グルと聖音オーム

今年も残すところ、1日ですね。
皆様、今年はどのような1年でしたか?

2017年のブログ「ヨーガを生きる」は、ヨーガ・ヴィハーラでの瞑想会からスタートしました。
そして先日、今年最後の瞑想会が行なわれました。
そこで私はこの1年、師からいただいた「お言葉」に瞑想しました。

今年いただいた目標である「自己実現」から始まり、「徹底的に識別を行なうこと」、また「ゴーパーラ」という聖名をいただいたことなど、この1年の師のお言葉を振り返っていました。
それは瞑想というよりは、思い返すというような心を使った作業でした。
しかしながら、それを続けていると突然、心が止まりました。
そしてその瞬間、場面が一瞬にして切り替わったかのようにして、「オーム」の音が聞こえてきました。
ヨーガダンダさんが唱えているのかなと思い、目を開けました。
しかしそれは、ヨーガダンダさんが唱えていたのではなく、ヨーガダンダさんから鳴り響き、また暖房や壁、絨毯、すべてから鳴り響いていました。
その時私は、師のお言葉を思い返していたから、オームの音が聞こえてきたのだと直観しました。

「プラナヴァ、即ち聖音オームは、無上の存在(神)であり、始原のグルであるイーシュヴァラを表す。プラナヴァ・サーラはサットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの教えの精髄(サーラ)――ヨーガの福音である」

改めてこの1年を振り返ると、毎週の直伝クラスをはじめ、4月の祝祭の開催、5月の松山特別サットサンガ、6月の京都特別サットサンガ、夏のニューヨークご訪問、また2度にわたる台湾ご訪問にと、師であるヨギさんが本当に動いてくださった1年でした。
特に直伝クラスでは、師の一押しでアーサナが深まり、師が近くを通るだけで集中が強められ、まさに師の一挙手一投足、すべてが導きでした。
また松山、京都、ニューヨークのサットサンガでは、どんな状況でも、どんな質問にも全く動じずに、誠実かつ泰然と答えられている師のお姿に、絶対の安心と信頼を感じずにはいられませんでした。
そして何より、そこには必ず「祝福」がもたらされていました。

先月のサットサンガで私は「自己実現の目標まで、あと1カ月しかありません」と言うと、師は次のように答えられました。

「まだ1カ月もある」

今年もまだ1日残っています。
目標達成、諦めません!!!


最後になりましたが、今年もブログ「ヨーガを生きる」をご拝読いただき、まことにありがとうございました。
新年からは、新体制で臨みたいと思っております。
皆様、来年もどうぞよろしくお願い致します😇🙏

 

ゴーパーラ


直伝クラスでの経験

ヨギさんの眼差し、声、長い足で颯爽と歩かれる時にそよぐ風。あまりにも魅力的で釘付けになってしまう。むっつりスケベの私にとって、ヨギさんを間近に感じながらアーサナによって内面でヨギさんに触れようとすることは、誰にも知られない神との密会のようで、とてもドキドキワクワクすることです。

私は腕が生まれつき曲がっています。10年くらいアーサナをしていますが、左右とも真っ直ぐには伸びきらず、アーサナの種類によってはできないだろう・・・と半ば諦めに近いポーズがいくつかありました。

ところが・・・ヨギさんのクラスに出始めて異変が起きたのです。
クラスが始まった頃、ヨギさんが口頭でアーサナのポイントを説明され、その言葉をもとに形を作っていきました。完成ポーズの保持時間が長く肘が曲がっていて苦手と感じるアーサナ(ヨーガ・ムドラー、チャクラ・アーサナ)のとき、心が悲鳴をあげてもがくような感じでも、ヨギさんと同じ空間にいる嬉しさの方がいつの間にか勝り、クラスに通うごとに肩関節の可動域が広がっていきました。

組んでいる手が中途半端にしか上がらずプルプルして死にそうだったヨーガ・ムドラーは、肩関節の可動域が広がったお陰で肩先を広げ、両側の肩甲骨を背中の中央に引き寄せる感覚を身につけることができ、組んでいる手が頭の方に楽に近づけるようになりました。今まで以上に深い形で呼吸に集中することができるようになり、ポーズを戻した時のプラーナの流れは激流のように感じられ、心が一気に静まり満たされる感覚を覚えました。

またチャクラ・アーサナは背中の肩口あたりに集中すると、長い保持時間の間、できる範囲で腕をしっかりと伸ばし、肩口のところに集中点をもってきてハートをヨギさんの方に向けていると、気付いたら腕で支えるのではなく、背骨で支えて保持する感覚が分かるようになってきました。

肘が曲がっているからできないという思いはいつの間にか消え、むしろするのが楽しみなアーサナになりました。

ある時、瞑想が終わりシャヴァ・アーサナをした時のこと。「はい、起きて」と言われたヨギさんの声が、ヨギさんが座られているところからも、自分の胸の中からも、両方から響き渡って聞こえてきました。びっくりしたのですが、それはとても当たり前のことのような感じがして安心しました。

『いつも私はみんなの中にいます』

ヨギさんの言葉が浮かびました。

どこにいてもヨギさんがいてくださることを胸に、もっとそれを味わえるように日々サーダナに取り組んでいきたいと思います。

 

アマラー


ラーマクリシュナの福音

皆さん、こんにちは
暮れも押し迫まってきましたね。今年一年、どのような年でしたか?
昨日よりも今日、今日よりも明日、日々、より良い自分でありたいものですね。
さて、今日も「ラーマクリシュナの福音」よりご紹介いたします。

シュリー・ラーマクリシュナ

ある日の土曜日、シュリー・ラーマクリシュナはラームの家の階下の客間で信者たちに囲まれて話をしておられた。最愛の娘を亡くしたばかりのブラーミンの婦人が、その悲しみを癒せないものかと、北側のドアのそばに立って話を聞いている。

ラーマクリシュナ「先日、ここにある男がやってきた。数分間坐っていたが、やがて『我が子の「月の面輪」を見に、帰りとうございます」と言ったものだ。私は自分を抑えかねて『お前は神の「月の面輪」より息子の「月の面輪」が見たいのか!出ていけ、この馬鹿者』と言ってやった。
神のみが実在、他のすべてのものは非実在、というのが真理だ。人々も、宇宙も、家も、子供たちも、こういうものは全部、魔法使いの魔法のようなものだ。魔法使いは杖をたたいて『不思議、不思議、摩訶不思議!』と叫び、見物人に向かって『さぁ、この壺の蓋を取り、鳥どもが空中高く舞い上がるのをごろうじろ!』と言うだろう。だが魔法使いだけが本当にいるのであって、彼の魔法は実存しないものだ。実存しないものは一秒くらい存在して消えてしまう。
シヴァがカイラース(シヴァ神の聖なる住まい)に坐っていらっしゃった。従者のナンディがそばにいた。突然恐ろしい物音がした。ナンディが『尊いお方よ、これはどういうわけでございますか』と尋ねたら、シヴァが『ラーヴァナ(ラーマ神に成敗された魔王)が生まれたのだ。そのことを示す音だ』とおっしゃった。数秒の後にもう一つ、恐ろしい音が聞こえた。ナンディが『今度は何の音なのでございましょうか』と尋ねると、シヴァが微笑して、『今、ラーヴァナが死んだのだ』とおっしゃった。誕生も死も魔法のようなもの、魔法は一秒間ほど見えていて、そして消えるのだ。
神だけが実在であって他の一切のものは非実在だ。水だけが実在であって水中の泡は現れたり消えたりする。それらは自分たちが生まれてきたその水の中に消えていくのだ。神は海のようなもの、そして生き物はその中の泡だ。彼らはその中で生まれてその中で死んでいく。子供たちというのは、一つの大きな泡のまわりに立っているいくつかの小さな泡だ。神だけが実存だ。彼への愛を養うよう努め、彼を悟る方法を見出しなさい。悲しんでいても何も得られはしない」

私たちの師は、悟りとは夢から目覚めるようなものだと教えてくださっています。

誰でも眠りから目が覚めたとき、夢の中で一喜一憂していた自分を一笑に付すように、真実在に目覚めれば、現実と思っていた世界も夢幻と知るだろう。

                   サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

現実だと思っているこの夢のような世界で、私たちはああでもない、こうでもないと右往左往しています。人の生も死も宇宙から見れば、ほんの一瞬のことなのでしょうか。
私たちは生まれることも死ぬこともない、絶対不滅の存在、永遠に続く純粋な意識なのだと師から教わってから、死ぬことは不幸なことでも、恐れるものでもないということが分かり、安心したのでした。この生のある間に、神だけに、真実在だけに心を思い留めておくことができること、それこそがこの夢の世界においては、いちばん大切で幸せなことなのだと学んだのでした。
あぁ、早くこの夢から目覚めて、真実となれますように。

ダルミニー


瞑想特別クラスin松山ー2017最終回

先週、7年ほど通われている方がクラス後にふと、「最初の頃は毎回同じアーサナをするから、1年もしないうちに飽きてしまうだろうなと思っていたけれど、最近はこのアーサナだけで十分だ、他に何もいらないという気になってきた。とても不思議!」というようなことを口にされました。

それを聞いて、「それがヨーガです!」と思って、とても嬉しくなりました。心はいろんなことをしたがりますが、不思議なことにヨーガを実践していると、あれだけざわめいていた心がいつのまにかおとなしくなり、単純なアーサナや瞑想の繰り返しの中に充満する喜びを感じるようになって、他に何もしなくてもいいような気持ちになってきます。そういえばその方は、ずいぶん職場のことで色々悩んでいたのに、クラスに通ってアーサナを一所懸命実践している内に、いつのまにか同じ職場なのにちっとも心が反応しないようになり、とても不思議がっていました。一つのことを繰り返し実践することが秘訣なのですね。

そういう話から、ヨーギーの生き方に学ぶ7回コースの最終回は、12月16日に松山ヨーガ・サークルで始まりました。最終回は「理想に生きる」がテーマで、スワーミー・トゥリヤーナンダとナーグ・マハーシャヤの印象的な言葉を紹介しながら、師の教えと行為を通して、ヨーギーとしての大切な生き方や歩み方を皆さんと一緒に学んでいきました。

最初に、「ヨーガの第一歩は、言葉を慎むこと、贈物を受けないこと、行動しないこと、そして孤独の生活である」というトゥリヤーナンダが少年時代に深く感動し、全生涯をかけてできる限り従おうとした聖典の章句に触れ、「自立」について学びました。そして、「外の世界はあなた方自身の心の投影ですー」というナーグ・マハーシャヤの言葉、「自分の運命は自分でしか切り開けない!自分次第!どんなカルマも過去のこと!今この時から変えていけばいい!」という師の言葉からヨーガの大胆な歩み方を紹介しました。さらに、「真理を悟ることだけが何よりも大事なこと!命よりも大切なこと!それがヨーガ行者の命綱」というヨーガ行者として最も大切な息吹を感じる師の教えを皆で分かち合いました。最後に、ヨーガの道を歩むにおいてはグルが不可欠であり、もし心に叶う正しいグルにめぐり合ったなら、その縁を決して逃さないようにと締めくくりました。

師は、「悟りの道も、いわば悟りという職人のようなもの。入門して見習いの頃は本当にしんどいアーサナをして、慣れない言葉を理解して、見えない心を見つめながら行動を制御して、大変だと思う。だけれど、それを体得できた時には、無駄なく自然に、聖典なりが伝えているものに見合った状態が生まれる」と言われます。まさに冒頭に紹介したエピソードのように、淡々と怠りなく熱心にヨーガを実践していれば、そのような境地に導かれるのだと思いました。

17日のサットサンガも多くの方が参加され、熱心な問答がありました。松山ヨーガ・サークルでは、今年一年、師の特別サットサンガや直伝クラス、そして春の祝祭や師の御聖誕祭を通して、多くの方がヨーガを深められたことを感じました。この日のサットサンガでの質問も、それを感じさせる真剣な質問と眼差しが印象的でした。

松山での瞑想特別クラスは師の導きによって2015年に始まり、今年で3年目になります。3年一区切りと言われますが、当初の願いが叶い、入門編、実践編、そして成就編を無事に終了することができ、そして熱心な方々と一緒に学ぶことができて、本当に嬉しく思います。

講座後に、ずっと参加してくださっていた方から、「最初の頃は話の内容がよくわからなかったけれど、今日の講座はよくわかりました」というようなことをニコニコしながら言われて、その方が慣れない言葉にも慣れてきたこともあるだろうし、日常で実践してこられたこともあるだろうし、私自身ちょっとは真理の教えの理解が深まり、少しはわかりやすく話せるようになったのかもしれないし、いずれにしても本当に良かったなあと心から嬉しく思いました。3年間お付き合いしていただきありがとうございました!自分にとってはずっと生きた学びの連続で、それが本当に楽しかったです。

最終回が、それぞれの人が次に繋がる歓びに満ちた会になり、とてもよかったです!

来年からは基礎編に戻り、スパイラルアップしていく予定ですので、また皆さんとお会いできることを楽しみにしています。本当に素晴らしい機会をいただき、師の恩寵と松山ヨーガ・サークルの皆さまの献身的な働きに感謝致します。ありがとうございました!

サーナンダ


淡味を知る さまらさの台所 12月

12月10日((日)に今年最後のさまらさの台所がありました。今回のテーマは「淡味を知る」ーー淡味とは素材の持ち味が生かされており、間の抜けた薄味でも、素材の持ち味が損なわれている濃い味でもない味付けのことです。しかし、味覚は習慣によって作られるので、普段自分が食べているものが濃い味なのか薄味なのか、淡味なのか、自分自身で判断することは難しいところでもあります。

今回の台所では、淡味を知るためにお出汁を使って、ある実験をしました。
昆布出汁に調味料を加えず、まずは素材の味をみんなで確認しました。昆布出汁は昆布を水に浸けている時間にもよりますが、そのままでも昆布の優しい味わいがあり、香りもあります。次に塩を少々加えました。すると塩味がするというのではなく、先ほど感じた昆布の味が突然味わい深いものになり、香りもより引き立ちました。次に薄口醤油をほんの少し加えました。すると体に染み渡る美味しさになりました。お吸い物の出来上がりですね。

このように淡味を知るためには、まずは素材そのものの味を知ることも大切です。素材の味を損なわないように、むしろより美味しさが引き立つように調味料を使う。さまらさでは、調味料は素材の味を引き出すために使うものだと考えています。決して調味料の味で食事をするのではないのです。

今回作った筑前煮やかぶの煮物もそれぞれの野菜の味がしっかりと味わえました。
    

節度ある食生活を心がけていくことは、行為や考え方にまで反映されます。ヨーガでは舌と心は非常に密接に関係していると言われ、習慣的に味の濃いもの、辛いもの、甘いものなど、欲求のままに食べているとそれらに依存し、それらがなくてはならなくなります。また体調の不調和を招き、心は依存を強めると言われます。味覚が習慣に頼っているのなら、素材の味を知り、淡味を味わうことが新しい習慣になることが望ましいですね。そうすることで、体調が整うのはもちろんのこと、心の依存を無くし、心を強くしていくことができると思います。日々の食生活を通しても心を整える術があります。

dav

 


サットサンガより ブッダの悟り

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん こんにちは
十二月になりましたね、十二月のことを「しわす」と言いますが、その意味と由来は定かではないそうです。十二月は年が果てる、年果つ、しはす、しわすになったという説もあるそうです。師も走る、師走といわれていますが、私たちの師はいつも泰然とされていますので、本当の意味はどうなのだろうと思ってしまいます。
さて前回のブログにもありましたが、十二月八日はブッダが悟りを啓かれた日でもあるというわけで、今回のサットサンガはブッダについての教えが多くありました。

質問者がブッダの説いた、弦は張りすぎても緩みすぎてもいい音は鳴らないというふうに、弦に例えられる中庸の教えについてふれた時のことです。

師「ブッダが言うところの弦の張り具合というチューニングは、当時行なわれていた一般的な修行、一方には苦行というものがあり、もう一方では犠牲供養という快楽的なものもあり、そのどちらでもない、中道の在り方がある、それは苦行のように身体を痛めつけることではなく、健康な身体と健全な心を養いながら、その中でこそ正しい瞑想が行なわれるということを諭した言葉なんです。中庸、中道といわれるところ、まさしくそれがヨーガの道でもあるわけです。
でも、悟りへのあるいは神への願望というのは強烈でなければならない。また純粋にそれを保っていかなければならない。悟りや神に心が全面的に委ねられてしまえば、四六時中、座っていようが立っていようが、何かをしていようが、いつも神への憧れや悟りへの煮えたぎるような思いがやってきます」

師「ブッダは、当時シッダールタといわれていた時代に六年間の苦行を行なっています。当時は苦行という体系が当たり前のように蔓延していたと思われるので、シッダールタもそれを試み、しかも語られるところによれば、過去にも未来にも現代にも、その当時にも、匹敵する者はないほどの苦行を行なった。
けれども悟れなかった、ということを実証したんです。それで棄てた。
伝説に語られるところによれば、衰弱して骨と皮のような状態になった身体をスジャータという娘のくれた乳粥で身体を回復していくわけです。そこに健全な心の境地というか、そういう閃きが生まれたんだと思う。そして静かに菩提樹の下に座って、そうして悟りを得たと、それが十二月八日のことであったということになります。ブッダは必死に可能な限りの苦行を自らに課せたと語られています」 

師が教えられる煮えたぎるような思いとは、例えばそれはシュリー・ラーマクリシュナが神を見ることができないのであれば、その喉をかき切って死んでしまおうとした思いと同じ。そして例えばそれは慧可が弟子入りを乞うため、達磨大師に切り落とした自分の腕を差し出した思いと同じ。例えばそれは明恵上人が世俗にまみえることなく仏道の志を貫くため、自分の耳をそぎ落とした思いと同じ。身命を顧みない、真実の実現のためへの執念と同じなのだと思いました。 

ブッダの凄まじいまでの悟りへの執念、煮えたぎるような思い、ブッダを語られた師のお言葉が、そこにいる求道者たちのハートに火を付け、燃え上がらせたのを私は感じ、胸が熱くなるのでした。

私たちの心にも、その煮えたぎるような思いがやってきますように。
来年もさらなる飛躍の年となりますように。

ダルミニー

 

 

 


直伝クラスでの経験

昨年の12月から、古代から伝わるヨーガの真髄であるアーサナ・瞑想を、師シュリー・マハーヨーギーが直接にご指導くださる直伝クラスが誕生しました!弟子たちはその貴重な経験によって、多くの霊的な気付きや恩寵がもたらされています。今回は、弟子のチャイタニヤさんがの直伝クラスの学びについて記事を寄せてくれました!


師が直接アーサナを指導される直伝クラス。
私はそこで、プラーナ(根本・生命エネルギー)という気の働きを自分自身の身体の中で、そして環境の中で確かに感じる事ができました。
また、それを自分で意識的に扱うことも出来る事に驚きました。

自宅でアーサナをするときは、習慣として行なっている部分が強く、内的集中が深まっても、自分の体感に懐疑的というか、それこそ『気のせいかも?』と、ことさら取り上げて考えないようにしていました。良く出来るときはそれなりで良いけれど、今ひとつなときは、『うまくできないのはこれこれが原因だ』とか、なんだかんだと心が一瞬ですり替わって、出来ない理由を正当化する癖がありました。

しかし直伝クラスの最中には、そういった心の思いそのものが起こる事もありません。気持ちが他の事に外れる事もなく、ただ呼吸に集中するだけです。保持する間は限界まで必死でやり、うまく出来ても、出来なくても心の反応や感想が全く出てこないのです。
いわゆる一点集中しているということだと思うのですが、普段以上に集中力が極まる状態が何十人の参加者で同時に起きているというところが凄いと感じました。
師の場を支配する力に何十人もの心が引き集められ、フリーズしてるような印象を受けました。

プラーナが感じられると、ポーズをつくるタイミングやシャバ・アーサナ(屍のポーズ)に入るとき、また次のアーサナに移るときの身体の動きや心構えにとても敏感になります。少しでも動きが荒かったり、慌てたような動きになるとどこか気持ち悪いというか、収まりが悪いような、不自然さや違和感を感じるようになりました。
全体の流れや、間合いの細かな変化を確かに身体でも感じられる様になりました。

いい流れで進む時にはシャバ・アーサナからすぐに次のアーサナに流れるように移行したいと感じ、呼吸や心が調わない時は一呼吸待つ。ここ!今!という絶妙のタイミングを自分の中で大事にして、プラーナの微妙な変化をしっかりと読みとるようにしています。

全体のアーサナがこのように行なえると、頭頂部から尾てい骨まで背骨を中心に中空のトンネルが空いた様に、身体が内側からすっかり換気されたような体感があります。
直伝クラス後は、ただ静かにじっとしていたい、なるべく小声で話したい、というようなポーッとした心地よい脱力が続きます。

師が会場をゆっくり歩かれるだけでスモークのように気が動いているのを感じます。
師に手を軽く触れられると、姿勢がグーッと伸びていくように感じ、自分はこんなにも深まったポーズが出来るのかと感じました。

私達は心を神だけに向けて、世の中を無私の生き方で献身していく。そう約束した弟子達をいつも見守ってくださる師。
直伝クラスは、その働きの為に必要な身体と心をつくる手解きを、師から授かっているわけです。
アーサナのみならず、ヨーギーとしての総仕上げをグルから直接受ける大変貴重な学びの場なのです。

Caitanya


スジャータの施しとブッダの悟り

ブッダは断食の苦行をやめ、村の娘スジャータから乳粥の施しを受け、瞑想の座につきました――

私は20歳の時、このスジャータ村を訪れました。
2500年前、ブッダが生きていた当時と変わっていないであろう田園風景と人々の暮らしがそこにはありました。

あれから13年経った今、私はこのスジャータのエピソードから、「人は何のために生きるのか?」ということを考えさせられます。

ブッダと同じ時代、マハーヴィーラという修行者がいました。
彼は生涯において厳格な戒律に従い、すべての生物に対して細心の注意を払って不殺生を実践し、最後は断食の修行で命を終えたといわれています。
不殺生の究極ともとれるマハーヴィーラの生き様からは、彼が命を懸けて「真理」に向き合っていた凄まじさが伝わってきます。

一方、ブッダは六年間の苦行の末、「健康な体と心を持ち合わせていなければ、悟りを啓くことは不可能だ」として、スジャータから乳粥の施しを受け、瞑想の座につきます。

ブッダとスジャータ。菩提樹の後ろに描かれている5人の修行者はブッダが苦行をやめたことを誹るも、後にサールナートでブッダから最初の説法を授かり(初転法輪)、弟子になったといわれています。

そして、その瞑想においてブッダは次の言葉を言ったといわれています。

「無知の中で100年生きるより、真理の中で1日生きる方がいい」

スジャータの施しとブッダの身体を満たした乳粥、瞑想の座についた大地、風や寒さをしのぐ大きな菩提樹、そしてブッダの大いなる覚悟――

一切が真理実現のために存在しているシーンが思い浮かびます。

12月8日はブッダが悟りを啓かれた日です。

ブッダの心境に思いを馳せ、そしてその偉大なる存在の御足に礼拝します。

ブッダが悟りを啓いた菩提樹。スジャータ村から少し歩いたところにありました。

 

ゴパーラ


バクティ・サンガム キールタン

天王寺にあるプレーマヨーガサークルで12月5日(火)にバクティ・サンガムが開催されます。http://www.mahayogi.org/classes/bhakti_sangam(詳しい場所と時間はこちらから)
熱心にヨーガを学ぶ尾崎さんが、バクティ・サンガムとキールタンの魅力について書かれた文章をご紹介いたします。

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先週のクラスは「バクティ・サンガム」でした。年に4回しかない貴重なキールタンのクラスですので毎回とても楽しみにしているのですが、今回はいつもと違いました。というのも、私はここ最近ヨーガに真剣に取り組むことができなかったのです。

きっかけは些細なことで動揺し、ズルズルと心に振り回されている自分に気づいたことでした。思い通りにならないことに直面して苦しいばかりか、ヨーガを学んでいるが故に心を制御できないことに対して不甲斐なさも感じ、また苦しくなる。同じ苦しさを感じるのならヨーガを知らない方がマシだったのではないか?何のために苦しんでまでヨーガを学びたいと思うのか?また、家族と暮らす身でヨーガを学ぶことに窮屈さを感じていました。どちらも大切で優先させたいけれど、どうすればできるかわからない。自分にはできない。 かと言って、今さらヨーガの教えなしに生きていくなんて到底無理だとわかっている。それなら今まで学んだ少しのヨーガの教えと時々アーサナをやっていれば、それでいいんじゃないか?そんな事ばかり考えていました。 もう、心はドロドロとしたエゴでいっぱいでした。

そんな最悪の状態でしたが京都のヨーガの師のところへ行く機会があり、そのままの気持ちを聞いていただきました。師はいつもの穏やかな笑顔で「とにかく少しでいいから毎日アーサナと瞑想をすること。続ければ必ず変わるから」と仰られ、やはり続ける他に道はないのだと気持ちを新たにしましたが、どこか靄のかかったスッキリとしない気持ちのまま「バクティ・サンガム」を迎えました。

今回は「Nanda La La」というゴーパーラ(クリシュナの幼少期の名)を歌ったキールタンを教えていただきましたが、メロディが頭に入ってきません。神に向けて歌うなんてほど遠く、必死に歌詞カードを追っているうちに1回目のキールタンが終わってしまいました。続いて、ミラバイさんがゴパーラ・マーのお話をしてくださいました。それを聞いて私のハートは大きく揺さぶられました。

ゴーパーラ・マーは幼くして未亡人となり、貧しい生活をおくっていましたが、とても信仰心が篤く、朝は3時に起床し、夜遅くまでジャパ(神の御名を詠唱するマントラのようなもの)を唱えるなど、苦行を行っていました。また、ラーマクリシュナを純粋に愛し彼のもとへ足しげく通っていました。ある朝、いつものようにジャパを唱えていると左側にラーマクリシュナが座っておられるのに気づきます。そっとその腕に触れた途端、その姿は生後10か月ほどのゴーパーラのビジョンに変わりました。ゴーパーラはゴーパーラ・マーを「お母さん」と呼び、イタズラをしたり甘えたりしてきます。彼女はゴーパーラの世話に没頭し、ジャパや苦行をするどころではなくなってしまいました。

夜が明けるとゴーパーラのビジョンを抱いてラーマクリシュナのもとへ向かいました。ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナに昨日あったことを涙ながらに高揚しながら話します。その間ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったりするのを見て、ラーマクリシュナとゴーパーラは同じなのだと気づきます。その数日後、ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナから「もうジャパはしなくていい。おまえは一切を成就したのだ」と言われました。「だが、私の体が健康であるように修行をしてくれるか?」とも言われ、ゴーパーラ・マーは「これからは全てあなただけに捧げます」と誓い、一層修行に励みました。ゴーパーラのビジョンは2か月間ほど続き、その後も瞑想すればゴーパーラが彼女の前に現れたそうです。


ゴーパーラはバターが大好物。
こっそり食べていたのがお母さんに見つかってしまいました。

私はこのお話を聞いていたとき、ゴーパーラのビジョンがミラバイさんの周りをぴょんぴょん飛び跳ねて遊んでいる姿が見えた気がしました。そうしたら、ゴーパーラが自分の家族の姿と重なり涙が溢れてきました。そして、ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったり…という所で、私は大切な事を忘れているのに気づきました。

「人は皆、神なる存在である」ということです。もちろん家族も一人一人が神なる存在であり、家族に奉仕することは神に奉仕すること。私がヨーガか、家族か、と悩んでいたことは全くの愚問だったのです。私は、家族という無償の奉仕を捧げることができる環境を与えて頂いていたのに、それに気づかないどころか、ヨーガと真剣に向き合えない言い訳にしていました。2回、3回と「Nanda La La」を歌うたびに今まで否定的に考えていたことが、全て正反対であったこと、師からたくさん恩寵を受けていることに気づき涙が止まらなくまりました。

いつもはキールタンを歌うと、なんだかわからないけど喜びが溢れ涙が出てくるのですが、今回は歌いながら様々なことに気づき、終るころには、それまで感じていた靄はなくなりスッキリした気持ちになりました。本当に一生懸命、神に集中してキールタンを歌えば、それは識別瞑想をも上回ることがある。と、ミラバイさんが経験談を話してくださいましたが、ほんの少しそれを味わえたのかもしれません。

やっぱりキールタンって、いい ヨーガって、面白い


千本丸太町で朝ヨーガ・瞑想!!

ジャイ!!!ジャヤンティー!!!

先日23日は私たちの師であるヨギさんの御聖誕日でした。

ヨギさんの純粋な愛に触れると、嬉しくて嬉しくて嬉しくて、胸の奥から歓びが溢れ出す、言葉では言い表せない歓喜。その愛の深さにずっと魅せられ続け憧れ続け、私はヨーガをしてるんだ、と改めて思ったのでした。

さて、まだ興奮は冷めませんが10月から始まった金曜日午前のアーサナ・瞑想クラスについてご紹介させて頂きたいと思います。
まずは会場の様子から・・・
ヴィハーラの目印は何と言ってもジャーン!このオレンジの看板です。

朝の爽やかな空気を吸い込み、この扉をくぐり抜け階段を上がると・・・雪国!ではなく、落ち着いた緑色の絨毯が敷き詰められ、壁にはインドの神様(ドゥルガー女神、シヴァ神、クリシュナ神)の絵が飾られた美しい空間がお出迎えをしてくれます。神聖なプラーナ(氣)に包まれたこの空間でアーサナをすると集中が高まり、ポーズが家よりも深くできるから驚きです!

平日(金曜日)午前中のこのクラスは、土日や夜に外出が難しい主婦の方にぜひ来て頂きたいという思いで始めました(もちろん主婦以外の方、男性も大歓迎です)。
家事や育児、仕事に日々追われて過ごしていると自分自身のことはつい後回しになりがちですよね。このクラスの時間は静寂の中、自分自身と丁寧に向き合うことができます。
アーサナのポーズ中1つ1つのポイントを確認しながら呼吸に集中していくと、心は穏やかになり身体の疲れは癒されていきます。
例えば私自身の例でいうと、些細なことで夫と言い合いになりプンプン怒っていたりしても、クラスに来てアーサナをすると心が落ち着いて素直になれたり(仲直り)、子どもと同じ布団で寝ていて寝返りがうてず肩や腰が痛くなっていたのがすっかり解消されたり、とっても不思議なのですがこの1時間半の間に心も身体も軽やかになってクラスに来る前の状態とすっかり変わってしまうことがよくあります。

クラスに来られた方からも「すっきりしました!」という言葉や「気持ち良かった」という言葉、「普段意識しない身体の部分が動かせて良かったです」という言葉など、嬉しい感想を頂いています。ヨーガの素晴らしさをより多くの方に体感して頂けたらと思います。

これから寒くなりますがお部屋を暖めていますので、安心してご参加ください😊

オレンジの扉の向こうでお待ちしています〜!

アマラー