ブッダに迫る。

早いものでもう三月。春の気配が一気に増してきて、街はどこかウキウキした感じがします。新しいことを始めるには、いい季節ですね。

私も春から新しいチャレンジを始めました。
ブッダへの瞑想です。

ブッダを全く知らない方はいないと思いますが、私は限りなくそれに近い存在でした。
悟りを開いた仏教の始祖。キリストよりも古い時代の聖者。インドの山奥で修行した人。
正直その程度しか知りませんでした。

ブッダについて学んでいくと、先ずでてくる教えが、諸行無常・一切皆苦ではないでしょうか?
それにしても、なんと身も蓋もない言葉でしょう。
漢字四文字熟語というのもあいまって、私には厳酷でもの凄く陰気な、全く絶望のようなイメージしかありませんでした。
「そんなもの俺には関係ないぜ!!」と若い頃なら息巻いていたかもしれませんが、実際にこの年齢になると身にしみて思い知らされるばかりです。

「欲望を叶えたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、彼は実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。」
「欲望を叶えたいと望み、貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、彼は矢に射られたかのように悩み苦しむ。」

「いちいち言われなくても知ってます!」です。
でも分かっているのに、どうやったって同じ事を繰り返してしまいます。

それほどまでに人間は欲深く、儚いものになおさらのこと執着してしまいます。
ついには追い求めることがロマンだなんて言ったりもして・・・・・・

覚者からすれば馬鹿で愚かな人間も、幸せになりたいと願う気持ちは常に本心からあるのです。
ただ、無知がその純粋な願いを遠ざけ、延々と繰り返し続ける因果の輪から出られないのです。

仏陀は人間の苦しみを本気で真っ正面から考え抜いた人だと思います。
苦しみの種類を見分け、成り立ちを観察し、遂にはその原因と解消法を発見したのです。
でもそれは一般にはとても理解しがたく、簡単には手に入れられない境地でした。

命を賭けて自らを痛めつけ、全てを投げ打って苦行を課してもダメ。諦めて享楽に耽っていながら神頼みだけしていてもダメ。

「慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。」

慈悲喜捨を意味するという解釈もあるようですが、私は先日のサットサンガで師が仰った、四つのヨーガの完成形の心境のように感じました。

この世の理は確かに残酷で、夢も希望もねぇ!かも知れません。でもそれを大前提として認め、受け入れる覚悟をした上で、
実はそこから離れられる術があるのですよ!と諭して廻った。
本当は誰よりも人を愛し、生涯を目の前で苦しむ人に手を差し伸べ続けた、慈悲そのものの人だったのだと感じます。

仏陀よ、私は貴方のハートを理解できていますか?
私はもっと貴方を思い、貴方に迫ります。

二千五百年前、一人の人物が人類の根源的な問題の答えを解き明かした。
しかし仏陀以前にも、幾多の覚者がこの答えを解いていたと言っています。その記しは人類の共通の記憶として現代の私達の魂にも刻まれていると言います。そして瞑想で、その記憶にアクセスすることができるとも。

来月、四月八日は仏陀の聖誕日。そしてMYMの祝祭、サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラーが開催される日です。
それまでに少しでも深く仏陀のハートに迫って行きましょう!!

Caitanya


美しい世界が見たい

家庭を持ち、子育てをし、仕事をしていると、職場関連、子供の学校習い事関連。親戚関連など、本当にいろんな人とお付き合いする機会があります。

人と接する時、心に留めている言葉があります。

「トゥルシダスは『善い人にはこの世は善で満ちている。しかし悪い人にはこの世は悪で満ちている!』と言っている。この世は善くも悪くもない。私が善と呼ぶものをあなたは悪と呼ぶかも知れないし、その逆もあるだろう。何処に標準があるのか。標準は、人生に対するわれわれ自身の態度の中にある。各自がかれ自身の標準を持っているのだ。しかも経験と洞察力とが深まれば標準も変わって行く。残念なのは、われわれがまだ悪を認める、ということだ。われわれ自身が完全に善になったら、全世界が善として現れるであろう。われわれは自分の心の投影を見ているにすぎないのだ。常に一切万物の中に主を見よ。そうすればあなたは悪を見ないだろう。疑い深い心はあらゆる処に悪を見る、信頼の心は善だけを見る』

「だが、誰が理解しようとするか。誰もかれもが自分のエゴの中に閉じこもっている。その牢獄の中から、われわれは世界を判定する。治療法は、すべてのものの中に主を見ることである。」(スワミ・トゥリヤーナンダ)

人間関係でこじれるときは、よくよく考えると、結局どんなときも、自分の中に疑いの目があったことが分かります。神だけを見て謙ることが出来たとき、そこには美しい世界が広がります。

疲れていたり、自分を調えられていない時は、濁った目で人を判断しがち。

アーサナ・瞑想、真理の学び。地道なのだけれども、やっぱりこれらのクリアヨーガを毎日行うことが、素直に飛び込んでいける秘訣なのだと思います。

いつでも、どんなときでも、神だけしか見えない人に、なりたい。

京都のとある公園、桜の花が少し咲き始めていました。


ブラゴパーラ vol.5 「高山寺 明恵上人」編

皆様、こんにちは。
寒い日が続いていますが、わずかばかりか日差しも暖かく感じられ、春めいてきましたね。
今回のブラゴパーラでは、立春の2月4日に洛西高雄の「高山寺(こうざんじ)」を訪れてきました〜😎

ここは、洛中の喧噪を離れた深山。
凛と立つ杉の木が物語るように、そのプラーナ(気)は澄み切っていました。

境内に入ると、「明恵上人」の掛け軸がありました。

弟子の成忍が筆写したものといわれているそうです。

この高山寺は、鎌倉時代に明恵上人が開山したお寺。
大学で仏教を勉強していた私でしたがその当時は、明恵上人のことは「法然を批判したお坊さん」ということだけしか知りませんでした😅
この明恵上人は、『摧邪輪(ざいじゃりん)』という書物で法然の念仏を批判をしています。
その内容は、念仏を唱えることによって救われるとする法然の専修念仏に対して、仏道には悟りを求める「菩提心」が必要不可欠だというもの。
ただ今回、この明恵上人に触れてみると、念仏批判をしたこの明恵上人こそが「念仏者」なのでは👀❓と感じさせられました。

明恵上人は、宗派は華厳宗ですが、若い頃から真言密教や禅、またサンスクリット語を学んでいたエリート。
将来を嘱望されていましたが21歳の時に国家的法会の参加を拒み、その後は遁世して和歌山の白上、京都の高山寺で修行に励みます。
この間、ブッダへの強烈な思慕が顕著になってきます。
ブッダへの思いから『大唐天竺里程記』という書物を作って仏跡巡礼の計画を立て、2度もインドに渡ろうとしたほど(一度は病、二度目は春日明神の神託で断念)。
そして何よりブッダへの強烈な思慕の表れは、禅定に入るために自らの右耳を切り落としたということ――
出家して奥深い山に入ること自体、煩悩を断ち切らないとできないこと、またそこで修行していたら煩悩がなくなっていきそうな印象も受けます。
それでも心の奥深いところでは切っても切れない根深いものが煩悩だということを、明恵上人は教えてくれます。
しかし、その煩悩を断ち切って悟りに至りたいという覚悟から、彼は右耳を祭壇にくくりつけ、切り落とします。

「楞伽山(りょうがせん)」(インドの南海地方にあるとされる山)と名付けられた高山寺の裏山。
そこで穏やかな表情で瞑想している明恵上人。

ただ、切り落とされた右耳は隠れています。
私はこの掛け軸を見ているとその穏やかな表情の背後から、明恵上人の悟りへの凄まじい情熱と、そして何よりブッダへの愛を感じずにはいられません。
このブッダへの純粋な思いこそが「本当の念仏」ではないか、そう感じた今回のブラゴパーラでした。

この高山寺には日本最古の漫画とも称される絵巻物「鳥獣人物戯画」も伝わっています🐸🐰

ゴーパーラ


この春、瞑想を始めよう! in 松山

先週末2月17日に松山ヨーガ・サークルにて2018年瞑想特別クラス7回シリーズが始まりました。少し暖かく春の気配を感じる気候になり、松山ヨーガ・サークルの前では、目を引く鮮やかなピンク色のチラシを覗き込むように読んでいる人を見かけました。

昨年まで3年間瞑想特別クラスを行なってきましたが、今年からは基礎編「瞑想を始めよう!」に戻り、一から瞑想を学んでいきます。

初回「瞑想のイロハを学ぶ!」では、瞑想していくとどうなるのか、瞑想とは何なのか、どうやって進めていけばいいのかなど、今年一年の土台となることを学び、実習しました。初めて参加する方や、もう一度基礎から学びたいという方など、40名の方が参加されました。

*写真:ヨーガや瞑想の教えをわかりやすく学び、Q&Aで理解を深めていっています。瞑想していくと・・・・

  • 心がとても静かになり、いろんな執われから解放されていきます。
  • 心は澄み渡り、日常が変わります。
  • 不思議なことに、喜びに満たされていきます。
  • 集中力がつき、いろんな物事に動じなくなっていきます。

*写真:瞑想の実習では、静かな気が会場を満たします。

今回、昨年まで3年間熱心に学んで来られた山口さんが、ご自身の実践と経験を寄稿してくださいました。毎日の実践の様子が伺え、とても参考になる内容だと思いましたので、ご紹介させていただきたいと思います。


松山 瞑想特別クラスへの参加は、今年で4年目になります。

3年前、家族や世間への義務を果たしながらヨーガに取り組んでいくことは、困難なことだと感じていたのですが、今回、基礎編の第1回目を受けて、瞑想をしていくとどうなる?の教えに「たしかに!そうなるよなぁ。」と思いました。そうなんです。この3年間「実践していきたい」の感想しかなかったのに⁉︎です。

瞑想特別クラスでは、この3年間、心の仕組み、瞑想の目的や方法、ヨーガの教えを聞き、自らの理想の生き方、そのためにどうすることが必要か考える機会とそれを実践していく勇気や励ましを直接的な言葉ではないのですが頂いてきました。

ヨーガを初めてから瞑想の対象は、「神」と決めています。でも、毎日座ることはできなかったし、時間も短いし、神への瞑想というよりは、心のおしゃべりを聞いて終わるばかりでした。それが変わるきっかけになったのは、私にとっての理想の生き方が明確になって、神への想いを強くしていきたいと神の御名を唱え、神を讃え歌うと決めて、昨年の5月から毎日、キールタン を歌ったことです。場所に応じて、声を出したり、声は出さないで、心の中で歌ったりしています。

最初は、意識的に、心がおしゃべりをはじめたら歌うように癖をつけることからしました。でも、しばらくすると、意識的にしなくても気がついたら歌うようになっていました。最近では、仕事中でも、することがない時は、神の御名と神への想いが身体に流れて、嬉しくてニヤニヤしている自分に驚くことがあります。

日常の中で神を想う時間が増えると、アーサナや瞑想で心がおしゃべりをすることがなく、心の静けさの中で行うことが少しずつ増えてきました。また、アーサナや瞑想を行うことが神を想う時間を増やしてくれる、相乗効果があると感じています。

まだはじまったばかりの実践ですが、この1年、瞑想特別クラスを通してさらに、バクティ・ヨーガを深めていきたいです。

山口正美  *写真は、御聖誕祭でキールタンを奉納する山口さんです。山口さんは松山ヨーガ・サークルでキールタンの会をサブリーダーとして運営されています。


サットサンガより プレーマ 真の愛 

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

愛とはいったい何でしょうか?

愛する人がいるとき、気持ちが高まってただその人だけを思う。昼も夜もその人が心を占めている。
強い昂奮と多幸感に支配されて、食事もいらない、眠りもしない、そして何も恐くない。
でもその幸せな状態に長く留まりたいと願う反面、現実には時間と共にその感覚は薄まり、状況が少しずつ変化するにつれ、相手に対する新鮮味がなくなり気持ちが離れていくことも。

愛は絶対のものでしょうか?
永遠の愛、本当の愛とはどんなものなのでしょうか?

先日のサットサンガで、愛とヨーガについて師が説かれました。

「ヨーガの完成、悟るべき真実というのは不滅の存在。これは二つとない唯一の存在であり、純粋意識、そして至福という歓喜です。バクティ・ヨーガの完成とはプレーマという真の愛、本当の愛です。では本当ではない愛といえば何かというと、いわゆる人間的な愛。この世俗に見られる一時的な愛。これはその陰に憎しみやら、さまざまな不完全なものをもっているからゆえに真実ではない。
だけどバクティ・ヨーガにおける愛というのは、真実の愛。これは言い換えれば献身奉仕です。他者への愛。『隣人を愛せよ』というものにも通じる献身奉仕。

この献身奉仕はカルマ・ヨーガのゴールでもある。それは同時に自由自存というラージャ・ヨーガのゴールとされている境地でもある。また、それだけが在るというギャーナ・ヨーガのゴールでもある」 

四つのヨーガで悟る真実というのは、二つとない唯一の存在。それは純粋な意識であり、至福そのもの。
何物にも依存しない自由な自己。それだけが在るという境地、そのありのままの状態で他者に献身奉仕することが至福、つまり完全な真の愛と同一した状態。
これが解脱。ヨーガの完成。
何と美しく、完全で、円満で、自由なのでしょう。

師は最後に、エゴや無知に阻まれ、不完全ながらも世俗で修行する私達弟子に希望の言葉もおっしゃられました。

質問者「真理や神に対する最高の愛、プレーマは世俗に生きる生身の人間同士の間にも発生できますか」                                                                                    (低く力強いお声で)「できますとも」

質問者「それが自由自存ということになるのですか」                                                                           「はい、そうです。」

質問者「それは肉体の制限を超えるのですか。例えば生涯の間の時間であったりとかそういうものも超えて」
(即答される)「超えます」

質問者「永続するもの」
(ハッキリとしたお声で)「はい。」

私はまた雷に撃たれました。師の御言葉がハートを貫きました。

本当の愛を、何が何でも実現したいと心に誓いました。

Caitanya


ウェブサイトをリニューアル!

本日、マハーヨーギー・ミッションのウェブサイトをリニューアルしました! それにともない新しいコンテンツもいくつか増えましたのでご紹介したいと思います。

WEB

ぜひ、お読みいただきたいのは、「真理の教え」!
http://www.mahayogi.org/teachings-of-truth

記念すべき、シュリー・マハーヨーギー台湾初訪問、第一回目のサットサンガの記録を公開させていただきました!!!
答えを求めて熱心に問いかける人々、それに対し、軽快に、力強く、また親しみ深く語りかけ、導かれるシュリー・マハーヨーギー。快活にテンポよく進んでいく問答の様子からは、真理の息吹!まさにサットサンガの醍醐味が感じられる、臨場感溢れる内容となっています。

 さらに!師の教えのエッセンスを、生きる秘訣、ヨーガの道/実践、信仰と愛、瞑想、真理・真実在という5つの項目に沿って、新たに抜粋・編集したものも掲載しています。

 私たちが人生の中で唯一実現すべき真実と、そこに至る道しるべが、これほどシンプルで明快に、体験に基づいて具体的に示されていること、そして何より語られた存在が、遠い過去でもなく、海の向こうのインドでもなく、現代の日本に今、おられるということは驚くべきことでしょう。

この「真理の教え」の一ページが、何かを求め探している人、道に迷っている人の目に少しでも留まり、新たな扉を開くきっかけになったら、と願います。

 師シュリー・マハーヨーギーについて
http://www.mahayogi.org/shri_mahayogi

 その他、中世の聖人ミーラー・バーイー、チャイタニヤ、カビールの生涯や、台湾で活動しているヨーガの仲間、プラサーディニーの手記も掲載しています。


ラーマクリシュナの福音

みなさん こんにちは
もうすぐシュリー・ラーマクリシュナの御聖誕日です。

近代のインド最大の聖者と仰がれる、シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサは1836年2月18日に、インド西ベンガル地方のカーマールプクルにお生まれになりました。幼い頃より、高い霊的ムードに没入していた彼は、やがて最愛の聖母神カーリーを見神します。その後すべてのヨーガを実践、不二一元を大悟し、イスラム教やキリスト教も悟り、「万教は一なる真理への多様な道である」ことを説かれました。慈愛に満ちた神の化身によって顕わされた永遠普遍の真理は、愛弟子ヴィヴェーカーナンダによって世界中に福音となっていったのです。


シュリー・ラーマクリシュナ

シュリー・ラーマクリシュナは福音の中で、微笑しながら、少しどもってお話しになったり、若い男の子たちと友達のように大はしゃぎされたり、腹を抱えるほど爆笑されたり、歌を歌いつつサマーディーにお入りになったり、分かりやすい例え話を挟んで、さまざまなグルの面を弟子たちや訪問者にお見せになりながら、神の話をなさっています。

そしてシュリー・ラーマクリシュナはグルの恩寵について、こう説かれています。
「人には八つの足かせがある。しかしそれが何だというのだ。これらの足かせは神の恩寵によって一瞬のうちに落ちてしまうのだよ。それがどういうものか分かるか。ある部屋が一千年の間、真っ暗だったとする。誰かが灯火を持ち込んだら、その瞬間に闇は消えるのだ。少しずつではない。お前、魔法の早業を見たことはないか。彼はたくさんの結び目のあるひもを手にしている。その一方の端をなにかに結びつけ、他の一方を自分が持つ。そして二、三回そのひもを振り回す。するとたちまちすべての結び目は解けてしまうのだ。しかし別の男がどんなに試みても、それらの結び目を解くことはできない。無知というすべての結び目はグルの恩寵によって瞬く間に解けるのだ」

インドでは生涯をかけてグルを探し出すといわれています。グルと巡り会うことは本当に希有な吉祥な縁ゆえだといわれています。『ラーマクリシュナの福音』の筆者であるM(マヘンドラナート・グプタ)は、初めて自分のグルであるシュリー・ラーマクリシュナに出会った時のことをこう書いています。

「なんという美しいところだろう! なんという魅力のある人だろう! なんという素晴らしいことを言うのだろう! もうここから動きたくない!」

聖者との出会いは、人がその意味を知ろうと知るまいと、その人の心に神聖な印象を残します。
みなさんも師との出会いの時を思い出されましたか?
『ラーマクリシュナの福音』の中には、師と弟子の美しい物語もまた繰り広げられていると思います。ここでシュリー・ラーマクリシュナの弟子の中でも、そしてラーマクリシュナ僧団の中でも、スワミ・ヴィヴェーカーナンダと双璧をなした人物、スワミ・ブラマーナンダが残した祈りの言葉をご紹介いたします。

「私は主に、物質界の意識から完全に解放してくださいと祈ります。グルの蓮華の御足の中に浸りきりでいられますよう、どうぞお恵みください。これが心中の、たった一つの願いです」

 グルこそすべて!

ジャイ シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサ キー ジャイ

ダルミニー

 


神に委ねる

ここ最近のこと、ヨーガの先輩が我が家に寄ってくださり、「今日久しぶりにスーパーへ買い物に行く」とおっしゃっていて、「なんて格好いいのだ!」と思いました。

ヨーガ行者たるもの、最低限度のもので満足して生きるもの。

最近の私は、仕事帰りにスーパーに寄ることが楽しく、気が付けば必要のない食材まで買い込むことが増えていて、何かの欲求を買い物で満たそうとしていたことに気が付きました。先輩の自然な知足の在り方に、改めて自分の身を正したいと思いました。

その日からスーパーに寄ることを一旦やめ、まずは冷蔵庫を見てからメニューを考えることにしました。

冷蔵庫の中を見渡すと、わずかな種類の野菜と油揚げ、少し古くなったおじゃこ、卵、牛乳くらいしかなかったのですが、今までさまらさの台所でいろんなお料理を教えて頂いていたおかげで、いろんなメニューがふわっと頭に浮かび、おじゃこのパスタ、カボチャのスープ、カレー、かき揚げ丼、炊き込みご飯、白菜のクリームパスタなどが出来、買い物に行かなくても、こんなにもいろんなものが作れることに驚きました。

今ある食材を使って、どうしたら美味しいものが出来るだろう?と考えるのはとても楽しく、メニューを思い付いたら作る工程がまた楽しい。仕事から疲れた〜と思って帰ってきても、いつの間にか作ることに夢中になって、そのことを忘れていました。子供も夫も嬉しそうに食べてくれました。

知足という言葉と共に、私の中で浮かんだのは「神にすべてを委ねる」という教えです。今与えられている環境や状況に感謝し、その場を精一杯生きること。食材もそれと同じ、今与えて頂いているものに感謝して、その命を工夫し、生かし切ることは、具体的な実践なのだと思いました。

今夜は寒かったので、酒粕のリゾットにしましたご馳走様でした〜

 

 


『あるヨギの自叙伝を読んで』(5)――ラム・ゴパール・ムズンダー

この人生の中で誰もが一度ならず、「謙虚になりたい」と感じたことがあると思います。
特に傲慢👺になったりして、鼻を折った時などは……
しかし、打撃を受けた時には謙虚でありたいと反省するも、また同じ過ちを繰り返すこともしばしば……
では、どうすれば謙虚であり続けることができるのでしょうか?
『あるヨギの自叙伝』で紹介されているラム・ゴパール・ムズンダー、通称「眠らぬ聖者」は、驚くほどの深い謙虚さを教えてくれます。

若き日のヨーガーナンダは、人里離れた洞窟で長年クリヤー・ヨーガを行じて魂の目覚めを得たラム・ゴパール・ムズンダーという聖者に会いにいきます。
その途中、タラケシュワのヒンドゥー教の崇拝を集めている寺院に詣でるも、ヨーガーナンダはその祭壇の丸い石に頭を下げる気持ちになれず、寺院を出ます。
その後ヨーガーナンダは一人の男に道を尋ねてラム・ゴパールの家を目指すも一向に辿り着くことができす、灼熱の太陽の下、2日かけてやっとラム・ゴパールに会うことができました。
しかし、会ったばかりのラム・ゴパールは唐突にこう言います。

「ところでお前は、神はどこにおられると思っているのだね?」
「そうですね……神は私の内にもおられますし、また、すべてのものの内にも宿っておられます」
「では、どうして昨日タラケシュワの寺院で、石のシンボルに宿る神にお前はひざまずかなかったのだ? その傲慢さに対する罰として、お前はあのいたずら者から間違った道を教えられたのだ。おかげで今日もずいぶん苦しい思いをしたはずだ」

この会話の後、ラム・ゴパールはヨーガーナンダを家に招き、二人は4時間瞑想し、夕食を共にします。
この聖者は、岩屋で20年間毎日18時間、洞窟で25年間毎日20時間ずつ瞑想していましたが、それをまだ「わずかな瞑想をしただけで、はたしてどれだけ神に歓ばれているだろうか疑問に思っているのだ」と言います。
ヨーガーナンダは思わず、「先生は、そんなにも長い瞑想をなさって、それでもまだ神の愛がしっかりと確かめられないとおっしゃるのですか? それでは我々のような凡人はいったいどうしたらよいのでしょう!」とびっくりして尋ねると、ラム・ゴパールは次のように答えました。

「若者よ、神は永遠無限のものではないか。その神を、わずか四十年や五十年の瞑想で完全に知ろうなどと望むことが、そもそも無理というものだ。しかしババジは、われわれが少しでも瞑想すれば、死と死後に対する深刻な恐怖から救われる、と保証してくださった。お前の霊的修行の目標を、無限の神との合一に置きなさい。途中の小さな山々には目をくれず、ひたすらこの最高の目標に向かって努力すれば、お前は必ずそれを達成することができる」

そして毛布の上に横になって眠りに就いたヨーガーナンダに、ラム・ゴパールは次のように話しかかけます。

「まだ眠らないのか?」
「先生、どうして眠れましょう? 目を閉じても開いても、まばゆい光が私を取り囲んでいるのです」

翌日、もう一度例の寺院に詣でて、その祭壇の丸い石にひれ伏したヨーガーナンダ――

今回このエピソードを読んで私は、自分と同じ名前が付いている聖者ラム・ゴパールから、神への不断の瞑想と礼拝、それこそが謙虚さを深め、謙虚であり続ける秘訣であると学ばせていただきました。

ゴーパーラ


キールタン バクティ・サンガムへのお誘い

1月のバクティ・サンガムでは、これまで歌ってきたいくつかのキールタンでメドレーをしました。そして、曲と曲の間には、シュリー・ラーマクリシュナのバクティの教えを紹介しました。

クラスの中で紹介した教えを少しご紹介します。
(Mは、ラーマクリシュナの福音を書いた著者、詳しくは6つ前のブログ記事をご覧ください。師はシュリー・ラーマクリシュナ)

M「師よ、どのようにして神に心を集中したらよろしいでしょうか」

師「神の御名をとなえ、彼の栄光を歌い、よい仲間と交わり、ときどき神の信者やサードゥたちを訪れなさい。心は、日夜世俗のこと、つまり世間の務めや責任に没頭していたのでは神を思うことはできない。時々人気を離れたところに行って神を思うことが最も必要である」

M「神を見ることはできるのでしょうか」

師「できるとも。時々一人で暮らし、神の御名をとなえ、彼の栄光を歌い、そして実在と非実在を識別する、これが神を見るために用いられる方法だ」

M「どのような状態で、人は神を見るのでございますか?」

師「強烈な渇仰の心で主に泣きつくのだ。そうすれば必ず彼を見る。人々は妻子のために水差し一杯ほどの涙を流す。金のためには涙の中を泳ぐ。しかし、誰が神を求めて泣くのか。本当に泣いて、彼に泣きつきなさい」

この問答は、Mが初めて師を訪れたときのものです。その後聖者となったMも、かつては私達と同じ様に「どのようにして神に心を集中したらよいか」と思っていたのですね。とても親近感が湧きました。Mも実践したであろう、シュリー・ラーマクリシュナの教えを私も実践しようという気持ちになります。

さて、シュリー・ラーマクリシュナの教えに二度も出てきた「神の御名をとなえ、彼の栄光を歌う・・・」これはまさしくキールタンを歌うことではないでしょうか!!

そして「よい仲間と交わり、神の信者を訪れる・・・」これはまさにバクティ・サンガムに参加することではないでしょうか!!!

ということで、Mのように神に心を集中させたい方、信仰を深めたい方はぜひぜひバクティ・サンガムにご参加ください。2月もメドレーを行います!!大阪は2月9日(金)19時〜、京都は25日(日)16時45分〜、詳しくはWebでご確認ください。