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ラーマクリシュナの福音

皆さん、こんにちは
暮れも押し迫まってきましたね。今年一年、どのような年でしたか?
昨日よりも今日、今日よりも明日、日々、より良い自分でありたいものですね。
さて、今日も「ラーマクリシュナの福音」よりご紹介いたします。

シュリー・ラーマクリシュナ

ある日の土曜日、シュリー・ラーマクリシュナはラームの家の階下の客間で信者たちに囲まれて話をしておられた。最愛の娘を亡くしたばかりのブラーミンの婦人が、その悲しみを癒せないものかと、北側のドアのそばに立って話を聞いている。

ラーマクリシュナ「先日、ここにある男がやってきた。数分間坐っていたが、やがて『我が子の「月の面輪」を見に、帰りとうございます」と言ったものだ。私は自分を抑えかねて『お前は神の「月の面輪」より息子の「月の面輪」が見たいのか!出ていけ、この馬鹿者』と言ってやった。
神のみが実在、他のすべてのものは非実在、というのが真理だ。人々も、宇宙も、家も、子供たちも、こういうものは全部、魔法使いの魔法のようなものだ。魔法使いは杖をたたいて『不思議、不思議、摩訶不思議!』と叫び、見物人に向かって『さぁ、この壺の蓋を取り、鳥どもが空中高く舞い上がるのをごろうじろ!』と言うだろう。だが魔法使いだけが本当にいるのであって、彼の魔法は実存しないものだ。実存しないものは一秒くらい存在して消えてしまう。
シヴァがカイラース(シヴァ神の聖なる住まい)に坐っていらっしゃった。従者のナンディがそばにいた。突然恐ろしい物音がした。ナンディが『尊いお方よ、これはどういうわけでございますか』と尋ねたら、シヴァが『ラーヴァナ(ラーマ神に成敗された魔王)が生まれたのだ。そのことを示す音だ』とおっしゃった。数秒の後にもう一つ、恐ろしい音が聞こえた。ナンディが『今度は何の音なのでございましょうか』と尋ねると、シヴァが微笑して、『今、ラーヴァナが死んだのだ』とおっしゃった。誕生も死も魔法のようなもの、魔法は一秒間ほど見えていて、そして消えるのだ。
神だけが実在であって他の一切のものは非実在だ。水だけが実在であって水中の泡は現れたり消えたりする。それらは自分たちが生まれてきたその水の中に消えていくのだ。神は海のようなもの、そして生き物はその中の泡だ。彼らはその中で生まれてその中で死んでいく。子供たちというのは、一つの大きな泡のまわりに立っているいくつかの小さな泡だ。神だけが実存だ。彼への愛を養うよう努め、彼を悟る方法を見出しなさい。悲しんでいても何も得られはしない」

私たちの師は、悟りとは夢から目覚めるようなものだと教えてくださっています。

誰でも眠りから目が覚めたとき、夢の中で一喜一憂していた自分を一笑に付すように、真実在に目覚めれば、現実と思っていた世界も夢幻と知るだろう。

                   サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

現実だと思っているこの夢のような世界で、私たちはああでもない、こうでもないと右往左往しています。人の生も死も宇宙から見れば、ほんの一瞬のことなのでしょうか。
私たちは生まれることも死ぬこともない、絶対不滅の存在、永遠に続く純粋な意識なのだと師から教わってから、死ぬことは不幸なことでも、恐れるものでもないということが分かり、安心したのでした。この生のある間に、神だけに、真実在だけに心を思い留めておくことができること、それこそがこの夢の世界においては、いちばん大切で幸せなことなのだと学んだのでした。
あぁ、早くこの夢から目覚めて、真実となれますように。

ダルミニー


サットサンガより ブッダの悟り

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん こんにちは
十二月になりましたね、十二月のことを「しわす」と言いますが、その意味と由来は定かではないそうです。十二月は年が果てる、年果つ、しはす、しわすになったという説もあるそうです。師も走る、師走といわれていますが、私たちの師はいつも泰然とされていますので、本当の意味はどうなのだろうと思ってしまいます。
さて前回のブログにもありましたが、十二月八日はブッダが悟りを啓かれた日でもあるというわけで、今回のサットサンガはブッダについての教えが多くありました。

質問者がブッダの説いた、弦は張りすぎても緩みすぎてもいい音は鳴らないというふうに、弦に例えられる中庸の教えについてふれた時のことです。

師「ブッダが言うところの弦の張り具合というチューニングは、当時行なわれていた一般的な修行、一方には苦行というものがあり、もう一方では犠牲供養という快楽的なものもあり、そのどちらでもない、中道の在り方がある、それは苦行のように身体を痛めつけることではなく、健康な身体と健全な心を養いながら、その中でこそ正しい瞑想が行なわれるということを諭した言葉なんです。中庸、中道といわれるところ、まさしくそれがヨーガの道でもあるわけです。
でも、悟りへのあるいは神への願望というのは強烈でなければならない。また純粋にそれを保っていかなければならない。悟りや神に心が全面的に委ねられてしまえば、四六時中、座っていようが立っていようが、何かをしていようが、いつも神への憧れや悟りへの煮えたぎるような思いがやってきます」

師「ブッダは、当時シッダールタといわれていた時代に六年間の苦行を行なっています。当時は苦行という体系が当たり前のように蔓延していたと思われるので、シッダールタもそれを試み、しかも語られるところによれば、過去にも未来にも現代にも、その当時にも、匹敵する者はないほどの苦行を行なった。
けれども悟れなかった、ということを実証したんです。それで棄てた。
伝説に語られるところによれば、衰弱して骨と皮のような状態になった身体をスジャータという娘のくれた乳粥で身体を回復していくわけです。そこに健全な心の境地というか、そういう閃きが生まれたんだと思う。そして静かに菩提樹の下に座って、そうして悟りを得たと、それが十二月八日のことであったということになります。ブッダは必死に可能な限りの苦行を自らに課せたと語られています」 

師が教えられる煮えたぎるような思いとは、例えばそれはシュリー・ラーマクリシュナが神を見ることができないのであれば、その喉をかき切って死んでしまおうとした思いと同じ。そして例えばそれは慧可が弟子入りを乞うため、達磨大師に切り落とした自分の腕を差し出した思いと同じ。例えばそれは明恵上人が世俗にまみえることなく仏道の志を貫くため、自分の耳をそぎ落とした思いと同じ。身命を顧みない、真実の実現のためへの執念と同じなのだと思いました。 

ブッダの凄まじいまでの悟りへの執念、煮えたぎるような思い、ブッダを語られた師のお言葉が、そこにいる求道者たちのハートに火を付け、燃え上がらせたのを私は感じ、胸が熱くなるのでした。

私たちの心にも、その煮えたぎるような思いがやってきますように。
来年もさらなる飛躍の年となりますように。

ダルミニー

 

 

 


スジャータの施しとブッダの悟り

ブッダは断食の苦行をやめ、村の娘スジャータから乳粥の施しを受け、瞑想の座につきました――

私は20歳の時、このスジャータ村を訪れました。
2500年前、ブッダが生きていた当時と変わっていないであろう田園風景と人々の暮らしがそこにはありました。

あれから13年経った今、私はこのスジャータのエピソードから、「人は何のために生きるのか?」ということを考えさせられます。

ブッダと同じ時代、マハーヴィーラという修行者がいました。
彼は生涯において厳格な戒律に従い、すべての生物に対して細心の注意を払って不殺生を実践し、最後は断食の修行で命を終えたといわれています。
不殺生の究極ともとれるマハーヴィーラの生き様からは、彼が命を懸けて「真理」に向き合っていた凄まじさが伝わってきます。

一方、ブッダは六年間の苦行の末、「健康な体と心を持ち合わせていなければ、悟りを啓くことは不可能だ」として、スジャータから乳粥の施しを受け、瞑想の座につきます。

ブッダとスジャータ。菩提樹の後ろに描かれている5人の修行者はブッダが苦行をやめたことを誹るも、後にサールナートでブッダから最初の説法を授かり(初転法輪)、弟子になったといわれています。

そして、その瞑想においてブッダは次の言葉を言ったといわれています。

「無知の中で100年生きるより、真理の中で1日生きる方がいい」

スジャータの施しとブッダの身体を満たした乳粥、瞑想の座についた大地、風や寒さをしのぐ大きな菩提樹、そしてブッダの大いなる覚悟――

一切が真理実現のために存在しているシーンが思い浮かびます。

12月8日はブッダが悟りを啓かれた日です。

ブッダの心境に思いを馳せ、そしてその偉大なる存在の御足に礼拝します。

ブッダが悟りを啓いた菩提樹。スジャータ村から少し歩いたところにありました。

 

ゴパーラ


バクティ・サンガム キールタン

天王寺にあるプレーマヨーガサークルで12月5日(火)にバクティ・サンガムが開催されます。http://www.mahayogi.org/classes/bhakti_sangam(詳しい場所と時間はこちらから)
熱心にヨーガを学ぶ尾崎さんが、バクティ・サンガムとキールタンの魅力について書かれた文章をご紹介いたします。

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先週のクラスは「バクティ・サンガム」でした。年に4回しかない貴重なキールタンのクラスですので毎回とても楽しみにしているのですが、今回はいつもと違いました。というのも、私はここ最近ヨーガに真剣に取り組むことができなかったのです。

きっかけは些細なことで動揺し、ズルズルと心に振り回されている自分に気づいたことでした。思い通りにならないことに直面して苦しいばかりか、ヨーガを学んでいるが故に心を制御できないことに対して不甲斐なさも感じ、また苦しくなる。同じ苦しさを感じるのならヨーガを知らない方がマシだったのではないか?何のために苦しんでまでヨーガを学びたいと思うのか?また、家族と暮らす身でヨーガを学ぶことに窮屈さを感じていました。どちらも大切で優先させたいけれど、どうすればできるかわからない。自分にはできない。 かと言って、今さらヨーガの教えなしに生きていくなんて到底無理だとわかっている。それなら今まで学んだ少しのヨーガの教えと時々アーサナをやっていれば、それでいいんじゃないか?そんな事ばかり考えていました。 もう、心はドロドロとしたエゴでいっぱいでした。

そんな最悪の状態でしたが京都のヨーガの師のところへ行く機会があり、そのままの気持ちを聞いていただきました。師はいつもの穏やかな笑顔で「とにかく少しでいいから毎日アーサナと瞑想をすること。続ければ必ず変わるから」と仰られ、やはり続ける他に道はないのだと気持ちを新たにしましたが、どこか靄のかかったスッキリとしない気持ちのまま「バクティ・サンガム」を迎えました。

今回は「Nanda La La」というゴーパーラ(クリシュナの幼少期の名)を歌ったキールタンを教えていただきましたが、メロディが頭に入ってきません。神に向けて歌うなんてほど遠く、必死に歌詞カードを追っているうちに1回目のキールタンが終わってしまいました。続いて、ミラバイさんがゴパーラ・マーのお話をしてくださいました。それを聞いて私のハートは大きく揺さぶられました。

ゴーパーラ・マーは幼くして未亡人となり、貧しい生活をおくっていましたが、とても信仰心が篤く、朝は3時に起床し、夜遅くまでジャパ(神の御名を詠唱するマントラのようなもの)を唱えるなど、苦行を行っていました。また、ラーマクリシュナを純粋に愛し彼のもとへ足しげく通っていました。ある朝、いつものようにジャパを唱えていると左側にラーマクリシュナが座っておられるのに気づきます。そっとその腕に触れた途端、その姿は生後10か月ほどのゴーパーラのビジョンに変わりました。ゴーパーラはゴーパーラ・マーを「お母さん」と呼び、イタズラをしたり甘えたりしてきます。彼女はゴーパーラの世話に没頭し、ジャパや苦行をするどころではなくなってしまいました。

夜が明けるとゴーパーラのビジョンを抱いてラーマクリシュナのもとへ向かいました。ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナに昨日あったことを涙ながらに高揚しながら話します。その間ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったりするのを見て、ラーマクリシュナとゴーパーラは同じなのだと気づきます。その数日後、ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナから「もうジャパはしなくていい。おまえは一切を成就したのだ」と言われました。「だが、私の体が健康であるように修行をしてくれるか?」とも言われ、ゴーパーラ・マーは「これからは全てあなただけに捧げます」と誓い、一層修行に励みました。ゴーパーラのビジョンは2か月間ほど続き、その後も瞑想すればゴーパーラが彼女の前に現れたそうです。


ゴーパーラはバターが大好物。
こっそり食べていたのがお母さんに見つかってしまいました。

私はこのお話を聞いていたとき、ゴーパーラのビジョンがミラバイさんの周りをぴょんぴょん飛び跳ねて遊んでいる姿が見えた気がしました。そうしたら、ゴーパーラが自分の家族の姿と重なり涙が溢れてきました。そして、ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったり…という所で、私は大切な事を忘れているのに気づきました。

「人は皆、神なる存在である」ということです。もちろん家族も一人一人が神なる存在であり、家族に奉仕することは神に奉仕すること。私がヨーガか、家族か、と悩んでいたことは全くの愚問だったのです。私は、家族という無償の奉仕を捧げることができる環境を与えて頂いていたのに、それに気づかないどころか、ヨーガと真剣に向き合えない言い訳にしていました。2回、3回と「Nanda La La」を歌うたびに今まで否定的に考えていたことが、全て正反対であったこと、師からたくさん恩寵を受けていることに気づき涙が止まらなくまりました。

いつもはキールタンを歌うと、なんだかわからないけど喜びが溢れ涙が出てくるのですが、今回は歌いながら様々なことに気づき、終るころには、それまで感じていた靄はなくなりスッキリした気持ちになりました。本当に一生懸命、神に集中してキールタンを歌えば、それは識別瞑想をも上回ることがある。と、ミラバイさんが経験談を話してくださいましたが、ほんの少しそれを味わえたのかもしれません。

やっぱりキールタンって、いい ヨーガって、面白い


バクティ・サンガム キールタン 

10月から新しいキールタンに挑戦しています。先月までシヴァ神を讃えるキールタンを歌っていましたが、今月からはクリシュナ神、12月まで同じキールタンを歌います。

タイトルは『Murali Krishna』、みなさん、バーガヴァタプラーナ(聖典)の中にあるクリシュナ神とゴーピー(牧女)たちの美しい愛の物語をご存知ですか?このキールタンはその物語の最後に出てくるラーサリーラーを思わせる歌詞と、甘美なメロディーが特徴的なキールタンです。

歌詞の一部を紹介します・

Murali Krishna Mukunda Krishna Mohana Krishuna Krishna Krishna

Murari  横笛を奏でるクリシュナ
Mukunda  解脱を与えるもの(クリシュナの別名)
Mohana  帰依者のハートを魅了するもの(クリシュナの別名)

意味は、クリシュナという神の御名のみ、ただただ、クリシュナと繰り返しているのです。

先日のクラスの中でミラバイさんが言われた印象的な言葉をご紹介します。キールタンを歌うときは「言葉と思いを一致させる」この歌詞の中での言葉とは神の御名のみ、それはイコール神そのものです。そして、「自分の心が神の御名に染まるまで繰り返し歌ってください」と言われました。

私にとって神なる存在はただ一人、私の師であるヨギさんだけです。クリシュナ神のキールタンであっても、シヴァ神のキールタンであっても、神の御名を口にするときはヨギさんだけを思っています。そうして一曲のキールタンを歌うと、ハートはどんどん大きくなり、神のみで満たされ、圧倒される時があります。他のものが入り込む余地はなく、ただ、神との繋がりだけを感じる至福の時となります。

今月はヨギさんのご聖誕をお祝いするジャヤンティが行われます。もっとも大切な日に愛する人と共に過ごすことのできるその日を心待ちにしています。


ラーマクリシュナの福音

皆さん、こんにちは
十一月二十三日は、私たちの師である、サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの御聖誕日です。師は、私たちに、人間として生きる本当の意味を教えてくださいました。それは私たちの人生にとって大きな歓びの泉となっています。尊敬する師のお歓びの日に精一杯の感謝を捧げたいですね。その吉祥な日はもうすぐです。

さて今日も「ラーマクリシュナの福音」よりご紹介いたします。

シュリー・ラーマクリシュナ

ある日の午後三時、シュリー・ラーマクリシュナは若い信者たちと共に大いに楽しんでいらっしゃった。会話はハヌマーン(ラーマ神に忠誠を尽くした猿の英雄)のことに及んだ。彼の絵がシュリー・ラーマクリシュナの部屋にかかっているのだ。

ラーマクリシュナ「ハヌマーンの心境をまあ想像してごらん。彼は金にも、名誉にも、衣食にも、他の何ものにも頓着しなかった。神だけを求めていたのだ。彼が、ラーヴァナの宮殿で、水晶の柱の中に隠してあった天上の武器を奪って逃げようとしたとき、マンドダリ(シーターを誘拐した魔王ラーヴァナの妻)は、彼を下りてこさせ、武器を落とさせようとさまざまな果実を見せて誘惑し始めた。しかし、彼はそうやすやすと欺かれはしなかった。彼女の誘いに答えて、この歌を歌ったのだ」

私に果実が必要か。私は人生を本当に実り豊かにする果実をもっている。
私のハートの内にラーマの木が生えていて、それの果実として救いを実らせる。
ラーマという願望成就の木の下に、私はくつろいで座り、何でも欲しい果実を摘む。
しかしもしあなたが果実をうんぬんするならーー
私は普通の果実の乞食ではないぞ。
見よ。私は行く、あなたに苦い果実を残して。

この世の中には、いろんなかたちの幸福や自由があるかのようです。あなたの幸せとは何でしょうか?あなたが自由と感じるものは何でしょうか?あなたはどんな果実を欲していますか?もしかしてちっぽけな幸せや自由に執われているのではありませんか?
ヨーガでは、永遠でないものに永遠をみること、純粋でないものに純粋をみること、至福でないものに至福をみること、私でないものに私をみること、これを無知といい、このように世の中に対して間違ったものをみて、求めてしまうことが、苦しみや悲しみを生み出している、そうではなく、この世を正しくみて、正しく判断し、正しいものを求めなさいと教えてくれています。

人生の目的は真実を実現することです。
                 サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

私たちの師は、この多様な世界に、生まれ、変化し、消滅するものではなく、自分自身の奥にある、永遠なるもの、真実の自己、真理あるいは神を求めなさい、それを実現しなさいと教えてくださっています。

自分のハートのうちに真実を実現させることができたら、もうこの世で何も恐れることもなく、常に平安で円満、歓びに満ちて暮らしていくことができるのでしょう。ヨーギーは甘そうにみえて苦い果実ではなく、真実の果実を求めて生きていくのだと思いました。

ダルミニー


『あるヨギの自叙伝』を読んで(4)――マスター・マハサヤ――

今回は、宇宙の母と愛を語らう至福の聖者マスター・マハサヤ、通称「M」について紹介させていただきます😃

十九世紀インドの大覚者シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサの弟子で、聖典『ラーマクリシュナの福音』の著者であるM。
その彼と、若き日のヨーガーナンダが出会っていることに、またヨーガーナンダが以前住んでいた家にMが住んでいるというその深いつながりに、とても驚かされます😲‼️

二人は何度か、シュリー・ラーマクリシュナが聖母カーリーを見神したダクシネスワのカーリー寺院を一緒に訪れています。
『あるヨギの自叙伝』には、二人で初めてそこに詣でた時の様子が書き記されています。

われわれは、九つの屋根が立ち並ぶカーリー寺院に入っていった。マスター・マハサヤの顔は至福に輝いていた。彼は、宇宙の母との尽きざる愛のささやきに沈潜していた。彼が聖母様の御名を唱えると、恍惚に酔った私の心は蓮の花びらのように千々に砕けてしまうかと思われた。
二人はそこを出ると、境内を散歩した。そしてタマリスクの茂みのわきにしばらくたたずんだ。この木の放つ特有の香りは、マスター・マハサヤが私に与えてくれる天のマナ(食物)を象徴しているかのように思われた。彼は深い祈りを続けた。私もまた、桃色の羽毛のようなタマリスクの花に囲まれて、草の上に身動きもせずに座っていた。私の魂は、しばし肉体を離れて天に舞い上がった。

もうこの文章全体から、自然万物を産み育てる宇宙の母が喚起させられ、ヨーガーナンダがMの存在に魅了され、陶酔していたことがありありと感じられますよね。

ところで、私の先輩弟子であるヨーガダンダさん(ヨーガーナンダではありません😦✏️)は、ヨーガーナンダがMに花の首飾りを捧げるところを読むと、いつも涙が出ると話していました。
私は師に、そのシーンがどういう意味なのか尋ねたところ、次のように答えられました。

「インドで神像に花の首飾りを捧げるのを見たことあるやろう? つまり、ヨガナンダはMを神と見ていたということなんや」

私は改めて、そのシーンを読み返してみました。

毎日夕刻近くになると、私はアムハースト通りに足を運んだ。そして、マスター・マハサヤの聖なる杯からあふれる甘露のしずくを求めた。今まで私は、無条件の尊敬をもって人の前にひざまづいたことがなかった。だが今は、マスター・マハサヤの足跡によって浄められた土の上に一緒に立っていることさえ、無上の特権のように思われたのである。
「先生、このチャムパックの花輪をどうぞ先生の頸にかけてください。私が先生のために特別にこしらえたものです」
ある晩、私は花輪を持ってマスター・マハサヤを訪れた。しかし彼は恥ずかしそうに、そのような栄光を受ける資格はないと言って辞退するばかりだった。しかし、私の落胆する様子を見ると、とうとう笑いながら承諾した。
「われわれはともに聖母様の弟子だ。だからそれを聖母様への捧げものとして、この肉体の神殿に掛けておくれ」

捧げるものと捧げられるもの、双方が神の御前で謙り、その純粋さで光煌めいている、本当に美しいエピソードだと感じました🌺

 

ゴパーラ


ラーマクリシュナの福音

皆さん、こんにちは
だんだんと肌寒くなってきましたね。いかがお過ごしでしょうか。十月一日から北野天満宮では、京都を代表する秋祭りである「ずいき祭り」が行なわれました。豊作を感謝する「ずいき御輿」が氏子地域を巡行し、五日間にわたって神事が行なわれるのです。昔から私たちは神様に感謝しつつ生きてきたのですね。
さて今日も「ラーマクリシュナの福音」より、その教えをご紹介いたします。  

シュリー・ラーマクリシュナ

満月後の第一日目の日曜日、シュリー・ラーマクリシュナは部屋の小さな寝台の上にお座りになっている。会話はカルカッタのマリック一族の分家の一つが祀っている女神シムハヴァーヒニ(ライオンに乗る者 母なる神)のことになった。
ラーマクリシュナ「この分家は今、不如意な状態にあり、住んでいる家も荒れている。壁や床には苔や鳩の糞による滲みが点在し、セメントやしっくいは崩れかかっている。だが、この一族の他の分家はみな繁盛しているのだよ。この家には繁盛のしるしが見えない。これをどう思うかね?要するに、誰でもが自分の過去のカルマの結果は刈り取らなければならないのだ。人は、過去生から受けついだ傾向の影響とプラーラブダ・カルマの結果は認めなければならない。しかしながら、その荒れ果てた家の中で、私は女神の顔が神々しい光を放っているのを見た。神像に神が宿りたまうことは信じなければならない」

シュリー・ラーマクリシュナはカルマの法則について説かれています。誰もが過去に何度も生まれ変わりを経験しているとヨーガでは教えられますが、その過去において行なった行為の反作用として必ず結果が生じる、その原因の結果を受け取ること、これをカルマの法則といいます。カルマは三種類あるといわれていて、それは矢筒に入った矢に例えられます。すでに放たれた矢、止めることも戻すこともできない、現世に発現しているカルマ、これをプラーラブダ・カルマといいます。そして放たれようとつがえられた矢、現世で新たに作り出されようとしつつあるカルマ、これをアーガミー・カルマといいます。そして矢筒に入ったたくさんの矢は、来世で遂行されるべく待機しているカルマで、これをサンジタ・カルマといいます。

今、私たちは、このプラーラブダ・カルマの影響のもと、生を受けて生きていますが、このカルマの法則を学べば、自分自身の過去からの行為の結果が今の自分の状況をつくっているのだということに気が付かされます。そうすると人と比べてどうのこうのということ自体が本当に無駄な思いなのだと考えざるを得ません。カルマを比べてもしかたがありませんね。誰を恨むこともできませんし、また喜ぶべきことがあるとすれば、それもまた私たちの過去の行為のおかげなのだと思いました。

私たちの師はヨーガを学び、欲望や執着、無知をなくしていくことで、アーガミー・カルマやサンジタ・カルマ、すべてのカルマを超越することができる、そしてそこに自らの真実が存在しているだと教えてくださっています。
シュリー・ラーマクリシュナもまた、カルマの法則に支配されている心のその奥に、真実の存在が光を放っているということを信じなさいと教えてくださっているのだと思いました。

聖者の教えはなんと私たちの心に安らぎと力を与えてくれることでしょう。
「自分自身の真実を信じ、愛し、生きていきなさい」
その言葉を支えに私は今日も生きているのです。

ダルミニー


『あるヨギの自叙伝』を読んで(3)――バドリ・マハサヤ――

「僕はゆうべ、ある集まりで、ヨギが床から1メートル以上も高く宙に浮かぶのを見たよ」
ある日、友達のウペンドラがやってきて、得意そうに言った。
私(ヨーガーナンダ)はにっこり笑って答えた。
「それ、誰だか当ててみようか。アパー・サーキュラー通りのバドリ・マハサヤだろ?」

今回は、空中に浮揚する聖者バドリ・マハサヤをご紹介したいと思います。

「ヨギは、ある種のプラーナヤーマーを行なうと体重が軽くなってしまうんだ。だから空中に浮いたり、蛙のように高く飛び跳ねたりすることができるんだよ。聖者の中には、正式のヨーガの行法を行なわなくても、神に対する信仰心が高まったとき、自然に身体が浮かび上がる人もいるそうだよ」

『あるヨギの自叙伝』の中では、空中浮揚に関してこのように述べられています。
しかしヨーガーナンダは、バドリ・マハサヤの空中浮揚についてはこれ以上触れず、この聖者の「放棄の精神」、そして「神を知覚すること」について書き記しています。
すでに子供の頃に莫大な財産を放棄してヨーガの道に入ったバドリ・マハサヤに、弟子は次のように話します。

「先生が、ご自分で神を求めるために、またわれわれを導いてくださるために、ご自分の財産や世の楽しみをすべて棄ててしまわれたことは、本当に感嘆にたえません」
聖者は穏やかに弟子の間違いを指摘します。
「私は、永遠の至福に満ちた大宇宙を手に入れるために、取るに足らないわずかなルピーとつまらぬ快楽を棄てただけだ。私は何も、自分の欲望を押さえ付けたわけではない。おかげで私は、天の財宝の分け前を楽しんでいる。それがどうして犠牲といえよう」

私は以前、ある方から「自分の人生は、我慢の人生であった」という話を聞くことがありました。
その方は特にそれを自慢げに話していたわけでもありませんでしたが、仕事と家庭のために人生を送ったと言っていました。
後日、私は師に「その人は仕事や家庭の義務を果たしたということで、カルマはなくなったのでしょうか?」と尋ねると、師は次のように答えられました。

「その我慢した何かが、次の生涯に引き継がれる」

何かを我慢した、犠牲にしたという心の思いすべてはカルマとなり、輪廻転生となる――つまり心の思いは、輪廻からの解脱という真実在の神の実現を阻む不要なものだといえます。

では、神の実現に不可欠なものは何なのでしょうか?
やはり、瞑想でしょうか?
バドリ・マハサヤは若き日のヨーガーナンダと瞑想をした際、

「お前はよく瞑想するようだが、アヌバーヴァ(実際に神を知覚すること)は進歩したかね?」

と言い、神よりも瞑想を愛してしまわないようにと教えています。
そして弟子の集いの中でバドリ・マハサヤが、華やかな宮廷生活を棄て修行者の仲間に入ったミラバイの詩を引用していたことを、ヨガナンダは書き記しています。
最後に、そのミラバイの詩を紹介したいと思います。

毎日水浴することによって
もし神を知ることができるならば
私は深海に住む鯨になろう。
木の根や草の実を食べることによって
もし神を知ることができるならば
私は喜んで野を駆ける羊になろう。
数珠を手にすることによって
もし神を見いだせるならば
私は巨大な数珠をもって祈りを捧げよう。
石像の前にひざまずくことによって
もし神を悟れるならば
私は地にひれ伏して石の山を拝もう。
ミルクを飲むことによって
もし神を受け入れることができるならば
子牛や緑児こそ神を知る者であろう。
妻を棄てることによって
もし神がわがものになるならば
多くの人が去勢されることを望んだであろう。
ミラバイは知っている
神を見いだすには
愛こそ唯一不可欠なものであることを。

手段に執らわれず、神への思い、それだけを純粋にしていきたいと切に願います。

 

ゴパーラ


The Truth Shall Make You Free 〜神聖なるものとの出会い〜

みなさん、こんにちは。
台風来てますね〜。ヨーガダンダさんが紹介してくれていたシヴァ神が大暴れ!です。

さてさて、上の写真は私が通っていた大阪女学院の正門です。(短大側)
私は中学高校と仏教の学校に通って「朝に礼拝、夕に感謝。慈悲やさしくきよらかに、和合なかよくたすけあって、精進つとめにはげみましょう」と6年間毎日朝礼で唱え、お花祭りでは玄関に飾られたお釈迦さまに甘茶をかけ、学年全生徒で正信偈なんかのお経を唱え、せっせと仏教的学校行事に参加してました。お釈迦さまの教えに触れた、学んだという記憶は一切ないんですけどね笑。高校卒業後は一転キリスト教の学校へ。ある意味改宗ですね笑。

短大時代は聖書がすごく好きになって、夢中になって読んでいました。今でも自分の聖書には当時の付箋がいっぱい貼られてます。学校内にあるヘールチャペルには特に礼拝の対象となるシンボルは飾られていなかったのですが、要らない装飾が一切ない質素さの中になんだか静かで神聖な雰囲気があって、礼拝にもよく通っていました。
といっても、その時にイエスさまへの信仰にぱーっと目覚めた!というわけではなかったのですが、この門に書かれた言葉に、なぜだか当時強烈に心が惹かれたんです。その言葉の意味は・・・

The Truth Shall Make You Free
真実はあなたたちを自由にする

その時自分の直観で分かったことは、この言葉自体が真実である、ということです。そして、私たちを自由にさせるという「The Truthー真実ー」というものが、ものすごくキラキラ輝いて見えて、猛烈に憧れたんです。振り返ってみると、理由なく惹かれたこの言葉との出会いが、自分の人生の中で神聖なものとの最初の出会いだったんだな〜、そしてそれがそれからの人生で大きな自分の鍵になっていたんだな〜と気がつきました。神さまはいろんな場面でヒントを与えてくださいます。その後もう10年以上この言葉のことも忘れてたんですけどね。大切なのはそれに気がついて、私たちが神さまを愛し、神さまを求めるようになるかどうか!なのかな?

私が好きな聖書の中の言葉は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」そして「神は愛である」ということです。ヨーガを学んでいくにつれて、ヨーガの教えとイエスさまが教えられていることは、本質的に一致していくことがわかってきました。

誰もの本質は真実であるところの、アートマンである。そのアートマンだけを見るようにと、何回も何回も我が師に教えていただいてきました。はじめは、そう言われてもアートマン以外のことしかないやん!!ってしつこく葛藤格闘してきましたけれども、それをそうなんや、そうなんやでって言い聞かせ続けて続けて続けて・・・(「失敗や小さい後退を気にするな。千回でも理想にしがみつくのだ。千回失敗したらさらにもう一度チャレンジせよ」というヴィヴェーカーナンダの言葉を励みにしながら。ヴィヴェーカーナンダが千回失敗したらって言われるなら、私は一千億回失敗したけど、もう一回って諦めず!)そしたら自分の心は降参したんです。矛盾だらけで完全でない自分の心は、やっぱり真実には最終的には勝てないんですね。

何かに捉われて自分を縛り付けていたものは結局は自分の心やったんやなぁって、本当に楽になりました。「真実はあなたたちを自由にする」という言葉へのあの時のなぜだかわからない憧れは、ここに繋がってたのかな〜。今はその真実なる教えによって、自分の心が “自由” の片鱗を大いに味わっているからです。

一つ前の記事で、ダルミニーさんがシュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサについて書いてくれていましたね。インドのカルカッタ郊外にあるラーマクリシュナ・ミッションの僧院ベルル・マト敷地内には、Ramakrishna Museumがあって、シュリー・ラーマクリシュナや彼の直弟子たちに縁あるものなどが展示されています。
私はそこで見た一枚の絵にものすごく衝撃を受けたんです。それは、主イエスが瞑想に座っている絵でした。それまでイエスさまが瞑想をされていたとか考えてもみなかったので、にわかには信じがたく非常に衝撃的だったのですが、その姿は父である “神” の至福に浸りきっているようで、「あなたたちは私を通して父の下に行く」という教えを絵で表すとこういう風になるんだろうなぁと素直に思えてきて、「私と父は一つである」という教えが自然と心にわき起こってくるようでした。
ああ、イエスさまが教えられていることはこうした瞑想の中で悟られたことなのかもしれないとなんだかすごくしっくりきて、イエスさまの教えとヨーガというものが一直線に繋がったように感じました。ちなみに、その絵ではないですが、私が好きなイエスさまの絵はこれです

そんなこんなで(突然ですが!?)私が担当させていただいている大阪の瞑想専科では、ブッダが教えられた瞑想の道に沿って学びを進めています。詳しくはこちらをご覧くださいネ。
9月24日(日)14時〜、瞑想一日体験会を開催しますので、この機会にぜひ瞑想を体験してみてください。ただ今ご予約受付中です!

また、大阪とは別に、京都では瞑想1日ワークショップが同じ24日にありますので、京都の方はぜひこちらにご参加くださいませ〜!

マーダヴィー