳥辺野(とりべの)」、西の「化野(あだしの)」三大葬地だったそうです。

巨大なストゥーパ(仏塔)もありました。

ところで今回、化野念仏寺を訪れたのはお盆ということもありますが、「ある人物」の存在が浮かび上がってきたからです。
前回のブラゴパーラでは六波羅蜜寺を訪れましたが、そこは東の葬地「鳥辺野」の境目に位置していました。
そのすぐ近くに六道珍皇寺というお寺があり、そこは「小野篁(たかむら)」という人物が閻魔大王に仕えるために冥土通いをしたといわれる入口の井戸と、彼が彫ったと伝えられる閻魔像がありました。
また今回訪れた西の葬地「化野」の境目には薬師寺というお寺があり、そこには出口の井戸跡と、彼が彫ったと伝えられる地蔵菩薩像(閻魔の化身)がありました。(井戸があった福正寺はなくなり、近くの薬師寺に併合)

冥界への入り口の井戸(六道珍皇寺)

そして、ブラゴパーラvol.2で訪れた「千本ゑんま堂(引接寺)」は、北の葬地「蓮台野」の境目に位置し、ここは小野篁が閻魔像を彫って本尊としたお寺でした。
このことから、小野篁という人物が京都の三大葬地すべての境界に関係していることが見えてきたのでした。
つまり、京都の地理上での「この世(此岸)」「あの世(彼岸)」狭間に、小野篁の所縁の地があるということです。

by saci.

では、小野篁とはどういう人物だったのでしょうか?
小野篁の生没年は平安時代前期の802〜852年。かの有名な弘法大師空海(774〜835)と生きた時代が重なっています。篁は空海とも関わりのあった嵯峨天皇と親交があり、遣唐副使にも任ぜられましたが渡航せず、遣唐使の事業を風刺する漢詩を作り、それを読んだ嵯峨天皇は激怒し、流罪になります。許された後はさまざまな官職を経て参議に至っています。その博識、詩才は世に重んじられ、『令義解』の序文の執筆、『古今和歌集』にも和歌が入集し、百人一首の一人(参議篁)にもなったほどの人物です。
そして伝説では、昼は宮中に赴く官僚、夜は冥府において閻魔大王に仕え、冥界を行き来する神通力をもっていたとされています。ちなみに身長は六尺二寸(188㎝)の巨漢であったそうです。

閻魔大王に教えを請い願う小野篁。

天皇にも反発するほどの気骨と、また優れた文才をもった小野篁ですが、冥土通いをして閻魔大王に仕えていたという伝説を、皆さんはどう思いますか?
後世の人たちの創作もあるように思いますが、この伝説の背後から見えてくるもの、それは「閻魔による救済」であると私は感じます。
いつの時代も国でも、「人は死んだらどうなるのか?」という死の謎、恐怖と不安を取り除くことが大きなテーマであり、それに向き合ったのが宗教です。
一見すると、恐ろしい形相の閻魔は、死や死後の世界の恐怖を喚起する存在のように感じてしまいます。
しかし、閻魔は「死を司り、支配する王」です。
人は死んだらどうなるのかという「輪廻転生の理」を知っている者、つまり「真理」を知っている存在ということです。
葬送の時、この世とあの世の境で閻魔、並びにその化身である地蔵菩薩を拝することで、死者やその親族、これから生きていく者は、閻魔の形相や地蔵菩薩の慈悲に引き込まれるようにして真理やその教えに誘われたように感じます。

「野宰相」「野狂」という異名をもつ小野篁ーー大きなお墓を作ったり十分な供養ができなかった民衆の心の救済のために、彼岸への誘いの手助けをした本物のお役人、そして閻魔を見神した隠れた宗教者だったのでは👀と私は感じました。

ゴーパーラ


ラーマクリシュナの愛した歌

あなたは私のすべてのすべて、おお主よ。
私の命の命、髄の髄。
あなたの他にわが身内と呼べる者はいない。

あなたは私の平安、私の歓び、私の希望、
あなたは私の支え、私の富、私の栄光、
あなたは私の智恵、そして私の力。
あなたは私の家族、私の慰安、私の最愛の友、
私の最も近い身内。

現在の私であり、私の未来でもあるあなた、
私の天国、そして私の救い、
あなたは私の聖典、私のおきて、
あなたは私の慈悲そのものであるグル。
あなたは私の限りない至福の泉です。
あなたは道、そしてあなたは目標。

あなた、崇拝する御方、おお主よ!
あなたは優しい母であり、父である。
創造者で保護者であるあなたは、
人生なる海をよぎる私の船の舵をとる舵手

あなた、あなた、あなた、あなた・・・
最近つくづく思うのですが、「私」に関することを考え出すと「私はこれをしないといけない」「私の意見はこうなのに」「私のもの」「私だったらこうするけど」などなど私に関しての思いがどんどん展開し、心は「私」に占領され、ちっとも黙ろうとせず、自分にはやることが山積みで問題だらけのような気がしてくる。心はすぐに物事を大げさにする。

けれど「あなた」(神や真理)のことを思う、そして思い続けていると、心はだんだんと静まる。「私」は小さく見えなくなる。そしていつの間にか「あなた」でいっぱいになるとき、そこには平安と歓びだけがあり、問題などそもそもなかったと分かる。見える世界は突然変わる。
キーワードは「私」(エゴ)ではなく「あなた」(神や真理)。
そう!あなたは私の限りない至福の泉なのです。


ブログ「ヨーガを生きる」からのお知らせ

暑中お見舞い申し上げます。
連日猛暑が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?

先日、8月1日に私たちの師シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの貴重な映像がYouTubeで配信されました。(映像はこちらから👈)
私はこの映像を見ると、暑さも忘れて師のお姿に見入り、瞑想的なムードに誘われました。
この映像は師のヨーガダンダ・アーサナから始まりますが、私は改めて師の座法のお姿ーーシッダ・アーサナ(達人の形)の美しさと堅固さに驚かされました。
古今東西、歴史を振り返っても、これほどまでのシッダ・アーサナをされる聖者・覚者はいたのだろうかと思うほど、そこに完全さを感じずにはいられませんでした。
師の偉大な存在と導きに、心より感謝致します。

さて、今回はブログ「ヨーガを生きる」からのお知らせです。
このブログは2014年からスタートして、はや5年が経ちました。
その間アップした記事の数、なんと「586」👀‼️
そんな膨大な数になったブログ記事を、今回新たにカテゴリー分けしました。
過去の記事も読み返しやすくなったと思いますので、お盆休みで時間のある方、また仕事の方もその合間に見返してみてください〜📖

ブログ「ヨーガを生きる」は、師シュリー・マハーヨーギーの弟子である私たちが書いていますが、その動機は「師のヨーガの教えを私たちが生き、一人でも多くの方にヨーガを知っていただいきたい」という、その思いに尽きます。
まだまだブログの認知度は低いですが、これからも地道にアップしていきたいと思っています。
目指すは、ブログ記事「1000」😁👆
今後ともどうぞよろしくお願い致します。

京都嵐山

ゴーパーラ


サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ初公開映像YouTubeリリース!!!

私たちの最愛の師、サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの映像と写真、教えで構成された非常に貴重な初公開映像*が、ニューヨーク、マハーヨーギー・ヨーガ・ミッションのProject Sahasrara(プロジェクト・サハスラーラ)から、本日8月1日にリリースされました!!!!!  *英語、字幕:日本語、スペイン語、中国語

皆様に、心からの歓びをもってご案内させていただきます。

NYミッション・ブログをご覧ください!→Project Sahasrara

*可能ならYouTubeの全画面設定で視聴してください。

ここに本物のヨーギーがいる!生と死の秘密、深淵なる魂の秘密を解き明かし、絶対無二なる実存に目覚めた存在。永遠の真理そのもの、純粋な愛そのものが人の姿をとられた存在。

1976年にマハーヨーギー・ヨーガ・アーシュラマが設立されて以来、ひと時も休むことなく、人生に救いを求める人、道を求める人々に教えを授け、導き続けてこられた偉大なヨーギー!

サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ!!!

ついに公開の日を迎えました!!!本当にこの映像が公開されて嬉しく思います!シュリー・マハーヨーギーの尊い足跡と教えが、聖音とともに魂の扉を開き、真のヨーガへと導きます。人の本性は自由であり、永遠に祝福されている!永遠の真理、永遠の存在がここに示されています!多くの人の元に届けられますように。

現代に生きるヨーギーがいることを、一人でも多くの道を求める人に知ってほしい!その存在と教えに触れて、光明を見出し、真に自由な本性に目覚めてほしい!尊い命の喜びを謳歌するために!このかけがえのない貴重な時間を無駄にすることなく!そのような思いをもってこの映像は公開の日を迎えました。

これまで私たちは、師の貴重な映像や写真を非常に大切にし、管理してきました。師その御方と同じように大切に扱うように心がけてきました。今回の映像も、最大限大切に扱われるように心がけたいと思います。

だからこそ、今回の映像は一人でも多くの人に届けるべく、広く共有していきたいと思います。真実のヨーガを求め、真正のヨーギーの導きを求める魂たちは世界中にいます!私たちのすぐ傍にもいるかもしれません!熱い思いは時空を超えて伝わっていきます!それが私たちの役割です。

シュリー・マハーヨーギーの存在から放たれる聖なる千の花弁―サハスラーラの無量の聖光が、三千世界の隅々まで、時間も空間も超えて、あまねく一切を照らしますように!!!

オーム・タット・サット オーム!

サーナンダ

 


識別とヴィヴェーカーナンダ(7)

「理想」とは何でしょうか?
世界平和、愛、自由、目標の達成、つつがなく人生を送ること……
人それぞれ、思い描く理想の姿や形はさまざまかもしれませんが、そこには共通して「幸せ」を求めるはたらきがあるように思います。
では、ヴィヴェーカーナンダは「理想」というものをどう捉えているのでしょうか?

まず、理想の対義語が何かといえば、それは「現実」です。
ヴィヴェーカーナンダはこの現実のありのままを、いくつもの例を挙げて説明しています。
ーー希望に満ちた若者は明日の老兵になり、知識獲得への欲求はその限界に直面し、物質的繁栄の影には不幸があり、快楽を得れば等量に割り当てられている苦痛を伴い、どんな偉大な王も美女も死という破壊に向かって進んでいる事実ーー
人は生きていくと、誰もが大なり小なり現実の壁、矛盾、二元性に直面し、この世界で自分の思い描く理想に完全に近づけないことを実感します。
2500年前、ブッダは説かれました。

「この肉体と心、世界は無常である」

思い通りにならない世界と、まぬがれることができない老いや病、そして死ーー
幸福を得るやいなや不幸が襲いかかり、この世に生を受ければ必ず死がやってきます。
それでも私たちはこの世界において永続する完全な幸福を求めるです。

では、私たちはどうすればいいのでしょうか?
死を直視することをやめ、理想をもたず、享楽的な人生、または世に迎合する人生を送ればいいのでしょうか?
その突破口としてヴィヴェーカーナンダは、「死を絶滅させるためには、生も絶滅させなければならない」と言うのです。
それは、短絡的にこの人生を諦めよということではありません。

「小さな生命を生きることは死です。小さな幸福、小さな自分を棄てよ」

と言うのです。

「われわれは誰でも、自分たちは非常に幸福であるだろうと考えて、この肉体をいつまでも保っておきたいと思います。しかし人々が過去とか未来とかを思うのをやめるとき、彼らが肉体という観念を棄てるときーー肉体は去来する、限定されたものなのですからーーそのとき、彼らはもっと高い理想にまで登ったのです。肉体は真の人ではありません。心もそうです。心は大きくなったり、小さくなったりするのですから。独り永遠に生きることができるのは、超越した霊です」ーー『ギャーナ・ヨーガ』

誰もが永遠で完全な幸福という理想を求めています。
過去の覚者たちは、それは肉体や感覚、心では得られない、「放棄」によって得られると悟りました。
ブッダは「四諦(苦集滅道)」という放棄によるニルヴァーナ(涅槃)への道を示し、イエス・キリストも「私のために自分の生命を失う者は、それを得るであろう」という諦めの放棄の道を説いているのです。

そしてヴィヴェーカーナンダは、理想はどこかにあるのではなく、最も近いところにあると言います。

「あなたが見た理想は正しかった。しかし、あなたは理想をあなた自身の外にあると見た、それが間違いでした。それをもっともっと近くにもっていらっしゃい。それは常にあなたの内にあったのだ、それはあなた自身の自己であったのだ、ということがあなたに分かるまで」

理想とは、永遠で完全なる幸福、自らの内にある真の自己、その目覚めである悟り、そうでなければ意味がありません。
そして、「最高の理想で頭脳と思いを満たし、朝夕それらを自分の前におきなさい。そこから偉大な働きは生まれるのです」とヴィヴェーカーナンダは力強く説いているのです。

ゴーパーラ


不滅なる主ーーキールタンの味わい

バクティ・サンガムでは、今年も3カ月間かけて1曲のキールタンを歌い込んでいくということを行なっています。6月からチャレンジしているのは、「Hara Hara Mahadeva(ハラ ハラ マハーデーヴァ)」というシヴァ神を讃える歌。2007年に新風館で行なったライヴ映像もありますが、私も歌うのはほぼこの時以来で、約12年ぶり(!)でした。

久しぶりに歌ってみて、軽やかで楽しい、とてもいい曲だなあと思いました。でも単純に楽しいだけではない、何かがあるような気もするのですが、それが何かがまだよく分からない。キールタンはもちろんどれもが神を讃えた歌ではあるのですが、この歌の本質は何だろう・・・。それがなんともつかめないまま、一カ月ほど歌っていました。

Hara Hara Mahadeva Sambho   Kasi Visvanatha Gange
Kasi Visvanatha Gange   Kasi Amarnatha Gange・・・

歌詞は、単純にシヴァ神の御名を讃えていきます。その中で、Kasi(カーシー) という言葉が出てきます。意味はベナレス。インドの地名です。

ベナレスは昔から有名な聖地の一つで、シヴァ神の都ともいわれています。多くの聖者が住んだ場所でもあり、また多くの人がそこで人生の最期を迎えることを望み、やってくるところでもあります。なぜなら解脱できるといわれているから。私も20代の頃にベナレスに行ったことがありました。目の前にガンジス川が流れていて、上流には火葬場があり、その下流では沐浴をしたり洗濯をしたりしている。死ぬことも生きることも等しく日常にありました。ベナレスはインドの人々にとって特別な聖なる場所。・・・そんなことを思い巡らせながら歌を練習していた時、破壊と再生を司る主シヴァがこの世界で起こる変化のすべてを大きく受け止め、見守り続けていること、そしてシヴァの祝福が今もなお降り注がれていることが突然胸に飛び込んできて、深く感動しました。長い長いインドの歴史の中で、どれほど多くの人たちがシヴァ神を崇拝し、そこに救いを求め、またベナレスの地を愛してきたことか。

歌詞の中には、 Amarnatha (アマルナータ)という言葉が出てきます。不滅なる神という意味。主シヴァはもちろんのこと、私たちの本質も不滅である。破壊の神のイメージが強いシヴァ神ですが、不滅の神とも呼ばれ慕われてきたその意味と、シヴァ神のもう一つの側面を、ようやく少しだけ体感できたように思いました。私はこの日以来、シヴァ神をグッと身近に感じるようになりました。今でも、シヴァ神の御名から与えられたその振動が胸に鮮やかに残っていて、彼の御名を唱えるたび、喜びに満たされます。

8月まで「Hara Hara Mahadeva」を歌います! ぜひバクティ・サンガムに来て、この歌を一緒に歌ってみてください!

 

 

ミラバイ