雷雲

雷-001

..

ナンダの息子クリシュナは、私をずっと放っておいている

雲が集まってきた
そこかしこに雷鳴が轟き、電撃が煌く
東の風が吹き、冷たいシャワーをもたらす
蛙、孔雀、雀が鳴き
カッコウが甘くさえずる
ミーラーの主は山を持ち上げる神、ギリダラ
彼女の心は、主の御足から離れることなどない!

ミーラー・バーイー

 

雨の季節、遠く離れた愛する夫の帰りをひたすら待つ女性が描かれている細密画です。暗い雨雲に覆われた空には雷が光っています。その黒い雲を背景に真っ白な鷺が飛翔しています。とても美しいコントラストです!インド細密画でよく描かれるシーンですが、それはまさに青黒い体に白いネックレスをしたクリシュナを表しています。バクタたちはこの構図を見ただけで、ただちに愛するクリシュナを思い浮かべるのです!

宮廷からそのシーンを見つめる夫人の胸には、「あの人は便りも寄越さないけれど何をしているのだろう」「いつあの人は帰ってきて私を抱きしめてくれるのか」「早く帰って来て!」と、愛する夫を想う気持ちだけがあるのでしょうか。屋根にはつがいの孔雀が羨ましくも仲良くいます。召使たちは音楽を奏で、飲み物を用意しています。愛の病に懊悩する夫人を団扇で仰いでいますが、その熱は冷める様子もありません。

湖の対岸の丘には羊の群れや村があり、牧歌的な景観が美しく描かれています。見事な構図です。すべてが彼女の心情を見事に表しているのです。まさにミーラー・バーイーのこの歌の様子が描かれているようです。

サーナンダ

 


火の遣い手たち

みなさん、こんにちは

今回もまた本願寺出版社の「ブッダ」より印象に残った内容をご紹介いたします。今日登場していただく修行者はウルヴィルヴァーさんです。

夕闇の中、炎が怪しく揺らめいている。ウルヴィルヴァーが右手を差し出すと、炎はぱっと大きく燃え上がり火柱となった。あたりが明るくなり火の粉が雨のように頭上に降り注いだ。

「兄さんの力は衰えませんね」とガヤーが声をかけた。ブッダの弟子のサンガ(集まり)に加わるまで、ウルヴィルヴァー、ナディー、ガヤーのカーシャパ三兄弟はそれぞれに大勢の弟子と信者をもつ結髪の行者だった。中でも長兄のウルヴィルヴァーは強大な神通力を持ち、数々の奇跡を起こしていた。

「こんな力は何もならない」長兄は独り言のように呟き、両手を広げて炎を鎮めた。瞬く間に天に届くほどの火柱は小指の先に灯る火となった。

「ブッダはそれ以上の力をお持ちなのですか?」ブッダはウルヴィルヴァーの聖火堂で無数の奇跡を現出させた。神通力の対決で敗北した長兄は火の崇拝を止め、ブッダに帰依し、五百人の弟子もそれに続いた。

「ガヤー、お前にもよく分っているはずだ。ブッダの特別な力、人を包み込む暖かく柔らかな力を」ブッダがウルヴィルヴァーと弟子を従えて、ガヤーたちの前に姿をみせた瞬間、清らかな涼風が吹き抜けたようだった。ブッダは一言も発しないうちにその場にいた者の心をしっかりとつかんだのだ。次兄のナディーに続いて、ガヤーもブッダに帰依を申し出た。

「後悔はしておられませんね」そういうガヤーの前で、ウルヴィルヴァーは土をすくって火にかけた。灰色の煙が立ち上り、火は一瞬、赤い輝きを放って消えた。

「もちろんだ。ブッダの示された道を私は歩いていく。さあ、帰ろう、ガヤー、そろそろブッダの説法が始まる時間だ」

月明かりに照らされて闇の中ぼんやりと道が浮かび上がっている。ガヤーは歩き始めた長兄のあとを追って足を速めた。

二千五百年前のインドの深い森の中、どれくらいの苦行者たちが修行をしていたのでしょうか。その中でもカーシャバ三兄弟は、ブッダの存在を素直に認め、帰依した人たちだったのでした。中には尊者と呼ばれながら、自分の考えをなかなか改めることができず、ブッダを誹謗中傷し、陥れようとする人もいたようです。五百人もの弟子を持ち、神通力もあったウルヴィルヴァーでしたが、真実の前では謙虚にこうべを垂れ、すべてを捨ててブッダに帰依したのでした。ウルヴィルヴァーは本来の目的を忘れてはいなかった、真実に通じる確かな道をみつけたウルヴィルヴァーは、歓びをもってブッダに従ったのだと思いました。

ブッダ (22)

ダルミニー

 

 


バガヴァッド・ギーター

バガヴァッド・ギーター

地獄に到るには三つの門があり
肉欲 怒り 貪欲がそれである
これらは魂を墜落させる原因ゆえ
正気の人間はこの三つを切り捨てよ

この三つの地獄門を避け得た人は
真我実現に到る行いに励み
アルジュナよ 次第に進歩向上して
究極の目的に達するであろう

バガヴァッド・ギーター(16章21、22節)

久しぶりのギーターの紹介です。

先日仕事のとき、私がしたこと(何かを用意したり、整理したり、洗い物をしたり)すべて私がしたとたんに全部直されました。その現場に入ってからだいぶ立つので、今までと違うことをしたつもりはないのですが、何かが気に入らなかったようで右に向けたら左に向けられ、しまったら出される、とにかくそんなことがずーっと続きました。
「そんなに私のやることが気に入らないなら、全部自分でしてくれ!!」と帰り際にはついに怒りが込み上げてきたのですが、結果として怒りが込み上げてきたことで自分自身がとても嫌な気持ちになり、疲れがどっと押し寄せました。
私の仕事の仕方が悪かったかもしれない、もしかしたら相手がイライラしていただけかもしれない、でもどちらにしても怒ったことで自分自身を傷つけたと思いました。

ギーターに書かれているようにやっぱり怒りは自分自身の魂を墜落させる原因なんですね。

相手がどうだろうが、どんな時でも謙虚にいられたら、こんな気分になることはないだろうな……と思い、それ以来そのことを意識しています。


ビールと宗教

皆さん、こんにちは。
梅雨も明けて、暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか?
僕は今週、仕事で屋外プールに行ったのですが、日焼けをして、全身がヒリヒリしています😣

ところで、今日のブログは「宗教」についてのお話をしたいと思います。

「えっ、宗教? こんな暑い日にそんな堅苦しいこと考えらへんて! ビールでも飲もう〜!」

と、ブログメンバーである酒豪のサ××ーさんには言われるかもしれません。
僕も学生の頃はビールが好きで、暑い夏にはグラスをキンキンに冷やして飲んでいたので、気持ちは分からないくはないのですが、
ビールと聞いたら思い出す、大学のゼミ担任だったN教授の言葉があります。

「最近、発泡酒が流行っているけど、あれはビールやない。今、世の中は偽物が増えてきている」

発泡酒はビールとは原料が違うので、泡立ちや味が似ていても別ものですよね。
「そんな当たり前のこと、分かってる!」と言われるかもしれませんが、ただ僕はちょうど学生の頃、発泡酒でも「イケるな」と思って飲んでいたし、お金もなくて「発泡酒でいいや」とビールを飲みたいけど発泡酒で誤魔化していたところもありました。
また、発泡酒もビールの一部と捉えていたようなところもあったので、ビール腹のN教授の言葉に妙に納得させられたのです。

それで話は本題に戻りますが、「宗教」ということを学ぶと、宗教も同じようなことが言えるというか、ビールと発泡酒のような状況があるなと感じるのです。

2カ月前、愛媛でサットサンガが3日間開かれましたが、その内の2日間は「宗教とは何か?」「ヨーガと宗教の関係」についての問答がありました。
ここでは、3日目の今治でのヨギさんのお言葉を紹介したいと思います。

「今日(こんにち)世界宗教と呼ばれているものはキリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、その他にさまざまあります。それらは歴史的にも千年から二千年の長きにわたって、それぞれの民族の中で発展してきたものです。世界歴史を見まわすと昔の国のあり方、そして今日(こんにち)の国のあり方は大きく変化しています。東洋と西洋がより密接に交流し、経済や文化なども互いに影響し合うような時代にもなってきました。宗教においても以前のままで進んでいるところも少なくなってきています。また、それぞれの宗教の中における形骸化といいますか、宗教の本来あるべき姿が見失われているようなこともあります。それでも人は人生の中で苦悩を抱えながらも救いを求めて、何らかの宗教にその道標(みちしるべ)を求めています。そんな時、既存の宗教ではもはや解決ができないというところまできています。これは見方を変えれば、宗教そのものが堕落してしまっている、あるいは形骸化してしまっているがゆえに、人の心を導くことができないというふうにも見えます。
もう一方で、科学というものが世界の技術や経済、あるいは生活にまで影響を及ぼしている。宗教は、一宗一派の思想だけではなかなかその他への影響を与えることはできません。つまり、宗教の本来である普遍的な真実というものに立ち返らなければならないと思います。それは科学とも矛盾することもないし、またどのような時代であれ、民族文化であれ、共有できる内容をもっていなければならない――ちょうど科学のように。
ヨーガというのは三千年以上昔からインドにおいて探求され、研鑽されてきた科学的ともいえる真実を見つける方法です。だから特に特定の宗教が唱えるようなご本尊といいますか、そういうものを必要ともしません。むしろ真実なるもの、真実の存在、それだけが絶対であり、神と呼ぶべき存在であるというふうに理解します。なお、その尊い存在はどこにあるのかといえば、雲の上ではなくて、それぞれの胸の中にある。人間だけではなくて、この草花の中にも、動物の中にも、土の中にも、空気の中にも、水の中にも、宇宙すべての中にある存在が同じ存在である。昔はそれを魂と呼んだり、あるいは神と呼んだりもしました。その真実を遠くに求めるのではなくて、自分の中にこそそれを見つけて、それを知ること。これが、すべての宗教の帰結点という究極のところに位置しています」

ヨギさんは宗教の帰結点、つまり本質は「自らの内に在る真実、神を知ること」で、それを実現する方法がヨーガであると言われました。
そして最後に次のように説かれました。

「現在あるところの宗教というものは、ほとんどが現世利益という二元的な内容だと思います。二元性の中では神と人間の間は埋まらない。けれども、ヨーガにおいては二元をなくして一元的な――(胸に手を当てて)神がもしあるのならば、それはここに在ると。誰もの中に在る、どこにでも在る、それだけが在る――二元ではないのです。それだけが真実である、そう教えています」

宗教の本質が見失われ、欠落している状態でありながら、似て非なるもの――現世利益や先祖崇拝、またオカルト的なことが宗教と称されている現状ーーこれは発泡酒がビールと称されて、混同されてしまっているようなものですよね。
この宗教の核心を突くヨギさんの教えに、僕は暑さも忘れるほど酔いしれてしまいます。    僕は大学院まで進んで仏教を学んでいましたが、このように宗教の本質――「自らの中に真実、神が在る。そして、それを実現できる」ということをここまで力強く、明確に教えてくれる人はいませんでした。

ちなみにですが、N教授の言葉で印象に残っている言葉が4つあり、1つはビールの話で、もう1つが以下の内容です。

「今の坊さんは職業に成り下がっている。坊さんて職業か? ブッダの頃のお坊さんを見ろ」

N教授、本質を突いています……(笑)
今振り返ると、大学でも宗教の本質の片鱗を教えていただいていたのだなと感じました。

飯尾洋平


夏の瞑想合宿に行ってきました!

7/16,17に滋賀県近江神宮内にある近江勧学館にて瞑想合宿を行ないました!

19名もの方にご参加いただき、スタッフ合わせて22名(女性17名、男性5名)、それぞれ近くは大津や京都、大阪から、遠くは兵庫、北九州まで!様々なところから参加されました。普段MYMのクラスに通われている方だけでなく、合宿で初めて参加される方もいました。
京都では祇園祭の真っ最中な日程でしたが、近江神宮は静かで天候にも恵まれ、夏ですが外の風が心地よくクーラーもいらないくらいでした。窓から聞こえる虫の声の音色もよく、瞑想に集中できたという方も多くいらっしゃいました。

合宿は、講座と瞑想実習、Q&Aで構成され、心のしくみから具体的な瞑想方法まで段階的に学びを深めていきました。

講座は、1日目は13時から始まり21時まで、瞑想実習を交えながらですが、各1時間×3回と合宿らしくみっちりとあり、具体的に瞑想を実践できる教えを学びました。みなさんうなずきながらメモをとり、集中して聞いてはりました。質問もたくさん出て、参加者のみなさんの真剣さが伝わってきました。

その中で特に印象に残った質問が「瞑想したいのに集中が続かない。何に対して瞑想したらいいのか?」。サーナンダさんの答えは、「自分がそのとき一番関心のあることに瞑想しないと、あやふやになり雑念が湧いて来る。対象を逃さないよう、心の注意を貼付けていく必要がある。単なる関心事項では難しい、切迫感のある必死になれる対象に瞑想してください。そのためには何のために瞑想するのかを考えることが大切」。そうか!目的をはっきりさせないと瞑想するのって難しいんだ!ということに改めて気づかされました。

①講座写真
合宿会場は大広間。畳の香りがしていました。

瞑想実習は講座の合間に行なわれ、15分から徐々に長くなり最終的に55分と、合宿の中では合計2時間以上も瞑想しました。普段お家では1分も座れないと言っていた人も、静かに座り切れていました。すごいですね〜!やはり共に学ぶ仲間と一緒に瞑想すると周りに助けられる気がします。普段の生活での言葉にできないモヤモヤ感を整理でき、すがすがしい気分になったという感想も頂いてます。
②瞑想写真
早朝6:30から約55分瞑想しました。静かな集中感が会場を満たしていました。

そして合宿の醍醐味は、やはり食事や就寝前の交流です。初めて顔を合わせる方々ですが、今の自分を変えるキッカケにしたい!という合宿にかけるそれぞれの想いを聞けました。瞑想は一人で行なうものですが、正しい知識無しに行なうと迷路に迷い込んだように自分がやってる瞑想って正しいんだろうか?と不安になりますよね…
識別の瞑想について識別する基準がよくわからないという方に、ブッダの教えである常浄楽我を基準に識別できることを伝えると、「その基準で自分の中の問題について瞑想してみます!」と目をキラキラさせながら言う姿が印象的でした。

自分がどうなりたいのか?理想を持つことの大切さと理想に近づきたい!という情熱が瞑想する上でとても大切であることを合宿で学びました。アンケートでも、「なぜ瞑想するのか?」ということが、合宿を終えて重要であり基本であると思いました、という感想を頂きました。
瞑想とは、あくまで手段であって目的では無いのです。ぜひ学んだことを少しずつでも良いので日常で実践してみてください!きっと新しい発見があるはずです☆

本当に充実した瞑想合宿でした!
みなさんと一緒に瞑想できる機会がまたあればいいな!

モリピー


瞑想の感触

瞑想をしているとき、「あー懐かしいな〜」という気持ちが湧いてくることがあります。そうなると、身体と心はじわーっと溶けていき、何もない静かな中で心底ほっと安心する感覚があります。安心の中にすっぽりと包まれているとそれは時とともにじわじわと歓びに変わり、歓びが身体の奥底から湧き出てくるのです。

瞑想のあと、このようになる時はどうしていつも「あー懐かしいな〜」という所から始まるのかな?と思っていました。懐かしいと思うということは、過去にそれを感じたことがあるからだと思うのです。心底安心するあの感覚、いったいいつ感じたのでしょうか。大人になってからではないな〜と思い、子供の頃かな?と思い出してみても特に思い当たることはありません。いつも不思議だなと思っていました。

以前、そのことをヨギさんに尋ねたことがありました。

「そのような体験はあたかも身体の中から、中心から泉のようにやってくるものだと思います。そのほっとしたような懐かしさのような心地良さというものが感じたということは、それはもう取りも直さず自分自身の本当のふるさと――それはアートマンの存在そのものですよね。そこから万物が派生したから。本当の故郷をちょっと感じたということになる。だからまたそれを瞑想するときには、それを手がかりとしてもっていくのはかまわない。集中、瞑想は心の力を使ってやりますから、だからそれをもって行なうのはかまわない。でもそれにあまりこだわり過ぎないで、静かにそういう思いに沈潜していったときに忘れてしまったら、それは自動的にまた進んでいくことになりますから、それでいいです」

今でも瞑想に座るとき、その感触が身近に感じられる時はそれを頼りに瞑想することがあります。本当は、瞑想している時だけでなく、いつもいつもずっとあのようにいられたらな……と思ってしまいます。

夕立の後の鴨川、とても蒸し暑いけれど、川の近くは風が気持ちいい。

夕立の後の鴨川、とても蒸し暑いけれど、川の近くは風が気持ちいい。

 

 


真理の学びと瞑想

1997年から発刊されている会報誌『パラマハンサ』は隔月で発行されていて、MYM会員として年会費を払われた方であれば誰でも読むことができます。サットサンガ(真理の集い)での質疑応答、ヨーガの教えや、ヨーガを学ぶ者の実践談、またヨーガの料理の特集など、読み応えのある内容となっています。今回は№116の『パラマハンサ』の「プラナヴァ・サーラ」より、師の教えを抜粋してお伝えいたします。

パラマハンサ (21)

人生の目的は真実を実現することです。その叡智と方法がこのヨーガにあります。

間違ったものへの欲望、あるいは執着というもの、そういう煩悩の中の無知が真実を隠しているようなものなのです。だからまず無知を暴き出して、それを少しでもなくしていくようにすれば、心は解放されて自由になって、透明のようになっていきますから。そうすると真実が出やすくなる状態になる。その時に瞑想を深められたら本当の自分の存在というものを体験することになるわけです。これが瞑想のいちばんの醍醐味というか、ぜひ知ってほしいところです。それまでにもどんなことだって、こんなことあんなことの本質を知りたければ、集中して瞑想すればすべて分かると思います、何でも。そういう意味では瞑想はおもしろいよ。いろんなことを何でも明らかにしてくれる。でもそれをうまくやるためには常々心の動揺をなくしておくことね。心がイライラしていたらだめ、絶対うまくいかない。だから心を落ち着かせておくこと。そして呼吸と身体を制御しておけたらいいですね。

無知というのは、この世界は永遠ではないのだけれど永遠であるかのように思ってしまうこと、本当の自分でない心のエゴを自分だと思ってしまうこと、そして完全なるもの、浄らかなるもの、純粋なものをこの世界の中で探そうとしてしまうこと、実は苦しみに変わってしまう幸せを本当の幸せだと思ってしまうということです。さらにはこの無知から、好きなものに執着をしてしまうこと、嫌いなものを避けようとしてしまうこと、肉体をもった命に執着をしてしまうということ、そういった根本的な煩悩が、具体的に欲望として発展していくのだということを正しく理解し、瞑想によって心からさまざまな執らわれをなくしていくと、真実を体験することになるのだと教えてくださいました。

心というのは長い輪廻転生をしてきているといわれている。過去には数え切れない生涯を送ってきているかもしれない、またそれは未来どれだけ続くか分からないともいわれているのだけれど、まぁそんな過去と未来はどうでもよくて、今こうしてそのカルマの鎖を打ち破る縁をもったということは、ものすごい大きな出来事なんですよ、これは。これほど吉祥なことはない。全歴史の全宇宙の中でこれ以上めでたいことはないのですよ、実は。だからぜひ真実を実現してほしいし、それをしっかりと着実に歩んでいってほしいし、そのためにはこういった真実を学ぶということはとても大事。それは大学とかでは教えてくれないからね。だからやっぱり生きて悟った人の言葉を直接聞かないとだめだし、そういう人たちの貴重な言葉が残されているのが聖典と呼んでいるものです。

師は、聖典を読んで真理を学んでいくこと、それから体を使って何らかの訓練、アーサナ(ヨーガのポーズ)であったり、キールタンを歌ったりすること(神の御名を唱え歌う)、それから真理や神、あるいは真我というものに対して瞑想をするという、この三つのことを毎日行なうことが実現の道であると説かれました。師は繰り返し、繰り返し、私たちの心の中の無知を取り除き、真実を実現せよと教えてくださっています。

そしてここで、『バガヴァッド・ギーター』の中の教えをひとつご紹介しましょう。

ある人は本当に真実を見出し、驚きのうちにそれを理解する。ある人は理解を超えた驚異としてそれを語る。ある人はその驚異を噂話に聞く。ある人は人の話にそれを聞いても全く理解しない。

さて私たちは、本当に真実を見出し、驚きのうちにそれを理解する者でありたいと、思いませんか。

ダルミニー


さまらさの台所 7月

昨日は月に一度のさまらさの台所の日でした。暑くなってきたのでヨーガ・ヴィハーラを飛び出し、北区にある北青少年活動センターでの開催となりました。毎週日曜日の10時からは、下鴨で、ヨーガ・瞑想クラスが行われていますが、今回の会場がすぐ近くだったことや、台所の開始時間が15時だったこともあり、日曜日のクラスに通っている方が数名来てくださいました。全員で15名ととてもにぎやかな会になりました!

今回のメニュー!夏野菜をたっぷり使って作るのは、
夏野菜
夏野菜の南蛮漬けです!!
南蛮漬け
南蛮漬けは、あじやししゃもなど、お魚を使って作るのが一般的です。骨まで柔らかくするためにお酢がしっかり効き、味の濃いものが多いですが、さまらさでは、お野菜だけを使って作るため、昆布だしを使い、野菜の旨味を味わえるように優しい味に仕上げています。揚げた野菜を熱いうちに南蛮酢に漬け込むことで少しの時間でもしっかりと味を含ますことができます。

調理中は和気あいあいと、でも真剣に調理しました!

サラニーの班

隆史

アーナンディ

食後には、長年さまらさの台所に通ってくれているT君が日々の実践について話をしてくれました。(今期から長年クラスに通ってくれている方に日常の実践について3分間スピーチを頼んでいます)

ヨーガを始める前の食事は「めちゃくちゃだった」といういうT君。さまらさの台所に毎月通いながらこれまでのパラマハンサ(機関誌)に掲載されているメニューを作り料理を学んだと言います。共同生活を始めることで遠方から来るグルバイ(ヨーガの仲間)の食事を作る機会にも恵まれ、今まで学んできたさまらさのメニューだけでなく、相手が喜ぶものが何かを考えて作るようになったようです。一緒に住んでいる仲間とメニューについて話し合い、段取りを考え作った食事を仲間と味わう時、相手の歓びを自分の歓びと感じると話されました。そのように集中して行為していくことは、料理だけでなく、いろいろな場面で必要とされ、相手のために奉仕していくきっかけとなっていったと話してくれました。

初めて参加された方からは、料理の実践に関する質問だけに留まらず、なぜヨーガをしているのかといった質問も飛び出し、とても有意義な時間となりました。

お話のとき

日々の実践は個々人の日常の中で黙々、淡々んとされているのでなかなか聞く機会がないものです。こうして毎回いろんな人の実践体験を聞かせてもらうことで自分自身の実践の手がかりになりますね。


みすぼらしい衣の修行者

毎回、本願寺出版社の「ブッダ」より、その教えをご紹介しています。今までいろいろな修行者の方に登場していただきましたが、今回の修行者はピッパリさんです。

ブッダ (20)

「ピッパリという比丘(びく)を知っているか」

「いいえ」と若い比丘は首を振った。真新しい衣を身につけ身体には汚れひとつなかった。サンガ(修行者の集まり)に入ってまだ間もないのだろう。

その時、道の向こうからぼろぼろの衣を身にまとった比丘がふらつきながら歩いてきた。何かにつまずいたのか、比丘は転び、泥にまみれていた。驚いて家から出てきた男に食べ物を乞うように器を差し出した。が、施しは受けられず、大声で罵られ足蹴にされて泥の中を転がった。

「ひどいですね。男もあんなに乱暴にすることはない。比丘もあれほどむさ苦しい格好ではなく、身綺麗にして、清らかな衣でいれば供養は受けられるものです」

「ピッパリは、バラモンの息子で上等な衣を着ていた。ある時、ピッパリは大衣をたたんでブッダのために坐を作った。柔らかな布だとブッダは褒められた。ピッパリはすぐさま自分の衣とブッダの衣を交換した。ブッダは使い捨ての布で作った古い衣を着ておられたのだ。ピッパリはその時以来、使い捨ての布で作った衣しか身に付けなくなった。古くからの出家の原則を厳しく守る頭陀行(ずだぎょう)に専念することにしたのだ」

比丘は泥を払い落とし背筋を伸ばすと、何事もなかったかのように、隣の家の戸を叩き応対に出たものに器を差し出した。

「彼こそがかつてのピッパリ、今はマハーカーシャパと呼ばれている。頭陀行第一と称される比丘だ。お前は彼に付いて学べ」

一喝された比丘は転がるようにして、みすぼらしい衣をまとった泥だらけのマハーカーシャパのあとを追った。

「頭陀」とはサンスクリット語の「ドゥータ」という言葉の音訳であり「払い落とす」という意味らしいです。何を払い落とすのかというと衣食住に対する貪欲を払いのけるため、出家者が行なう修行のひとつで、具体的には最低限必要な食べ物を托鉢して歩くことや、托鉢僧そのものを指す言葉でもあるそうです。

二千五百年前のインドと現代の日本とでは同じようにはいきませんが、その時代の修行者がどれほど真剣に真実を求めて修行を積んでいたのか、どれほど真剣にブッダの教えを生きようとしていたのか、思いを馳せるのは、私たちにとってとても刺激になり勇気を与えてくれるものです。

師は説かれます。

人生の目的は真実を実現することです。その叡智と方法がヨーガの中にあります。

真実、それが何かを学んで、しっかりと理解して行動に移すことが大切です。いわゆる世間体とか社会的通念とか常識とかいうものによって私たちの心がどんなに縛られているか、それを打ち破って真実を求めるということが、どれほど勇気のいることなのか分かりません。信念をもって、真実だけで心が満たされるように行為していくことが大切です。

ピッパリの行為からは、ブッダの教えを忠実に生きて、真実に通じる自分の道を自分で探しだし、それだけを行為した揺るぎない信念というものを感じることができます。人によって顔が違うように、心もまたさまざまな様相を呈している、今の時代には、それぞれが自分にあったヨーガの道を歩くことができます。それを正しい方向に導いてくださるのがヨーガの師です。それぞれが信念をもって、真実に通じる自分のヨーガの道を歩いていこうではありませんか。

ダルミニー


夏の瞑想合宿ー洋平編

人生で本当に大切なものって何でしょうか?

僕は学生の頃、漠然とだけど、半ば必死にそれを探していました。
旅に出たり、多くの音楽を聴いたり、本を読んだり……

そんな時、僕は「ある人」に出会いました。
その人は何でも答えてくれ、どうしてこんなにいろんなことを知っているのかと思いましたが、「本はほとんど読まない」ということでした。
また、本屋にあるほとんどの本は「ゴミ箱に棄てたらいい」とまで言い切っていました……(笑)
どうやらその人は、「瞑想」によっていろんなことを知ったということが分かりました。
ただ、その人が勧めてくれる本もいくつかあり、それは「聖典」といわれるものでした。
それを読むようになってからは、不思議と今まで好きだった作家の本が全く読めなくなりました。
「おいおい、洋平、影響され過ぎてるんちゃうの? マインドコントロールちゃうの?」
当時、周りの友人からはそのように思われただろうし、誰かにそんなことを言われたような気がします。
でも僕自身、そんなことはあまり気になりませんでした。
なぜなら、真理の言葉やその人の存在の方が、自分の人生で本当に大切なものだという実感があったからです。

ここで、僕の好きな聖典のあるエピソードを紹介したいと思います。

十九世紀インドのカルカッタに、シュリー・ラーマクリシュナという覚者がいました。
彼が住んでいるドッキネッショル寺院に、後に弟子となるニランジャナーナンダという青年が訪ねてきました。
ニランジャナーナンダは少年時代から降神術師のグループと交わっており、ある種の心霊力を発揮するほど優秀な霊媒だったそうですが、シュリー・ラーマクリシュナは彼に次のように尋ねました。

「もしおまえがお化けや幽霊のことを考えるなら、おまえはお化けや幽霊になるのだ。また神のことを考えるなら、おまえの一生は神のようになる。どちらがよいかね?」

「もちろん後者の方です」と答えたニランジャナーナンダは、この日から不思議とシュリー・ラーマクリシュナに魅了されていき、弟子になったそうです。

このエピソードから私が感じたのは、「考える力」って、とても強力だというだということです。
そして、何について考えるか、その「対象」が重要だと感じました。

「真理はまず聞かされ、考えられ、瞑想されなければならない」

という聖典の古くからの言葉があります。
真理についての考えが高じていくと、それは瞑想状態になり、その究極にはそれと一つになっていくそうです。
この人生で何か考えるんだったら、不確かだったり儚いことではなく、真理や神という永遠で絶対の「本当のもの」について考え、自分もそのようになっていきたいですよね。

さて、何度かこのブログでもアナウンスされていますが、この夏、滋賀県の近江神宮の勧学館(←かるたの聖地です)にて瞑想合宿があります。
私も参加するのですが、この合宿で真理や神について共に学び、考えて、そして瞑想してみませんか?
ご関心のある方は、ぜひご参加ください!
すべての方の人生において、きっと素晴らしい学びと経験になると思います!!!

image 近江神宮にて”真理”を瞑想する

瞑想合宿のご案内ー洋平からでした。
(今回から、ブログメンバーに加わらせていただきます。今後ともよろしくお願いします)

飯尾洋平